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奪われたマウンドを、もう一度  作者: ちょこまろ


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第1話 ポスターの中の背番号1

かつて背番号1を背負っていた元実業団投手・瀬名里帆。


夢を失い、ソフトボールから距離を置いて生きていた彼女は、ある日、一枚のポスターを目にします。


そこに写っていたのは、忘れたはずの過去と、忘れられなかった名前でした。

 そのポスターを見た瞬間、瀬名里帆は、十年近く前に脱いだはずのユニフォームが、まだ自分の皮膚の下に貼りついていることを知った。


 四月の午後だった。


 海沿いの町にあるスポーツ用品店は、平日の昼下がりらしく静かだった。入口の自動ドアが開くたびに、外から潮を含んだ風が細く入り込み、陳列棚に並んだグローブの革の匂いと混ざる。


 里帆はレジ横で、少年野球用のスパイクに値札をつけていた。


 白い紐を通し、タグを引っかけ、サイズを確認する。そんな単純な作業をしていると、心は平らになる。余計なことを考えずに済む。


 いや、済むはずだった。


「瀬名さん、これ、商店街の掲示板にも貼ってきてって店長が」


 アルバイトの大学生が、丸めたポスターを抱えて戻ってきた。


「はい。そこ置いておいて」


「なんか、すごい人来るみたいですよ。元実業団のソフトボール選手らしいです」


 里帆の指先が、一瞬だけ止まった。


「へえ」


 それだけ答えた。


 大学生は何も気づかず、ポスターを広げた。


 鮮やかな青空を背景に、白いユニフォームの女性が笑っていた。短く結んだ髪。明るい目。まっすぐに前を向く、強い人間だけができる笑顔。


 大きな文字が躍っていた。


 諦めなかった人だけが、夢の続きを見られる。


 元実業団ソフトボール選手・神崎美羽 特別講演会。


 里帆は息をするのを忘れた。


 神崎美羽。


 その名前は、もう何年も口にしていない。聞かないようにしていた。検索もしなかった。SNSも見なかった。


 でも、忘れていたわけではなかった。


 忘れられるはずがなかった。


 ポスターの中の美羽は、現役時代のユニフォームを着ていた。胸には、かつて里帆が所属していた実業団チーム、東都フェニックスのロゴ。


 そして、胸に刻まれた番号。


 1。


 里帆の呼吸が浅くなった。


 それは、私の番号だった。


 声にはならなかった。


 喉の奥に、硬いものが詰まったような感覚だけが残った。


「瀬名さん?」


 大学生が首をかしげる。


「顔色、悪くないですか」


「大丈夫」


 里帆は値札をつけていたスパイクを棚へ戻した。


「ちょっと、倉庫見てくる」


 そう言って、逃げるように店の奥へ入った。


 倉庫は薄暗かった。段ボールと古い在庫の匂いがする。壁際に積まれたバットケースの間に身を寄せて、里帆はようやく息を吐いた。


 膝が震えていた。


 たかがポスターだ。


 もう自分は二十九歳だ。あの頃のことなんて、終わったことだ。ソフトボールから離れて七年になる。実業団の名前を聞いたくらいで、こんなふうになる必要はない。


 そう思おうとした。


 けれど、ポスターに書かれた言葉が、胸の内側を容赦なく引っかいた。


 諦めなかった人だけが、夢の続きを見られる。


 違う。


 私は、諦めたんじゃない。


 夢から逃げたんじゃない。


 逃げたのは、チームだった。


 私の肩を壊した人たちだった。


 私が壊れていくのを、一番近くで見ていたあの人だった。


 里帆は右肩に手を置いた。


 もう日常生活に支障はない。重い荷物も持てる。店で野球用品を運ぶこともできる。


 でも、全力で投げることだけはできない。


 肩は、覚えている。


