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第七話「境標」

男と別れてから、リィズは一度も振り返らなかった。

振り返らなかったのに、背中の方がずっと気になっていた。

あの人は立ったのか。

水を飲んだのか。

ランゼへ向かったのか。

まだ北を見ているのか。

何も分からなかった。

「メルティナ」

「はい」

「さっきの人、戻れるかな」

「分かりません」

「分かりません、多いね」

「分かることが少ないので」

「それは、そう」

道は、さらに細くなっていた。

轍は消えかけている。草の倒れ方だけが、かろうじて道の形を残していた。踏み固められた土も、ところどころ柔らかい。

リィズは足元を見ながら歩いた。

「ねえ」

「はい」

「道って、なくなりかけるんだね」

「人が通らなければ」

「人が通れば戻る?」

「少しずつなら」

「じゃあ、誰も通らなくなった道は?」

メルティナは少しだけ間を置いた。

「草原に戻ります」

リィズは前を見た。

道はまだある。

でも、あると言い切るには、少し頼りなかった。

風が吹いた。

草が揺れる。

その中で、道の先だけが少し暗く見えた。

雲の影ではなかった。

「……あそこ」

リィズが言った。

道の右側から、草が入り込んでいた。

長い草だった。葉の色が少し濃い。光を受けているのに、奥だけ沈んで見える。

「左を歩きましょう」

「また左?」

「はい」

「だんだん、左が安全な気がしてきた」

「気がするだけです」

「言い方」

「確定ではありませんので」

「正直だね」

「必要ですので」

二人は道の左端を歩いた。

右から伸びた草が、靴の横をかすめる。葉先は柔らかそうなのに、触れると少し冷たかった。

リィズは、なるべく草を踏まないようにした。

理由は分からない。

ただ、踏みたくなかった。

しばらく進むと、草は途切れた。

道が少し広くなる。

リィズは息を吐いた。

「少しは安心していい?」

「半分だけなら」

「半分?」

「残り半分は、前を見てください」

「厳しい」

「必要ですので」

昼を過ぎても、誰にも会わなかった。

鳥の声はあった。

でも、遠い。

虫の音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。

リィズは何度か耳を澄ませた。

風の音。

草の音。

自分たちの足音。

それ以外が、少ない。

「静かすぎるって、こういうことかな」

「まだ入口だと思います」

「入口」

「はい」

リィズは前を見た。

道の先に、ゆるい丘があった。

丘の上まで行けば、向こう側が見える。

何が見えるのかは分からない。

でも、男が言っていた「静かなところ」は、きっとこの先にある。

そう思った。

丘へ向かう途中で、道が浅くなった。

最初は、草が伸びているだけに見えた。

けれど、足の裏が先に気づいた。

踏み固められた土の硬さがない。靴の下で、草の根がやわらかく沈む。

リィズは足元を見た。

「……道、ここだよね」

轍がなかった。

さっきまで、薄くても残っていた車輪の跡が、どこにも見えない。

土の色はまだ道の色をしている。草も、左右に分かれているように見える。

でも、足の下はもう草原だった。

メルティナが止まった。

地図を開く。

それから、すぐ閉じた。

「地図では、このまま北です」

「でも、道がない」

「はい」

風が吹いた。

草が揺れる。

道だったはずの場所も、同じように揺れた。

同じように。

でも、少し遅かった。

リィズはまばたきをした。

「今、遅れた?」

メルティナは答えなかった。

少し先に、石の柱が立っていた。

道標のようだった。

半分ほど草に埋もれて、片側へ傾いている。文字は読めない。けれど、そこに何かを示すために置かれたものだと分かる。

道がないのに、道標だけがある。

リィズは一歩、前へ出かけた。

