第六話「北の道」
ランゼの音は、少しずつ遠くなった。
最初は、馬の鼻を鳴らす音が聞こえていた。
次に、石畳を掃く音が消えた。
最後に、人の声が細くなり、風の中に混じって分からなくなった。
残ったのは、草の音だった。
リィズは歩きながら、何度か振り返った。
屋根はまだ見えた。煙突の煙も見えた。けれど、それも少しずつ小さくなっていく。
「見えなくなるね」
「はい」
「ちょっと寂しい」
「昨日は城が見えなくなって、同じことを言っていました」
「言ってた?」
「言っていました」
「私、寂しがりなのかな」
「否定はしません」
「そこは否定して」
メルティナは地図を見ていた。
「否定材料がありません」
「ひどい」
道は北へ伸びていた。
最初は歩きやすかった。ランゼに近いからか、踏み固められた土がしっかり残っている。轍の跡もあった。草は左右に退き、人が通る場所と、そうでない場所が分かれている。
けれど、しばらく進むと、その線が少しずつ薄くなった。
リィズは足元を見た。
「道、細くなってない?」
「はい」
「人があまり通ってないから?」
「おそらく」
メルティナは地図から目を離し、周囲を見た。
空は晴れている。
風もある。
遠くで鳥が鳴いた。
けれど、街道に人影はない。
荷馬車もない。
畑もない。
ただ、草原と道だけが続いている。
「旅人、減ってるって言ってたね」
「はい」
「本当だったんだ」
「そうですね」
「ランゼまでは人がいたのに」
「ランゼから北へ出る人が、少ないのでしょう」
リィズは少し考えた。
「じゃあ、私たちは少ない方の人なんだ」
「はい」
「ちょっとかっこいいかも」
「危険と珍しさは別です」
「分かってる」
「本当ですか」
「たぶん」
道の脇に、古い道標が立っていた。
石でできた低い柱だった。表面は削れていて、文字はほとんど読めない。上の方に、矢印のような線だけがかすかに残っている。
リィズは近づいた。
「なんて書いてあるの?」
メルティナが石の表面を見た。
指で苔を少しだけ払う。
「ランゼ、という文字は読めます」
「他は?」
「北側の地名は、削れています」
「自然に?」
「分かりません」
石の北側だけ、表面が深く削れていた。
雨や風で削れたというより、誰かが意図して削ったようにも見えた。
リィズはその跡を見た。
「誰かが消したのかな」
「可能性はあります」
「なんで?」
「行かせたくなかったのかもしれません」
「誰を?」
メルティナは答えなかった。
道標を離れ、また歩く。
少し先で、草が道へ入り込んでいた。
右側からだけだった。
左側の草は短い。
右側の草だけが長く、道の上に倒れ込んでいる。風が吹くと揺れるが、道を覆うような形は変わらない。
リィズは足を止めた。
「こっちだけ、草が多いね」
「はい」
「道、食べられてるみたい」
「面白い言い方ですね」
「面白い?」
「少し」
「メルティナが褒めた」
「褒めてはいません」
「褒めたよ」
メルティナは右側の草を見た。
そこだけ、色が少し濃かった。緑というより、青みがかった暗い色。光を受けているはずなのに、葉の奥が沈んで見える。
「左側を歩きましょう」
「うん」
二人は道の左端を歩いた。
右から伸びた草が、靴の横をかすめる。葉先は柔らかそうなのに、触れると少し冷たかった。
リィズは振り返らなかった。
しばらく進むと、道が開けた。
草の侵食はそこで途切れている。いつもの街道に戻ったように見えた。
「戻った」
リィズが息を吐いた。
「はい」
メルティナの声は、あまり緩んでいなかった。
「安心していい?」
「まだです」
「まだ?」
「……もう少し先です」
「厳しい」
「必要ですので」
昼を過ぎる頃、道の真ん中に荷物が落ちていた。
革の鞄だった。
