第三話「王の朝」
その日の朝、アークライアの城では、まだ煙が上がっていた。
第三区画の外壁に開いた穴の前で、兵士たちが走っている。石工が呼ばれ、梯子が運ばれ、誰かが「水を」と叫んだ。
煙は細かった。
けれど、穴は大きかった。
謁見の間にも、その騒ぎは届いていた。
高い窓から、朝の光が斜めに差し込んでいる。床に長い影が伸び、壁に掛けられた紫の旗が、風でわずかに揺れていた。
カイルム王は玉座に座っていた。
手の中に胡桃がある。
割ろうとしていた。
割れなかった。
「陛下」
側近のオルネが駆け込んできた。息が切れている。額に汗が浮いていた。
「城壁に、穴が」
「知ってる」
カイルム王は胡桃を見たまま言った。
「第三区画の外壁です。直径、およそ三メートル」
「三メートルか」
王は少し考えた。
「まあ、あいつにしては小さいな」
オルネは口を閉じた。
隣にいた副官のトルカも、同じ顔をした。
「小さい、ですか」
「本気なら塔ごと消えてる」
王はもう一度、胡桃に力を込めた。
割れない。
「追手を出しますか」
「要らん」
即答だった。
「しかし、王女殿下が城を離れられたとなれば」
「あいつは死なん」
王は立ち上がり、窓辺へ歩いた。
壊れた壁の方角が見える。白い煙が、朝の空へ細く伸びていた。兵士たちはまだ走っている。石工が穴の縁を見上げ、何かを言っていた。
王は少し笑った。
「むしろ、外が心配だな」
「外が、ですか」
「あいつのせいで」
トルカは窓の外を見た。
遠くの山並みは、まだあった。
今のところは。
「メルティナは」
王が言った。
オルネがすぐに答える。
「同行しているとの報告です」
「ならいい」
「よろしいのですか」
「いい」
王は胡桃を机に置いた。
諦めたらしい。
「メルティナがいるなら、飯くらいは食わせるだろ」
「問題はそこでしょうか」
「最初の問題はそこだ」
王は壊れた壁を見たまま、少しだけ目を細めた。
「あいつ、腹が減ると機嫌が悪い」
オルネは何か言いかけて、やめた。
トルカもやめた。
謁見の間の外では、まだ足音が走っている。
「壁の修繕を」
「やっておけ」
「捜索は」
「しない」
「連絡は」
「待つ」
王の声は変わらなかった。
「戻りたくなったら戻る。戻らないなら、何か見つけたんだろ」
「何か、とは」
「さあな」
王は窓の外を見た。
外壁の穴から、草原の光が城の中へ入っている。あの穴の向こうに、リィズは立っていたのだろう。そう思うと、少しだけ似合っていた。
城の壁より、穴の向こうの方が。
「ずっと外に出たがってたからな」
王はそれだけ言った。
オルネとトルカは、顔を見合わせた。
「陛下」
「なんだ」
「心配では、ないのですか」
王は答えなかった。
しばらく、煙を見ていた。
「心配だよ」
声は小さかった。
けれど、すぐにいつもの調子へ戻った。
「だから追手は出さん」
「それは、どういう」
「追われたら、あいつはもっと遠くへ行く」
オルネは黙った。
王は机の上の胡桃を見た。
「それに」
「はい」
「メルティナがいる」
謁見の間に、少しだけ沈黙が落ちた。
外の騒ぎだけが聞こえる。
王は胡桃をもう一度手に取った。
力を込めた。
割れなかった。
「……これは硬いな」
「陛下」
「なんだ」
「壁の方が、先に割れました」
トルカが小さく言った。
オルネが目を閉じた。
王は胡桃を見た。
それから、少しだけ笑った。
「それは言うな」
紫の旗が、朝の風に揺れていた。
壊れた壁の向こうから入った光が、謁見の間の床に細く伸びていた。
目が覚めた時、リィズは空を見ていた。
城の天井ではなかった。
薄い雲が、ゆっくり流れている。鳥が一羽、その下を横切った。羽音は聞こえなかった。ただ、影だけが過ぎていった。
体の下が硬い。
岩だった。
「……あ、そうか」
野宿だった。
起き上がると、背中が少し痛かった。首も重い。肩にかけられていた外套が片方だけずれて、腕が朝の空気にさらされている。
右腕の包帯も、少し緩んでいた。
メルティナは、リィズが何か言う前に近づいた。
包帯を巻き直す。
引きすぎず、緩めすぎず、いつもと同じ加減だった。
「……ありがとう」
「はい」
火の跡には、黒い炭だけが残っていた。
荷物はすでに整えられている。メルティナの髪も、いつも通り一筋も乱れていなかった。
「おはよう」
「おはようございます」
「メルティナ、いつ起きたの」
「日が出る前です」
「ちゃんと寝た?」
「少しは」
リィズはメルティナを見た。
「それ、あまり寝てない時の言い方だね」
「否定はしません」
「昨日からそれ多いね」
「便利ですので」
リィズは笑った。
朝の光が、岩の表面を薄く金色にしていた。草には露が残っている。風はまだ冷たい。吸い込むと、胸の奥が少しだけ澄んだ気がした。
「野宿、できたね」
「はい」
「初めてだったのに」
「はい」
「なんか、いいね」
メルティナはすぐには答えなかった。
視線だけ、少し遠くへ向ける。
丘の向こうに、昨日見た断界はもう見えなかった。けれど、あちらにあることは分かっている。見えないだけで、消えたわけではない。
「……そうですね」
リィズは満足そうに頷いた。
簡単な食事を済ませ、二人は歩き出した。
朝の草は濡れていた。靴の先に露がつく。昨日と同じ草原なのに、少し違って見えた。
光の角度が違う。
風の冷たさが違う。
自分の体が、昨日より少しだけ外の世界に慣れている。
一日分だけ、遠くへ来たから。
しばらく歩いてから、リィズは振り返った。
アークライアの城は、もう見えなかった。
昨日はずっと背中にあった白い壁が、どこにもない。
「見えなくなったね」
「はい」
「怒られるの、遠くなったかな」
「遠くなっただけで、消えてはいません」
「現実的だね」
「必要ですので」
リィズは前を向いた。
道は北へ続いている。
遠見の崖の先に見た裂け目。世界の傷跡。そこへいつか行けるかどうかは、まだ分からない。
でも、昨日よりは近い。
たぶん。
「メルティナ」
「はい」
「今日は、どっち?」
メルティナは地図を広げた。
それから、少しだけリィズを見た。
「北です」
「今度こそ?」
「今度こそ」
リィズは頷いた。
「よし」
歩き出す。
銀の髪が、朝の風に揺れた。
チャコールグレーの髪も、少し遅れて同じ方向へ流れた。
旅の二日目が始まった。




