第四話「動かないもの」
ランゼへ向かう途中、小さな集落が見えたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
最初に見えたのは屋根だった。
草原の向こうに、茶色い屋根がいくつか並んでいる。近づくにつれて、白い壁が見えた。畑があり、井戸があり、道がある。
小さな村だった。
「町?」
リィズが言った。
「村だと思います」
「ご飯あるかな」
「まず水を補充します」
「ご飯は?」
「水のあとです」
「じゃあ水」
村は、きれいだった。
家の壁は白く塗られ、畑の畝はまっすぐ並んでいる。道に落ち葉はなく、井戸の桶まで整っていた。
でも、静かだった。
畑に男がいた。黙って鍬を動かしている。
洗濯物を干す女がいた。布を広げ、紐に掛け、また次の布を広げる。
子どもが二人、道端に座っていた。
遊んでいなかった。
話してもいなかった。
ただ、道を見ていた。
リィズは少し足を止めた。
「……みんな、眠いのかな」
メルティナは答えなかった。
井戸のそばに、老人が立っていた。
背は低く、白髪で、顔には深い皺がある。リィズたちを見ると、ゆっくり目だけを動かした。
「水を分けてもらえますか」
メルティナが言った。
老人はうなずいた。
「どうぞ」
声は平らだった。
怒ってはいない。困ってもいない。歓迎しているようにも見えなかった。
ただ、音だけがそこにあった。
メルティナが水を汲む間、リィズは子どもたちの方へ歩いた。
二人とも、まだ同じ場所に座っている。
「ねえ」
子どもたちは、ゆっくり顔を上げた。
同じ速さだった。
「何してるの?」
少し間があった。
「座ってる」
「なんで?」
また少し間があった。
「分からない」
リィズは、しばらく黙った。
子どもたちは、リィズを見ていた。目は開いている。けれど、どこか遠かった。
「楽しい?」
「分からない」
「つまらない?」
「分からない」
「遊ばないの?」
「……遊ぶ?」
その言葉を、どこか遠くから聞いたみたいだった。
リィズは口を閉じた。
風が吹いた。
洗濯物が揺れる。畑の土が乾いた匂いを立てる。井戸の水が桶の中で小さく鳴る。
村は動いていた。
でも、心が動いている感じがしなかった。
メルティナが水袋を閉じた。
「お嬢様」
「うん」
村を出る時、リィズはもう一度振り返った。
子どもたちは、また道を見ていた。
さっきと同じ場所で。
さっきと同じ顔で。
街道へ戻ると、風が軽くなった。
リィズは少しだけ息を吸った。
「ねえ、メルティナ」
「はい」
「あの村、変だったよね」
「はい」
「やっぱり?」
「気持ちの動きが、ほとんど見えませんでした」
「気持ち?」
「はい。楽しそうでも、つまらなそうでもありませんでした」
リィズは歩きながら考えた。
草原は広い。
空も青い。
昨日と同じように、雲が流れている。
なのに、さっきの村だけが少し遅れて、頭の中に残っていた。
「なんでだろう」
「分かりません」
「お腹、空いてるのかな」
メルティナは答えなかった。
リィズは振り返らなかった。
けれど、子どもたちの顔は、しばらく消えなかった。
ただの道を見ていた。
何もない道を。
二人で並んで。
村を出てから、しばらく二人とも黙って歩いた。
風はある。
空も広い。
草原は、さっきと変わらない。
白い雲が流れ、その影が地面の上をゆっくり動いていく。草が揺れて、また戻る。
でも、リィズはすぐには景色に飛びつかなかった。
珍しいことだった。
街道の石を踏みながら歩く。足音が二つ、規則正しく続いていく。メルティナは地図を確かめながら、隣を歩いていた。
村の白い壁は、もう見えない。
しばらくして、リィズが口を開いた。
「ねえ、メルティナ」
「はい」
「さっきの子たち、ほんとに座ってただけかな」
メルティナは少しだけ間を置いた。
「……そう見えました」
「何もしてなかった」
「はい」
「なんで?」
メルティナは答えなかった。
答えなかったが、少しだけ足が遅くなった。
雲の影が、二人の上を通り過ぎていく。
一瞬だけ、光が薄くなった。
「……まあ、いいか」
リィズは前を向いた。
でも、声は少しだけ軽くなかった。
道の先に、草が倒れている場所があった。
周りの草は風に揺れている。けれど、そこだけ地面に押しつけられたまま、起き上がってこない。
「……あれ」
リィズが足を止めた。
「あそこ、変じゃない?」
メルティナは近づき、地面を見た。
大きな引きずり跡があった。
人の足跡ではない。荷車の轍でもない。
重い何かが、街道から草原の奥へ引かれていったような跡だった。
草の中に、太い鎖の切れ端が落ちていた。
錆びてはいない。
リィズが手を伸ばしかける。
「触らない方がいいです」
メルティナの声は静かだった。
リィズは手を引いた。
「なんで?」
「分からないからです」
