第八話「獣の影」
野営の場所を見つけたのは、日が傾き始めた頃だった。
古い防風柵が残っていた。
木の杭が何本か斜めに立ち、横板は半分ほど落ちている。杭の一本には、色の抜けた布紐が結ばれていた。風で擦れて、細い端がほどけかけている。
近くに、倒れた細い木があった。
根は枯れているのに、枝先だけに小さな葉が残っていた。
さらに奥には、壊れた桶が一つ転がっている。
底が抜けていた。
誰かがここで水を汲んだのか、荷を置いたのか、もう分からない。
「ここにしましょう」
メルティナは周囲を一度歩いてから、そう言った。
昨日より時間がかかった。
「ここ、何の場所だったのかな」
「旅人の休み場かもしれません。風除けがあります」
「今は誰も休んでないね」
「はい」
リィズは布紐を見た。
風で揺れている。
ちゃんと揺れている。
けれど、なぜか安心はしなかった。
火は小さかった。
最初の野営より、ずっと小さい。
目立たせたくないのだとリィズは思ったが、何も言わなかった。
「お嬢様」
「うん」
「できるだけ、火から離れないでください」
「うん」
リィズは膝を抱えて、小さな火を見ていた。
炎が揺れる。
影が揺れる。
防風柵の細い影が、地面に何本も伸びていた。
暗かった。
最初の野営には星があった。
ランゼの夜には人の声があった。
ここには、どちらもなかった。
風の音と、火の音。
それから、木の杭がときどき鳴る音。
リィズはふと、昼の見張り台を思い出した。
北を向いたまま鳴っていた、あの板。
「……ねえ」
「はい」
「昼の見張り台さ」
「はい」
「あそこ、何かいたのかな」
メルティナは火を見たまま、すぐには答えなかった。
少しして、短く言った。
「分かりません」
「でも、嫌な感じがしたんでしょ」
「……はい」
それ以上は続かなかった。
風が来て、火が少し揺れた。
そのまましばらく、二人は黙っていた。
最初に気づいたのは、メルティナだった。
火の外側の暗がり。
草の揺れ方が、ほんの少しだけ変だった。
風の向きと合わない。
気配ではない。
音でもない。
ただ、何かが少しだけずれていた。
メルティナが立ち上がりかけた。
その瞬間だった。
それが来た。
暗がりの中から、突然間合いに入ってきた。
狼より一回り大きい、四足の獣だった。毛は黒く、闇に溶けるような色をしている。目だけが、ぼんやり黄色く光っていた。
足音がなかった。
あれだけの体があるのに、草を踏む音がしない。
気配がない。
気づいた時には、もうそこにいた。
リィズが右手を動かした。
紫の光が瞬いた。
でも、遅かった。
光が放たれる直前に、爪が走った。
リィズの右の二の腕を、深く切り裂いた。
包帯の巻かれた肩のすぐ下。
爪が三本、皮膚をえぐっていった。
「っ……!」
痛みは、遅れて来た。
先に腕の力が抜けた。
次に、熱いものが指先へ流れた。
血だった。
杖を持つ手が震える。
その瞬間、メルティナが動いた。
リィズが傷ついたのを見た時には、もう前に出ていた。
いつの間にか、両手にダガーがあった。
取り出した瞬間を、リィズは見ていない。
気づいた時には、もうあった。
低かった。
メルティナの姿勢が、膝が曲がるほど低くなっていた。踏み込みは小さく、重心は前にある。獣が向き直る前に、すでに懐へ入っていた。
右のダガーが首筋へ滑り込む。
左が脇腹を抑える。
二本の刃が交差する瞬間だけ、かすかな金属音がした。
静かだった。
倒れる音も、鳴き声も、ほとんどなかった。
あれだけ気配がなかったものが、終わった時も静かだった。
メルティナは刃についた血を払った。
ゆっくり鞘に戻す。
その動きが、少し儀式めいて見えた。
「お嬢様」
振り返った時、メルティナの顔は変わっていなかった。
でも、目だけが少し違う温度をしていた。
「腕を」
リィズは自分の右腕を見た。
血が止まらない。三本の裂け目が、鮮やかに赤い。手を動かすたびに、ずきずきと痛む。
「……やられた」
「見せてください」
メルティナが膝をついて、腕を確かめた。
深い。
でも、骨までは届いていない。
掌から淡い光が広がり、傷が塞がっていく。
痛みが引いた。
「……ありがとう」
「はい」
リィズはしばらく、自分の腕を見ていた。
傷は消えている。
でも、じんわりとした重さはまだ残っていた。
「今の、全然分からなかった」
「はい」
「いたのに、いなかったみたいだった」
「気配がありませんでした。少なくとも、今のはそうでした」
メルティナは火のそばに戻り、周囲をもう一度確かめてから座った。
火の先が、細く揺れている。
風は右から来ている。
けれど、炎の先だけが一瞬、左へ倒れた。
メルティナはそこを見ていた。
「この先は、気配を頼れません」
「じゃあ、何を見るの?」
「草の揺れ方。影の遅れ。火の傾き。音が抜ける場所」
「音が抜ける?」
「はい。いる場所ではなく、そこだけ何かが欠ける場所です」
リィズは暗がりを見た。
風が吹いている。
草が揺れている。
火も揺れている。