口が開いて、中身が少しこぼれている。布、乾いたパン、折れた櫛、小さな木の人形。
リィズは木の人形を見た。
子どもの玩具に見えた。
「これ、誰かの忘れ物?」
「忘れたというより、落としたのでしょう」
「拾ってあげる?」
「触らない方がいいです」
「また?」
「はい」
メルティナは鞄の周りを見た。
足跡がある。二人分。いや、三人分かもしれない。乱れている。北から来て、南へ向かっている。途中で一つの足跡だけが深くなり、その横に膝をついたような跡があった。
「逃げてる途中で落とした?」
「そう見えます」
リィズは木の人形から目を離せなかった。
雑な作りだった。顔も、ただ丸い傷が二つあるだけ。けれど、誰かが持っていたものだ。誰かの手の中にあったものだ。
「子ども、いたのかな」
「可能性はあります」
「その子、これなくして困ってるかも」
メルティナは何も言わなかった。
リィズはしゃがみかけた。
「お嬢様」
「分かってる」
手は伸ばさなかった。
風が吹いた。
布が少し動いた。
乾いたパンは動かなかった。
木の人形も、そこにあるままだった。
リィズは立ち上がった。
「行こう」
「はい」
二人は鞄を避けて歩いた。
少し進んでから、リィズはぽつりと言った。
「さっきの木の人形、オシャじゃなかったね」
「はい」
「でも、誰かの大事なものだった気がする」
メルティナは横を歩いていた。
「そうかもしれません」
「戻せないね」
「はい」
「私、壊したものならメルティナが戻してくれると思ってたけど」
リィズは前を見た。
「落としたものは、戻せないんだね」
メルティナの足音が、ほんの少しだけ遅れた。
すぐに戻った。
「……はい」
その返事は、風に少し薄くなった。
道はまだ北へ続いていた。
けれど、もう街道というより、誰かがかろうじて忘れずにいる線のように見えた。
しばらく進むと、道の音が変わった。
土が少し柔らかくなっていた。
踏み固められた道の硬さが薄れ、靴の下で草の根が沈む。轍の跡はまだある。けれど、ところどころ途切れていた。
リィズは足元を見ながら歩いた。
「ねえ」
「はい」
「道って、こんなふうに薄くなるもの?」
「人が通らなければ」
「人が通ってないから?」
「そうかもしれません」
「じゃあ、通れば戻る?」
メルティナは少しだけ間を置いた。
「少しずつなら」
「少しずつか」
リィズは前を見た。
道は続いている。
続いているように見える。
でも、さっきまでより頼りなかった。
風が吹いた。
草が揺れる。
その中で、道だけが少し遅れて動いたように見えた。
「今の」
リィズが足を止めた。
「道、動いた?」
「草です」
「草だけ?」
「……おそらく」
メルティナの返事は、少し遅かった。
リィズは黙って道を見た。
何も起きていない。
土があり、草があり、石がある。
ただ、その上に足を置くのが、少し嫌だった。
「左を歩きます」
メルティナが言った。
「また?」
「はい」
「左、好きだね」
「安全そうなので」
「安全そうってことは、確定じゃないんだ」
「はい」
「正直だね」
「必要ですので」
二人は道の左端を歩いた。
リィズは、なるべく足元を見た。
草の色。
土の硬さ。
小石の並び。
風の向き。
昨日まで、そんなものを気にしたことはなかった。道は道で、草は草だった。
でも今は、どちらも少しだけ信用できなかった。
その人が見えたのは、道がゆるく曲がった先だった。
最初は、岩かと思った。
動かなかったから。
道の脇、草の上に、男が座っていた。
膝を抱えている。荷物はない。片方の靴に泥が固まり、上着の袖が裂けていた。年齢はよく分からない。若くも、老いても見えなかった。
リィズは駆け寄りかけた。
メルティナの手が、その袖をつかんだ。
