第2話 謝らない投手
もうソフトボールには関わらない。
そう決めていた里帆は、黒瀬蒼真に誘われ、地元高校の女子ソフトボール部を見に行くことになります。
そこで出会ったのは、マウンドに立つたびに「ごめんなさい」と謝ってしまう一年生投手・朝倉芽衣でした。
海から近いその高校は、少し古びていた。校舎の白い壁はところどころ雨に汚れ、グラウンドの端には雑草が伸びている。バックネットは錆び、ベンチの屋根は色褪せていた。
女子ソフトボール部の部員は、十人ほどしかいなかった。
声は出ている。けれど、どこか軽い。全力になりきる前に、負けることに慣れてしまったような空気がある。
蒼真はノックバットを持ち、内野にゴロを打っていた。
「腰が高い。ボールにお願いするな。自分で捕れ」
「はい!」
「返事はいい。足を動かせ」
相変わらず口が悪い。
里帆が苦笑していると、ブルペンの方から鋭い音がした。
ミットにボールが収まる音。
振り向いた瞬間、里帆の胸が少しだけ震えた。
投げていたのは、小柄な少女だった。
朝倉芽衣。
おそらく彼女だ。
細い腕。まだ成長途中の体。けれど、腕の振りは速い。指先に力がある。球は重くないが、勢いがある。
ただ、投げた後の顔が暗かった。
一球ごとに、誰かに許しを求めるような目をする。
捕手役の上級生が声をかける。
「芽衣、もっと自信持って投げなよ」
「はい」
返事は小さい。
次の球は高めに抜けた。
「ごめんなさい」
芽衣はすぐに謝った。
里帆は胸が痛くなった。
謝るな。
マウンドで謝る癖がつくと、球が弱くなる。
そう言いたくなった。
けれど、自分には言う資格がない。
里帆がフェンス越しに見ていると、蒼真が近づいてきた。
「来たな」
「少しだけです」
「十分だ」
「あの子が芽衣ちゃん?」
「ああ」
「球は速いですね」
「だろ」
「でも、投げる前から怖がってる」
里帆が言うと、蒼真の目がわずかに動いた。
「分かるか」
「分かります」
「どうしたらいい」
里帆はフェンスの向こうの芽衣を見つめた。
少女はまた投げた。今度は低く外れた。すぐに頭を下げる。
「まず、謝るのをやめさせる」
「それは言った」
「言われてやめられるなら、最初から謝りません」
里帆は自分でも驚くほど、自然に言っていた。
「謝るのは、怒られたくないからじゃない。自分を守りたいからです。先に自分で自分を下げておけば、他人に傷つけられる前に済むから」
蒼真は黙って聞いていた。
「でも、それを続けると、自分の球まで信じられなくなる」
「経験者みたいな言い方だな」
「経験者ですから」
口にしたあと、里帆ははっとした。
もう違うと言ったばかりなのに。
蒼真は少しだけ笑った。
「じゃあ、教えてやってくれ」
「無理です」
「なぜ」
「私は、投げられない」
「投げろとは言ってない」
「それに、私は指導者じゃない」
「指導者じゃない人間の言葉だから、届くこともある」
里帆は答えられなかった。
そのとき、ブルペンから大きな音がした。
芽衣の投げた球が捕手のミットを弾き、後ろのフェンスに当たった。捕手役の上級生が痛そうに手を振る。
「ご、ごめんなさい!」
芽衣の声が裏返った。
周囲の部員たちが一瞬、沈黙する。
その空気に耐えられなかったのだろう。芽衣は帽子を深くかぶり、下を向いた。
「どうせ私なんか、いてもいなくても同じです」
小さな声だった。
でも、里帆には聞こえた。
胸の奥で、何かが静かに切れた。
里帆はフェンスの扉を開けていた。
「同じじゃない」
グラウンドの空気が止まる。
芽衣が驚いた顔でこちらを見た。
里帆は、自分の声が震えていないことに少し驚いた。
「投手が自分でそう言ったら、後ろで守ってる子たちはどこを見ればいいの」
芽衣は目を見開いた。
「す、すみません」
「謝らない」
「え」
「今、謝るところじゃない」
里帆はゆっくり近づいた。
土の匂いがした。
懐かしい。嫌になるほど懐かしい。
「球、見せて」
芽衣は戸惑いながら蒼真を見た。
蒼真は顎で促した。
芽衣は一球、投げた。
高めに浮いたが、腕は振れている。
里帆はその球筋を見て、言った。
「速いね」
芽衣の顔がわずかに変わった。
「でも、速い球を投げようとしすぎて、最後に目が逃げる。ミットを見てるようで、見てない」
「目……ですか」
「うん。肩で投げる前に、目で投げる。自分が投げたい場所を、最後まで見る」
芽衣は黙って聞いていた。
「もう一球」
芽衣が頷く。