全部が動いているのに、どこを見ればいいのか分からなかった。
「難しいね」
「はい」
「メルティナは分かるの?」
「少しだけ」
「すごい」
「父に教わりました」
「傭兵の?」
「はい」
メルティナは火を見たまま言った。
「気配を消す相手は、気配では探せない、と」
リィズは、メルティナの腰を見た。
ダガーはもう鞘に戻っている。
「それ、いつも持ってるの?」
「はい」
「強いんだね」
「必要でしたので」
「形見でもあります」
それ以上、メルティナは言わなかった。
リィズも聞かなかった。
火が静かに揺れていた。
さっきより少しだけ大きい。メルティナが木を足したらしかった。
「……怖かった」
メルティナはすぐには答えなかった。
「はい」
リィズは火を見た。
炎が揺れる。
影が揺れる。
暗がりは、まだそこにある。
でも、さっきよりは少しだけ、そこにいられる気がした。
目が覚めた時、腕が重かった。
傷は塞がっている。
昨夜、メルティナが治した。血も止まった。皮膚もふさがった。
なのに、腕だけがまだ昨夜を覚えていた。
動かすたびに、奥の方が鈍く痛む。
リィズはしばらく、自分の右腕を見ていた。
包帯は巻き直されている。細いリボンも、いつもと同じ位置で結ばれていた。
少しも乱れていない。
それが、少しだけ怖かった。
朝の光が、防風柵の隙間から入っている。
夜は黒く見えた杭も、朝になるとただ古びた木だった。割れ目があり、虫に食われた跡があり、色の抜けた布紐が風に揺れている。
壊れた桶も、倒れた細い木も、昨日と同じ場所にあった。
昨夜あれほど暗かった場所が、朝になると古い休み場に見えた。
そのことが、かえって落ち着かなかった。
「起きましたか」
メルティナの声がした。
もう身支度を終えていた。
髪は崩れていない。服も乱れていない。リィズが眠っている間に火の始末も済ませたらしく、炭だけが黒く残っている。
「うん」
リィズは右腕を少し動かした。
「まだ重い」
「塞がっていますが、筋が少し傷んでいます。今日はあまり使わないでください」
「魔法は?」
メルティナは少しだけ黙った。
「使えないことはないと思います」
「でも?」
「無理はしないでください」
「うん」
リィズはもう一度、腕を見た。
傷跡はない。
でも、重さだけが残っている。
「昨日の獣は?」
メルティナは視線を向けた。
防風柵の外側。
少し離れた草の上に、黒い獣が倒れていた。
朝の光の中で見ると、昨夜より大きく見えた。毛は黒く、背中だけが灰色がかっている。黄色く光っていた目は閉じていた。
リィズはゆっくり近づいた。
メルティナも隣に立つ。
獣は、確かにそこにいた。
でも、血が少なかった。
昨夜、メルティナのダガーが首筋を裂いたはずだった。リィズの腕にも血が流れた。火のそばで、赤いものを見た記憶がある。
なのに、草の上にはほとんど残っていない。
足跡も薄い。
あれだけの体が飛び込んできたのに、草の倒れ方は少し乱れている程度だった。
「……本当にいたんだよね」
「はい」
「でも、跡が少ない」
「はい」
「なんで?」
「分かりません」
メルティナは獣の周囲を見ていた。
草。
土。
血。
影。
それから、倒れた獣の爪。
「ただ、気配がなかったことと、関係があるかもしれません」
リィズは獣を見た。
いる。
ちゃんと、いる。
けれど、そこに来た道筋が見えなかった。
「なんか、嫌だね」
「はい」
風が吹いた。
獣の毛が少し揺れた。
その動きだけは、普通だった。
リィズは右腕を押さえた。
「この先も、こういうのが出る?」
「また来ると思います」
「言い切るんだ」
「昨夜のようにはさせません」
メルティナの声は平らだった。
けれど、昨日より少しだけ低かった。
リィズはメルティナを見た。
「怒ってる?」
「いいえ」
「本当?」
「はい」
「じゃあ、何?」
メルティナは、そこで初めて獣から目を離した。
リィズを見る。
赤い瞳が、まっすぐこちらを向いていた。
「次は、近づかせません」
リィズは何も言えなかった。
それは怒っていない声だった。
でも、何かを決めた声だった。
簡単な食事を済ませ、二人は出発の準備をした。
メルティナは火の跡を土で隠し、布紐のある杭を少しだけ見た。
触りはしなかった。
リィズも触らなかった。
風で揺れている。
ちゃんと揺れている。
でも、もう安心の印には見えなかった。
「今日、どこまで行くの?」
「古い関所跡までは行けると思います」
「関所?」
「北へ抜ける道にあった検問の跡です。今は使われていません」
「人のいた場所?」
「はい。建物が残っていれば、夜を越す場所にできるかもしれません」
リィズは右腕を軽く動かした。
重い。
でも、動く。
「行こう」
「はい」
二人は防風柵を後にした。
少し歩いてから、リィズは振り返った。
古い杭と、色の抜けた布紐が見えた。
その向こうに、黒い獣が横たわっている。
朝の光の中なのに、そのあたりだけ夜が残っているように見えた。
リィズは前を向いた。
朝の光の中で、右腕だけが少し重かった。