「近づきすぎないでください」
「でも」
「まず、声を」
リィズは足を止めた。
「大丈夫?」
男は、ゆっくり顔を上げた。
目が合った。
合ったはずだった。
けれど、男はリィズを見ているというより、リィズの向こう側を見ているようだった。
「怪我してる?」
男は首を横に振った。
動きが遅い。
水の中で頷いているみたいだった。
メルティナが水袋を出した。
「飲めますか」
男は水袋を見た。
少し時間がかかってから、手を伸ばした。
一口飲む。
喉が動いた。
それから、男はまた北を見た。
「北から来たの?」
リィズが聞いた。
男は頷いた。
「何があったの?」
男はしばらく黙っていた。
風が吹いた。
草が揺れる。
男の袖だけ、あまり揺れなかった。
「道が」
男が言った。
声は乾いていた。
「道が、なくなる」
リィズはメルティナを見た。
メルティナの顔は変わらなかった。
でも、水袋を持つ指が、少しだけ強くなっていた。
「なくなるって、どういうこと?」
男はまた北を見た。
「歩いているのに、戻っている。戻っているのに、進んでいる。声を出しても、誰にも届かない」
リィズは何も言えなかった。
「静かなところへ入るな」
男が言った。
「鳥がいない。虫もいない。草が揺れているのに、音がしない。そういうところへ入るな」
「入ったの?」
リィズが聞いた。
男は頷いた。
「荷は置いた。子どもも泣いていた。けど、泣き声が遠かった」
リィズの胸の奥が、少し冷えた。
「子ども?」
男はリィズを見た。
今度は、少しだけ焦点が合った。
「見つけたら、触るな」
「何を?」
「落ちているもの」
リィズは、さっきの木の人形を思い出した。
雑な顔。
丸い傷が二つ。
道の真ん中に落ちていた、小さなもの。
「どうして」
「戻ってくる」
「何が?」
男は膝を抱え直した。
「見てないのに、見られてる」
その言葉だけ、少しはっきりしていた。
メルティナが静かに言った。
「ランゼまで戻れますか」
男は南を見た。
道を見た。
それから首を横に振った。
「遠い」
「歩けます」
「遠い」
「ここにいても危険です」
男は少し笑った。
笑ったのに、顔は動かなかった。
「ここも、もう近い」
リィズは周囲を見た。
草原がある。
空がある。
鳥の声は、今は聞こえない。
「メルティナ」
「はい」
「この人、連れていけないかな」
メルティナはすぐには答えなかった。
男の足を見た。
靴の泥。
膝の震え。
目の焦点。
北から来た空気を、どれだけ身体に残しているかを測るように。
「ランゼへ戻す方がいいです」
「でも、私たちは北へ行くんだよね」
「はい」
「じゃあ、反対だ」
「はい」
リィズは男を見た。
男はもう二人を見ていなかった。
また北を見ていた。
「水と食べ物を置きます」
メルティナが言った。
「ここから南へ向かえば、道はまだ読めます」
男は返事をしなかった。
メルティナは水袋の小さい方と、堅焼きの菓子を草の上に置いた。
リィズは何か言いたかった。
けれど、うまく言葉にならなかった。
「ねえ」
男は少しだけ目を動かした。
「ランゼには、人がいるよ」
男は黙っていた。
「音もある。匂いもある。ご飯もある」
少しだけ、男の喉が動いた。
返事はなかった。
リィズは立ち上がった。
二人は歩き出した。
しばらくして、リィズは振り返りかけた。
「振り返らないでください」
メルティナが言った。
声は静かだった。
けれど、強かった。
リィズは前を向いたまま止まった。
「なんで」
「今は」
「うん」
「前を見てください」
リィズは振り返らなかった。
背中の方で、草が揺れた。
男が動いたのか、風なのかは分からなかった。
道は北へ続いていた。
けれど、さっきより細く見えた。