構える。腕を振る。
今度は、ミットの少し内側に決まった。
乾いた音が響いた。
部員たちが、おお、と声を上げる。
芽衣自身が一番驚いた顔をしていた。
「今の球、謝る?」
里帆が聞くと、芽衣は首を横に振った。
「謝りません」
「じゃあ、覚えておいて。あなたの球は、ちゃんと人を黙らせる力がある」
芽衣の目に、かすかな光が戻った。
その瞬間、里帆は胸の奥に痛みを感じた。
自分はこの子に何を言っているのだろう。
かつて自分が一番聞きたかった言葉を、今さら誰かに渡している。
練習後、芽衣は里帆の前に立った。
「あの、ありがとうございました」
「私は何もしてないよ」
「でも、初めてでした」
「何が?」
「私の球を、ちゃんと見てくれた人」
里帆は何も言えなくなった。
芽衣は帽子を握りしめた。
「また、来てくれますか」
まっすぐな目だった。
逃げ場がなかった。
里帆は困って、蒼真を見た。
蒼真は知らん顔をして、道具を片づけている。
卑怯な人だと思った。
でも、芽衣の目を見ていたら、嘘はつけなかった。
「時間が合えば」
そう答えると、芽衣は花が開くように笑った。
その笑顔を見た瞬間、里帆は思った。
ああ、また始まってしまった。
終わらせたつもりだったものが。
捨てたはずのものが。
自分の中で、もう一度音を立て始めている。
それから里帆は、週に二度、練習を見に行くようになった。
最初はただの手伝いだった。
グリップテープを巻く。ボールを拾う。投球練習を見る。芽衣に少しだけ助言をする。
けれど部員たちは、思った以上に里帆の言葉を吸収した。
打てない子には、相手投手の癖を見ることを教えた。
守備で怖がる子には、エラーをしない構えではなく、次に動ける構えを教えた。
足の遅い子には、一歩目だけは誰より早く出る方法を教えた。
里帆は、いつの間にか夢中になっていた。
走り込みの後に倒れ込む部員たちを見ると、笑ってしまう。夕方のグラウンドで、ユニフォームが泥だらけになるのを見ると、胸の奥が熱くなる。
自分はまだ、これが好きなのだ。
ソフトボールが。
白いボールが。
ミットの音が。
マウンドに向かう背中が。
それを認めるのは、怖かった。
好きだと認めてしまえば、失った痛みもまた本物になる。
でも、好きではなかったことにはできなかった。
五月の終わり、地区大会の組み合わせが発表された。
一回戦の相手は、県内でもそこそこ実力のある高校だった。
蒼真は組み合わせ表を見て、短く言った。
「悪くない」
「強いんですよね」
里帆が聞くと、蒼真は頷いた。
「でも、勝てない相手じゃない」
部員たちはざわついた。
「本当ですか?」
「去年、うち二十点取られてますけど」
「それは去年のお前らが弱すぎただけだ」
「コーチ、ひどい!」
「今年は少しだけマシだ」
「少しだけ!」
笑いが起きる。
里帆はその光景を見て、胸が温かくなった。
負けることに慣れていたチームが、少しずつ勝つことを想像し始めている。
その変化は、派手ではない。
でも確かに、グラウンドの空気を変えていた。
大会一週間前の日曜日、里帆は芽衣と二人でブルペンにいた。
蒼真は別メニューで守備陣を見ている。
芽衣はこの一ヶ月で、見違えるほど変わった。球速が急に上がったわけではない。魔法の変化球を覚えたわけでもない。
でも、目が逃げなくなった。
投げた後、すぐに謝らなくなった。
打たれても、次の球を考える顔になった。
「芽衣ちゃん」
「はい」
「投手は、全部背負わなくていい」
里帆が言うと、芽衣は首をかしげた。
「でも、私が打たれたら点が入ります」
「うん。でも、あなた一人で負けるわけじゃない。あなた一人で勝つわけでもない」
「瀬名さんも、そう思って投げてたんですか」
里帆は一瞬、言葉に詰まった。
自分はどうだっただろう。
全部背負っていた気がする。
期待も、責任も、チームの空気も、自分の価値も。
背負いきれないものまで背負って、壊れた。
「昔の私は、そう思えなかった」
里帆は正直に答えた。
「だから、あなたには間違えてほしくない」
読んでくださりありがとうございます。
第2話では、里帆が再びグラウンドに立ち、芽衣の投球と向き合いました。
「謝らない」
かつて自分が言ってほしかった言葉を、今度は里帆が少女投手に伝える回でもあります。
次話では、里帆の過去を知る人物・神崎美羽が再び現れます。
止まっていたはずの過去が、いよいよ現在のグラウンドへ踏み込んできます。




