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第五話「動いている町」

日が傾き始めた頃、空の色が変わった。

西の雲の縁が、金色に染まっている。草原の影は長くなり、道の石も少し赤く見えた。

その先に、屋根が見えた。

最初は一つ。

それから、いくつも。

煙突から細い煙が上がっている。風に押されて、ゆっくり横へ流れていた。

「ランゼ?」

リィズの歩幅が少し大きくなった。

「おそらく」

メルティナは地図を確かめた。

「距離も合っています」

「ご飯ある?」

「あると思います」

「お風呂は?」

「まだ分かりません」

「そこ大事なのに」

「昨日は野宿でした」

「だから今日はお風呂」

「その理屈は分からなくもありません」

町が近づいてくる。

白い壁。茶色い屋根。煙突の煙。道の脇に、小さな畑があった。男が鍬を担いで歩いている。遠くで犬が吠えた。誰かが返事をした。子どもの声も聞こえる。

リィズは足を止めなかった。

でも、顔が少し変わった。

「音があるね」

「はい」

「人もいる」

「はい」

「さっきの村と違う」

「違いますね」

町の入口には、古い木の看板が立っていた。

文字は少しかすれている。板の端も欠けていた。けれど、その下には新しい紐で小さな花束が結ばれていた。誰かが最近、そこへ置いたものだった。

リィズはそれを見た。

「壊れてるけど、ちゃんとしてる」

「そうですね」

「変な言い方かな」

「いいえ」

石畳に足が乗った。

土道とは違う硬さが、靴の裏に返ってくる。石の継ぎ目は少しずれていて、ところどころ草が生えていた。

通りの両側には、木と石の建物が並んでいる。

一階が店で、二階に窓がある。窓辺には布が干してあった。壁には染みがあり、看板の文字も少し傾いている。

それでも、町は動いていた。

荷物を背負った女が、足早に通り過ぎていく。店先で老人が椅子に座り、誰かに何かを言って笑った。子どもが一人、石畳の線を踏まないように歩いている。真剣な顔だった。

リィズはその子を目で追った。

「何してるんだろう」

「遊びでしょう」

「遊び」

「はい」

「そっか」

肉を焼く匂いがした。

香草と油と煙の匂い。城の厨房より粗くて、強い。

リィズのお腹が鳴った。

メルティナは何も言わなかった。

言わなかったが、視線だけ少し下がった。

「聞こえた?」

「はい」

「聞こえなかったことにして」

「難しいです」

「努力して」

「善処します」

宿屋は、通りの少し奥にあった。

扉の上に、ベッドの絵が描かれた看板が下がっている。入口の横には馬が一頭つながれていた。茶色い馬で、リィズを見ると鼻を鳴らした。

「馬だ」

「馬ですね」

「乗れるかな」

「今日は乗りません」

「まだ何も言ってない」

「言いそうでしたので」

リィズは少しだけ口を尖らせて、扉を押した。

匂いが来た。

煮込んだ肉の匂い。木の床の匂い。汗と煙と酒の匂い。

城にはない匂いだった。

食堂は半分ほど埋まっていた。

旅人らしい男が二人、皿を前にして話している。窓際では老夫婦が食事をしていて、女の方がよく笑っていた。奥の席では子どもが椅子の上に膝立ちになり、皿の中身を指でつついている。