 あの日の熱を。痛みを。投げた瞬間、何かが切れたような感覚を。


 そして、ブルペンで球を受けていた美羽の顔を。


 ――里帆、今日の球、少し抜けてる。


 あの声は、優しかった。


 少なくとも、そのときはそう聞こえた。


 けれど美羽は、監督には何も言わなかった。


 止めてくれなかった。


 里帆が「肩がおかしい」と言ったとき、美羽は目を伏せて、こう言っただけだった。


 ――今日、代表の人が来るんでしょ。ここで投げなかったら、たぶん次はないよ。


 心配ではなく、確認に近い声だった。


 投げるよね。


 投げるしかないよね。


 だって、ここで降りたら終わりだもんね。


 そんなふうに、里帆をマウンドへ押し戻す声だった。


 実業団二年目の春。


 女子ソフトボール日本代表、SOFT JAPAN。


 その強化指定候補に、里帆の名前が挙がっているらしい。


 そんな噂がチーム内で流れていた。


 正式に選ばれたわけではない。通知が来たわけでもない。


 でも、手を伸ばせば届くかもしれない場所だった。


 高校時代から、ずっと見上げてきた場所。


 テレビの向こうではなく、自分の人生の延長線上にあるかもしれない場所。


 その日、代表関係者が視察に来る予定だった。


 里帆は投げた。


 肩が痛いのに。


 指先の感覚が鈍いのに。


 美羽のミットが、遠く見えるのに。


 ――里帆が投げられないなら、私たちが困るんだよ。


 試合前、美羽はそう言った。


 笑顔だった。


 でも、里帆の肩を心配する笑顔ではなかった。


 勝つために、チームのために、そして美羽自身が居場所を失わないために、里帆をマウンドへ立たせる笑顔だった。


 里帆は、その笑顔を信じた。


 信じたかった。


 そして、五回の先頭打者に投げた一球で、右肩に焼けるような痛みが走った。


 その瞬間、里帆の夢は止まった。


 病院では、時間がかかると言われた。無理をすれば選手生命に関わるとも言われた。


 しかしチームの発表は違った。


 コンディション不良。


 本人の調整不足。


 その後、里帆の居場所は少しずつなくなった。


 練習メニューから外され、遠征メンバーから外され、いつの間にかロッカーの中身を片づけるように言われた。


 美羽はチームに残った。


 捕手だった彼女は、里帆の離脱後に内野も兼任するようになり、明るいキャラクターでメディアに出るようになった。引退後は講演活動を始め、今では「努力で道を切り開いた元アスリート」として知られているらしい。


 夢を語る側に、彼女は立っていた。


 里帆の夢を一番近くで見ていた人が。


「……笑える」


 倉庫の中で、里帆は小さく呟いた。


 でも、笑えなかった。


 目の奥が熱かった。


 うれしい時にしか泣きたくない。


 そう思って生きてきたのに、悔しい時ばかり涙が出そうになる。


 里帆は唇を噛み、涙を押し戻した。


 泣かない。


 あの人のために、もう泣かない。


 そう決めたはずだった。


 その夜、里帆は閉店後の店で一人、グローブの手入れをしていた。


 客から修理を預かった古いファーストミットだ。革は乾いていたが、丁寧にオイルを入れればまだ使える。里帆は布に少量のオイルをなじませ、指先でゆっくり伸ばした。


 グローブは正直だ。


 使われた時間が、革の癖になる。


 雑に扱われたものは硬くなる。大切に使われたものは、手に吸いつくように柔らかくなる。


 人間もそうならいいのに、と里帆は思った。


 傷ついた時間が、ただ優しさになればいいのに。


「まだいたのか」


 低い声がして、里帆は顔を上げた。


 入口に、背の高い男が立っていた。黒いジャージに、少し古い野球帽。無精ひげとまではいかないが、きれいに整えられているとは言い難い顎。手には大きなスポーツバッグを持っていた。