「お嬢様」

声が、いつもより強かった。

リィズは止まった。

メルティナは道標を見ていた。

その周りの草だけ、風が通ったあとに揺れていた。

ほんの少し遅れて。

「戻りましょう」

メルティナの声が、少しだけ上がった。

いつもより速かった。

「どっちへ?」

「来た道です。はやく!」

リィズはメルティナの顔を見た。

怒っているのでも、怯えているのでもなかった。

でも、何かを見た人の顔だった。

「……うん」

二人は来た方へ戻った。

早足だった。

リィズは、足元を見ながら歩いた。草が沈む。土がやわらかい。まだ道ではない。

五歩。

十歩。

ふいに、靴の下が硬くなった。

轍が戻っていた。

細い車輪の跡が、草の間に残っている。土が踏み固められ、道が道の顔を取り戻していた。

リィズは息を吐いた。

「……戻った」

「はい」

メルティナは振り返らなかった。

「見ないの?」

「今は見ません」

「なんで」

「見たくなるので」

リィズは口を閉じた。

風が吹いた。

背中の方で、草が揺れた。

少し遅れて。

二人は道が残っている方へ進んだ。

少し西へ回る道だった。

メルティナは地図を見ず、草の倒れ方と土の硬さだけを見ている。リィズもそれを真似した。

道は、細く続いていた。

さっきより遠回りだと分かった。

でも、足の下に硬さがある。

それだけで、少し呼吸が戻った。

やがて、丘の上に出た。

風が強くなった。

草の丈が低くなり、空が広がる。

リィズは顔を上げた。

その先に、黒い線が見えた。

草原を横切る、細い焦げ跡のような線だった。

まっすぐではない。川でもない。裂け目でもない。

緑の中に、そこだけ色を失った帯が続いている。

遠い。

でも、見えた。

「何、あれ」

メルティナは地図を見なかった。

ただ、その黒い線を見ていた。

「分かりません」

「行く?」

「ここで止まれば、夜になります」

「じゃあ、行くしかないね」

「はい」

リィズは杖を握り直した。

黒い線の向こうで、風が吹いた。

草は揺れている。

音もある。

でも、その音は、少し低かった。


道が消えた場所から、少し戻った。

草の丈が低くなり、轍の跡が戻ってくる場所まで。

そこなら、まだ道が道だと分かった。

リィズは、さっきいた方を見た。

もう普通の草原に見える。道が薄くなっていた場所も、草の揺れが遅れていた場所も、ここからでは分からない。

でも、確かにそこにあった。

「……本当に消えてたね」

「はい」

「私、あそこに入ってたら気づかなかったかも」

メルティナは地図を広げたまま言った。

「おそらく」

「怖いね、それ」

「はい」

リィズは北の方を見た。

さっきの男が言っていた。

道が、なくなる。

本当だった。

「さっきの人、ちょっと怖かった」

「何がですか」

「あの目。私を見てるのに、見てない感じ」

メルティナは地図を畳んだ。

「道そのものが消えたのではないと思います」

「どういうこと?」

「道として読めなくなっていました。轍の形も、草の踏まれ方も、土の硬さも、少しずつずれていました」

「迷子になる、ってこと?」

「迷子より、もっと静かに」

リィズは、その言葉を少し考えた。

迷子より、もっと静かに。

自分でも気づかないまま、道ではない場所へ入っていく。

「真っ直ぐ北は危ないです」

メルティナが言った。

「少し西へ振ってから上がります」

「遠回り?」

「はい。でも、道が確かめられる方を行きます」

「分かった」

メルティナが先に歩き出した。

西へ少し振れた方角だった。

リィズはその後ろをついていった。

しばらく歩いた頃、草原の中に古い境標が見えた。

四角く積まれた低い石のそばに、木の杭が一本立っている。杭は黒ずみ、上の方が割れていた。そこに色の抜けた布紐が二本、結ばれている。

赤だったのか、紫だったのか、もう分からない。

風が吹くと、布紐が少しだけ揺れた。