リィズは鎖を見た。
光を受けて、鈍く光っている。
引きずり跡は、北東へ向かっていた。
草の丈が高くなるにつれて、跡は見えにくくなる。それでも、何かがそこを通ったことだけは分かった。
「行ってみる?」
「行きません」
即答だった。
「なんで」
「目的地が違います」
「でも、変だよ」
「はい。だから行きません」
リィズは少しだけ口を尖らせた。
けれど、メルティナの顔を見て、それ以上は言わなかった。
二人は街道へ戻った。
風が吹いた。
倒れた草は、動かなかった。
しばらく歩くと、道の脇に大きな木が見えた。
一本だけ、ぽつんと立っている。
枝は広く、下には木陰ができていた。根元には古い石が三つ並んでいる。
「休めそう」
リィズが言った。
メルティナは荷物を下ろさなかった。
「休憩は、もう少し先にしましょう」
「なんで?」
メルティナは木陰を見た。
鳥がいない。
虫の声もない。
落ちた実にも、つつかれた跡がなかった。
リィズも少し遅れて気づいた。
「……ここも?」
「分かりません」
二人は木陰を離れた。
少し歩いてから、進む先の方で鳥が一声鳴いた。
リィズは顔を上げた。
「……いた」
「はい」
メルティナの肩が、ほんの少しだけ緩んだ。
鳥の姿は見えなかった。
けれど、声は確かに前から来ていた。
木は、もう振り返らなかった。
枝も、根元の古い石も、そこにある。
でも、あの木陰には、何も寄りついていなかった。
道は北へ続いていた。
空は青かった。
けれど、青いだけではなくなっていた。
道は、少しずつ北へ傾いていった。
草原の色が変わる。
明るい緑の中に、乾いた黄色が混じり始めていた。風が吹くたび、草の先だけがざらりと鳴る。遠くに見える丘の線も、昨日より硬く見えた。
リィズはしばらく前を見ていた。
「ねえ」
「はい」
「この先に、町はある?」
「ランゼという町があります」
「ご飯ある?」
「宿があれば」
「宿はある?」
「地図にはあります」
「お風呂は?」
「そこまでは分かりません」
「調べてないの?」
「お嬢様の家出計画が、あまり詳細ではありませんでしたので」
「計画じゃないよ。旅だよ」
「今のところ、かなり計画性のない旅です」
「でも北には進んでる」
「それは私が地図を持っているからです」
リィズは少し黙った。
「メルティナって、便利だね」
「便利で済ませないでください」
道の先に、何かが見えた。
荷車だった。
街道の脇に、斜めに傾いている。片方の車輪が外れ、草の上に転がっていた。荷台には袋が二つと、布をかぶせた木箱が一つ残っている。
馬はいなかった。
リィズは足を止めた。
「壊れてる」
「はい」
メルティナが先に近づいた。
荷台の縄が切れていた。刃物で断ったような切り口だった。袋の口は少し開いていて、中身の穀物が地面にこぼれている。
でも、鳥は来ていなかった。
虫もいなかった。
リィズはこぼれた穀物を見た。
「ここもだ」
「はい」
「食べ物なのに」
「はい」
メルティナは車輪の跡を見た。
北から来ている。
ここで止まり、そこから足跡だけが南へ向かっていた。深い。乱れている。歩いたというより、走った跡だった。
「逃げたのかな」
「そのように見えます」
「何から?」
メルティナは答えなかった。
荷車の横に、布が落ちていた。
小さな布だった。荷を包む布ではない。もっと身につけるものに近い。端が細く裂けて、草に絡んでいる。
風が吹いた。
草は揺れた。
布は動かなかった。
リィズはそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
「今の」
「見えました」
「布、揺れなかった」
「はい」
「なんで?」
「分かりません」
メルティナは荷車から離れた。
「行きましょう」
「調べないの?」
「今は、深入りしない方がいいです」
「でも」
「生きている人がいるなら、先に進めば会えるかもしれません」
リィズは足跡の方を見た。
南へ向かっている。
自分たちは、北へ向かっている。
反対だった。
「北から逃げてきたんだね」
「おそらく」
「じゃあ私たち、逃げてきた方へ行くんだ」
「はい」
メルティナの声は、いつも通りだった。
でも、手は少しだけ右の袖口に近かった。
そこに何があるのか、リィズはまだ知らない。
二人は荷車をあとにした。
少し進んでから、リィズが振り返った。
荷車はまだ傾いていた。
外れた車輪も、こぼれた穀物も、動かない布も、そのままだった。
風だけが通っていく。
何も食べに来ない。
何も戻らない。
リィズは前を向いた。
「ランゼ、早く着きたいね」
「はい」
「人がいるといいね」
「いるはずです」
「気持ちが動いてる人が」
メルティナは少しだけリィズを見た。
それから前を向いた。
「……はい」
道の向こうで、また鳥が鳴いた。
今度は少し近かった。