母親らしき女が、その手を押さえた。

「こら」

その声に、子どもが笑った。

リィズはその音を聞いた。

少しだけ、肩の力が抜けた。

「いらっしゃい」

カウンターの奥から、がっしりした体格の女が顔を出した。エプロンには、何かの染みがついている。

リィズはカウンターへ行った。

「泊まりたいんだけど」

女はリィズを見た。

銀の髪。アメジスト色のドレス。黒革のコルセット。紫の包帯。杖。

それから、後ろのメルティナを見た。

「二人?」

「うん」

「一泊、銅貨八枚。飯つきなら十二枚」

「飯つきで」

リィズは懐を探った。

じゃら、と音がした。

出てきたのは、金貨だった。

大きくて、重い。アークライアの紋章が入っている。

「これで」

女が固まった。

周りの音が、一瞬だけ遠くなった。

「お嬢様」

メルティナが横から手を伸ばした。

金貨をそっと取り上げ、代わりに銅貨を十二枚、カウンターに並べる。

一枚ずつ、きちんと音がした。

「失礼しました」

女は銅貨とリィズを交互に見た。

それから、少しだけ笑った。

「旅、慣れてないね」

「うん」

「隠す気もないんだ」

「ないかも」

「そっちの子は慣れてる顔してる」

メルティナは何も言わなかった。

女は鍵を二つ出した。

「二階の突き当たり。隣同士」

「ありがとう」

リィズが鍵を受け取ろうとした。

メルティナが先に受け取った。

「え」

「なくします」

「なくさないよ」

「金貨を出した直後です」

「それとこれは違う」

「同じ分類です」

女が笑った。

奥の子どもも笑った。

食堂のどこかで、椅子が鳴った。皿が重なる音がした。誰かが大きな声で注文をした。

リィズは、その全部を少しだけ聞いていた。

音がある。

匂いがある。

人が勝手に動いている。

「ここ、いいね」

メルティナは鍵を握ったまま、食堂を見た。

「……悪くありません」

リィズは笑った。


食事のあと、二人は二階へ上がった。

木の階段が、一段ごとに鳴る。

手すりはすべすべしていた。長いあいだ、いろいろな人の手が触れてきた木だった。

廊下の突き当たりに、部屋が二つ並んでいる。

メルティナは鍵を確かめた。

「こちらがお嬢様の部屋です」

「メルティナは?」

「隣です」

「隣?」

「はい」

「壁一枚?」

「はい」

リィズは少し安心した顔をした。

「ならいい」

メルティナは一瞬だけ、リィズを見た。

それから鍵を渡した。

「何かあれば、すぐ呼んでください」

「うん」

「窓から出ないでください」

「出ないよ」

「屋根にも登らないでください」

「登らないよ」

「馬にも近づかないでください」

「ちょっと見たい」

「近づかないでください」

「……はい」

リィズは部屋に入った。

狭かった。

ベッドが一つ。小さな机。椅子。窓。壁には丸い染みがある。

それでも、悪くなかった。

靴を脱ぎ、ベッドに腰を下ろす。城の寝台よりずっと小さく、少し軋んだ。布団も厚くない。枕も低い。

リィズは手のひらで敷布を押した。

「かたい」

少し笑った。

窓の外には、ランゼの夕方が残っていた。

石畳の上を、誰かが歩いていく。宿の前につながれていた馬が鼻を鳴らした。向かいの家の窓から、灯りが一つ漏れている。誰かの声がして、それから小さな笑い声が続いた。

城の夜とは違った。

城の夜は、音を消す。

足音も声も、石の壁に吸われていく。誰かがそこにいても、いないみたいに静かだった。

ここは違う。

階下で皿が重なる音がした。

誰かが椅子を引いた。

廊下を歩く足音が近づき、リィズの部屋の前を通り過ぎていく。板が鳴る。扉が開く。閉まる。

また遠くで笑い声がした。

リィズはベッドに仰向けになった。

天井の染みを見る。

雨漏りの跡かもしれない。城なら、きっと次の日には直されている。ここでは、そのまま残っている。

誰かがそれを毎日見ながら眠ったのかもしれない。

「……変なの」

嫌ではなかった。

隣の部屋に、メルティナがいる。

壁一枚の向こう。

今、何をしているだろう。荷物を整えているかもしれない。地図を見ているかもしれない。明日の道を、もう考えているかもしれない。

リィズは目を閉じた。

村の子どもたちの顔が浮かんだ。

道を見ていた。

何もない道を。

楽しいかと聞いても、つまらないかと聞いても、分からないと言った。

その顔のあとに、階下の子どもの笑い声が重なった。

同じ子どもなのに、全然違う。

どちらが普通なのか。

リィズには、まだ分からなかった。

ランゼの夜は動いていた。

皿が鳴る。

床が鳴る。

誰かが喋る。

馬が鼻を鳴らす。

窓の外で、風が看板を揺らす。

リィズは、その全部を聞きながら、少しずつ眠くなっていった。

眠る直前、隣の部屋で小さく床が鳴った。

メルティナが歩いた音だと思った。

リィズは目を開けなかった。

壁の向こうに、その足音がある。

そのことだけで、胸の奥が少し静かになった。


目が覚めた時、まず音が来た。

石畳を掃く音だった。

硬いものが石の上をこする、規則正しい音。近づいたり、遠ざかったりせず、同じ場所で続いている。

次に、匂いが来た。

焼いたパンの匂い。

小麦と熱と、少し焦げた匂い。そこに、何かを煮ている匂いも混じっていた。

リィズは天井を見た。

丸い染みがある。

昨夜も見た染みだった。朝の光で見ると、少しだけ色が薄い。

窓の外は明るかった。