ちゃんと、風と同じ速さで。

リィズは少し息を吐いた。

「あれ、何?」

「境標だと思います。昔、この辺りの土地の境を示していたものかと」

「布も?」

「目印か、祈りのためのものかもしれません」

「誰かが結んだんだね」

「はい」

リィズは近づいた。

木の杭には、小さな刃物の跡がいくつもあった。名前なのか、印なのか、読めないものが浅く刻まれている。足元の石には苔がつき、乾いた草の種が引っかかっていた。

「これがあるってことは、ここには昔、ちゃんと人がいたってこと?」

「そうです」

「今は、いないね」

「はい」

メルティナは境標を目印に、方角を確かめた。

「ここから上がります」

「うん」

二人は境標を後ろに、また歩き出した。

リィズは一度だけ振り返った。

木の杭と布紐は、草原の中にぽつんと残っていた。

昔誰かが結んだものが、まだ風に揺れている。

それだけで、少し道が戻ってきたような気がした。

西へ振った道は、ちゃんと道だった。

轍の跡がある。草が両脇に退いていて、土が踏み固められている。足の裏に、硬さが返ってくる。

リィズは、小さく息を吐いた。

「道って、あると安心するね」

「はい」

「今まで、道のことなんて考えたことなかった」

「普通は、考えなくて済むものです」

「考えなくて済むって、ありがたいんだね」

メルティナは少しだけリィズを見た。

それから前を向いた。

「はい」

鳥が鳴いた。

リィズは思わず立ち止まって、空を見上げた。

小さな鳥が一羽、遠くへ飛んでいく。

「いた」

「はい」

風も普通に吹いていた。

草が揺れる。道の脇の花が揺れる。空の雲が流れていく。

世界がちゃんと動いていた。

それでも、人の気配は薄かった。

道はある。

鳥も鳴いた。

でも、旅人はさっきの男だけだった。壊れた荷車と、落ちた鞄と、誰かの木の人形だけが、道に残っていた。

リィズはそのことを、口に出さなかった。

出さない方がいい気がした。

日が中天を過ぎた頃、丘が見えてきた。

なだらかな丘だった。草に覆われていて、頂上の方だけ草が薄い。その上に、古い見張り台の跡が残っていた。

石ではなかった。

木で組まれた櫓だった。

太い柱が四本、草の中に立っている。横板はほとんど落ち、上の足場も半分ほど欠けていた。木は黒ずみ、ところどころ白く乾いている。

上の方に、一枚だけ板が残っていた。

風が吹くたび、その板が、こつ、と鳴った。

北を向いたまま。

「あれ、何?」

リィズが丘の上を指さした。

メルティナは足を止めた。

地図は出さなかった。

ただ、見ていた。

「見張り台の跡だと思います」

「木でできてる」

「古いものですね」

「北の方を見てたのかな」

「おそらく」

「行ってみる?」

メルティナはすぐには答えなかった。

櫓の上の板が、こつ、と鳴った。

答えない間、リィズは横顔を見ていた。地図を確かめるのでもなく、太陽の位置を見るのでもない。

ただ、見張り台の方を見ている。

「……近づかない方がいいです」

「なんで?」

「うまく言えません」

リィズは少し待った。

続きを言うかと思ったが、メルティナは言わなかった。

「なんか、感じるの?」

「……嫌な感じがします。何かは分かりません。でも」

メルティナは視線を外さなかった。

「あそこから、見られている気がします」

リィズは丘の上を見た。

誰もいない。

何もいない。

ただ、残った板だけが、北を向いたまま風に鳴っている。

こつ。

少し遅れて、もう一度。

こつ。

リィズは喉の奥が少し冷たくなった。

「……うん。やめとこう」

二人は丘の脇を通り過ぎた。

見張り台の跡は、視界の端にしばらく残った。

木の板が、また鳴った。

やがて丘が後ろに下がり、見えなくなった。

道は、まだ北へ続いていた。

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