「あ、黒瀬さん」


 里帆は表情を整えた。


 黒瀬蒼真。


 元プロ野球選手。肩を壊して引退し、今は地元の高校で女子ソフトボール部の外部コーチをしている。


 この店には、練習道具の注文や修理で時々来る。


 口は悪い。愛想もない。けれど、道具の扱いは丁寧だった。


「店、もう閉まってますけど」


「分かってる。明日でいいって言われたけど、通りかかったから置いてく」


 蒼真はバッグから、ソフトボール用のバットを三本取り出した。


「グリップ交換。できれば急ぎ」


「またですか。部員さん、よく振ってますね」


「振ってるだけならな」


「どういう意味ですか」


「当たらない」


 あまりに真顔で言うので、里帆は少しだけ笑ってしまった。


「それ、コーチの責任じゃないですか」


「だから道具に責任転嫁しに来た」


「最低ですね」


「知ってる」


 蒼真はカウンターにバットを置いたあと、里帆の手元を見た。


「そのミット、いい革だな」


「古いですけどね。ちゃんと手入れすれば、まだ使えます」


「人間もそれくらい分かりやすければいいのにな」


 里帆の指が止まった。


 蒼真は、こちらを見ていない。ただミットを見ている。


 それなのに、なぜか胸の奥を見透かされたような気がした。


「……何かありました?」


 里帆が聞くと、蒼真は少しだけ目を細めた。


「それはこっちの台詞だ。昼間、店の前通ったら、お前、幽霊みたいな顔してたぞ」


「見てたんですか」


「見えたんだよ」


「失礼ですね」


「失礼なくらいでちょうどいいだろ。腫れ物扱いされるより」


 里帆は返事に詰まった。


 この人は、時々こういうことを言う。


 乱暴なのに、なぜか核心に触れてくる。


「別に、何もありません」


「そうか」


 蒼真はそれ以上聞かなかった。


 その沈黙が、逆にありがたかった。


 誰かに「大丈夫?」と聞かれると、大丈夫なふりをしなければならない。けれど蒼真は、大丈夫かどうかを勝手に決めない。


 里帆はミットに視線を落とした。


「黒瀬さんの高校、今度大会なんですよね」


「ああ。県予選」


「勝てそうですか」


「今のままだと、一回戦で終わる」


「そんなにはっきり」


「嘘ついて強くなるなら、いくらでもつく」


 蒼真は帽子を脱ぎ、乱れた髪をかいた。


「投手が一人いる。朝倉芽衣。一年。球は速い。ただ、心が逃げる」


「心?」


「打たれる前から、打たれた顔をする」


 その表現に、里帆は思わず顔を上げた。


 自分にも覚えがあった。


 打たれたくないと思うほど、腕は縮む。逃げたくないと思うほど、足は固まる。マウンドは孤独だ。グラウンドに九人いても、投げる瞬間だけは一人になる。


「見れば分かるかもしれませんね」


 里帆が何気なく言うと、蒼真がこちらを見た。


「じゃあ、見に来い」


「え?」


「明日。放課後。グラウンド」


「いや、私は」


「ソフト、知ってるんだろ」


 里帆の心臓が跳ねた。


 店では、自分の過去を詳しく話していない。店長は知っているが、他の人には「昔少しやっていた」程度にしか言っていないはずだった。


「どうして」


「バットを握る手。ボールを見る目。グローブを触る指。少しやってた人間のそれじゃない」


 蒼真は静かに言った。


「それに、投手だっただろ」


 里帆は息を止めた。


「違います」


 反射的に否定していた。


 蒼真は何も言わない。


「もう、違います」


 言い直した声は、自分でも驚くほど弱かった。


 蒼真は帽子をかぶり直した。


「だったら、なおさら見に来い」


「どういう意味ですか」


「今のお前なら、逃げるやつの気持ちが分かる」


 里帆は、胸の奥を掴まれたような気がした。


「……ひどいですね」


「俺は優しくない」


「知ってます」


「でも、嘘は言ってない」


 蒼真はそれだけ言って、店を出ていった。


 自動ドアが閉まる。


 里帆はしばらく、バットのグリップテープを見つめていた。


 見に行くつもりはなかった。


 もうソフトボールには関わらないと決めていた。


 けれど翌日の夕方、里帆は高校のグラウンド脇に立っていた。


 自分でも呆れるほど、足は勝手にそこへ向かっていた。

読んでくださりありがとうございます。


第1話では、里帆が過去の傷と再び向き合うきっかけが描かれました。


奪われた夢。

忘れられない背番号。

そして、彼女の前に現れた黒瀬蒼真。


次話では、里帆が再びグラウンドへ足を踏み入れます。

彼女が出会う一人の少女投手が、止まっていた時間を少しずつ動かしていきます。

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