城の朝とは違う。厚いガラスと石壁を通ってくる光ではなく、薄い布一枚の向こうにある光だった。

廊下で足音がした。

水の音がした。

どこかの扉が開いて、また閉まった。

リィズは起き上がった。

体が少し重い。城の寝台とも、野営の岩とも違う。まだ自分の体が、どこで眠ったのか分かっていない感じがした。

窓を開ける。

朝の空気が入ってきた。

冷たくて、少し湿っていた。

通りでは、老人が一人、箒で石畳を掃いている。ゆっくりした動きだった。石の継ぎ目に溜まった小さな土を、丁寧にかき出している。

向かいの家の窓が開いた。

女が布を振った。白い布が、朝の光を受けて一度ふくらみ、また窓枠に戻る。

馬が鼻を鳴らした。

どこかで子どもが笑った。

リィズは窓枠に手を置いた。

町が動いていた。

昨日の村とは違う。

あそこは整っていた。壁も、道も、畑も、井戸も。

でも、気持ちの動きが見えなかった。

ここは、少しずれている。

石畳は割れている。看板の字はかすれている。壁には染みがある。馬は道端で勝手に鼻を鳴らす。

それでも、人がいる。

音がある。

匂いがある。

「……こっちの方が、いいな」

小さく言った。

扉を叩く音がした。

「お嬢様、起きていますか」

「起きてる」

扉を開けると、メルティナがいた。

すでに身支度が整っている。髪も乱れていない。昨日と同じ黒いロングメイド服なのに、宿の廊下に立っていると少しだけ不思議に見えた。

メルティナはリィズを見て、目を止めた。

「お嬢様」

「うん」

「髪が」

リィズは自分の頭に手を当てた。

片側だけ、大きく跳ねていた。

「……あ」

メルティナが手を伸ばした。

櫛を通す。

銀の髪が、少しずつ元の流れに戻っていく。城で何度もそうしてきた手つきだった。

「ありがとう」

「はい」

「宿でもやるんだね」

「場所は関係ありません」

「そっか」

「朝食にしましょう」

階下へ下りると、食堂は昨夜より静かだった。

旅人が二人、もう荷物を背負っている。窓際の老夫婦は、また同じ席にいた。女の方が、今朝もよく笑っていた。

女将が皿を二つ運んできた。

「はい、パンと汁ね」

皿が置かれる。

パンは少し硬そうだった。汁からは湯気が立っている。肉と豆と、刻んだ野菜が入っていた。

リィズはパンを割った。

「いい匂い」

「昨日から、匂いに反応しすぎです」

「外の匂いは、分かりやすい」

「城にも匂いはあります」

「あったかな」

「ありました」

「メルティナは知ってるんだ」

「掃除をしていましたので」

リィズは汁を一口飲んだ。

塩気が強い。

でも、体が少し温かくなった。

「おいしい」

「そうですか」

女将が通りかかった。

「北へ行くのかい」

リィズは顔を上げた。

「うん」

女将は空いた皿を重ねながら、少しだけ眉を寄せた。

「関所はとっくに使われてないけどね。北にはまだ、採集に行く連中や、古い道を調べる冒険者がいたんだよ」

皿が小さく鳴った。

「それが、ここしばらくめっきり減った」

メルティナの手が、わずかに止まった。

「いつ頃からですか」

「さあね。気づいたら、だよ。前は週に何組か来たんだけどね。ここしばらく、めっきりだ」

「何か噂は?」

「静かすぎる、って言ってた人がいたよ」

リィズはパンを持ったまま、女将を見た。

「静かすぎる?」

「鳥がいないとか、道が変だとか。まあ、旅人の言うことだからね。疲れてりゃ、道も曲がって見えるさ」

女将はそこで、少しだけ通りの方を見た。

窓の外では、老人がまだ石畳を掃いている。

「でも、この町は平気そう」

リィズが言った。

女将は笑った。

「ここは街道の町だからね」

「街道の町?」

「人が来て、食べて、寝て、文句を言って、また出ていく。そういう場所は、なかなか静かにならないんだよ」

女将は皿を持ち直した。

「まあ、客が減れば、ここも分からないけどね」

そう言って、厨房へ戻っていった。

リィズはパンを見た。

昨日の村。

倒れた草。

鎖。

誰も寄りつかない木。

壊れた荷車。

「メルティナ」

「はい」

「やっぱり、北なんだね」

「そのようです」

「行く?」

メルティナはリィズを見た。

「お嬢様は、どうされたいですか」

「行く」

返事は早かった。

メルティナは少しだけ目を伏せた。

「では、行きましょう」

朝食を終え、二人は宿を出た。

石畳は朝の光で白く見えた。

昨日つながれていた馬は、もういない。濡れた跡だけが地面に残っている。

リィズは通りを見た。

老人はまだ掃いていた。

女は布を干している。

子どもが石畳の線を踏まないように歩いている。昨日より少し速い。

ランゼは、朝も動いていた。

町を抜けると、石畳が終わった。

足の下が土になる。

柔らかくて、少し湿っている。

草が増え、道が広がる。

リィズは一度だけ振り返った。

屋根と煙突が、まだ見える。

煙が細く上がっている。

それから前を向いた。

「北だね」

「はい」

「今度こそ、ちゃんと北」

「はい」

「メルティナ」

「はい」

「もし道が変だったら、教えてね」

「もちろんです」

「私も見る」

「お願いします」

二人は歩き出した。

後ろで町の音が少しずつ遠くなる。

前には、草原が続いていた。

その先に何があるのか、まだ見えない。

けれど、北から来る風は、昨日より少し冷たかった。

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