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第二話「遠見の崖」

草の丈が低くなり、土が硬くなっていった。

岩が増えてきた。小さな石が靴の下で転がる。風はさっきより冷たく、乾いていた。

遠くの稜線が、歩くたびに少しずつ近づいてくる。

「ねえ、メルティナ」

「はい」

「断界って、どんなもの?」

「世界の傷跡、と記録にはありました」

「傷跡」

「はい」

「痛そうだね」

「世界に痛覚があれば」

「ないの?」

「分かりません」

リィズは少し考えた。

「見たら、分かるかな」

「何がですか」

「痛いかどうか」

メルティナは少しだけ間を置いた。

「分かるかもしれません」

「じゃあ、ちゃんと見る」

「はい」

風が吹いた。

リィズの右腕の包帯が、少しだけ揺れた。

メルティナの視線が、ほんの一瞬そこへ落ちた。

リィズは気づかなかった。

丘の先で、空が少し白く明るくなっていた。


道が石から岩肌に変わった頃、風が冷たくなった。

草の匂いが薄くなる。代わりに、乾いた石の匂いがした。

道は細くなっていった。

低い灌木が、両側から身を寄せている。葉は小さく、枝は硬い。どれも同じ方へ傾いていた。ずっと風に押されてきた形だった。

リィズの足が、少し速くなった。

「……なんか」

「はい」

「ドキドキしてきた」

メルティナは前を見た。

岩道の先が、白く明るい。

「もうすぐです」

最後の曲がり角を抜けた。

風が、一気に広がった。

リィズは止まった。

足元から、地面が切れ落ちていた。

崖だった。

下には、霞んだ緑が広がっている。鳥が一羽、崖下の風に乗って輪を描いていた。空は広い。雲は少ない。光が斜めに差し、崖の縁だけを白く照らしている。

リィズの銀髪が、横へ流れた。

その先に、それはあった。

遠くの山並みが、そこで途切れていた。

大地が、深く割れている。向こう側は見えない。空でも、影でも、霧でもない。世界そのものに入った裂け目のようだった。

断界。

記録にあった名前が、リィズの中で遅れて形になる。

リィズは動かなかった。

風だけが吹いていた。

ドレスの裾が揺れる。包帯のリボンが小さく震える。杖を握る手に、少しだけ力が入った。

しばらくして、ようやく口を開いた。

「……オシャだね」

声は、低かった。

メルティナは隣に立った。

何も言わなかった。

銀色と、チャコールグレーの髪が、同じ方向へ流れている。

しばらく、二人はそのまま立っていた。

言葉が入る場所ではなかった。

やがてリィズが、ゆっくり息を吐いた。

「来てよかった」

「はい」

「メルティナも、そう思う?」

メルティナは断界を見ていた。

少しだけ間があった。

「……否定はしません」

リィズは笑った。

今度は、メルティナも否定しなかった。

リィズは崖の端に腰を下ろした。脚を外へ投げ出そうとする。

「お嬢様」

「大丈夫」

「危ないです」

「落ちないよ」

「落ちてからでは遅いです」

「じゃあ、ちょっと内側」

リィズは渋々、少しだけ後ろへずれた。

メルティナは隣に座った。

いつもより、近かった。

断界は遠かった。

遠いのに、はっきり見えた。

風が二人の間を通り過ぎる。崖の下から上がってきた鳥が、もう一度だけ輪を描き、裂け目とは反対の空へ消えていった。

「ねえ、メルティナ」

「はい」

「あそこまで、いつか行けるかな」

「遠いですよ」

「うん」

「かなり遠いです」

「でも」

リィズは断界を見たまま言った。

「いつかね」

メルティナは答えなかった。

ただ、風でずれた右腕の包帯を、静かに整えた。

指先が包帯に触れる。

その一瞬だけ、メルティナの目が、断界ではなくリィズの腕を見ていた。

リィズは気づかない。

「いつか、あそこもオシャって言えるかな」

「分かりません」

「見てみないと?」

「はい」

リィズは頷いた。

風が強く吹いた。

断界の奥で、光が少しだけ揺れたように見えた。

気のせいかもしれなかった。

リィズはそれを、ずっと見ていた。


崖を離れる頃、空は赤くなり始めていた。

西の雲の縁が、金色に染まっている。断界はもう光の中に沈み、さっきほどはっきり見えなかった。

リィズは何度も振り返った。

「まだ見えるかな」

「もう少し下ると見えなくなります」

「じゃあ、今のうちに見ておく」

そう言って、また振り返る。

メルティナは何も言わず、リィズの歩幅に合わせた。

来た道をそのまま戻るのではなく、少し西へ回った。

メルティナが地図で示した場所に、風を避けられる岩場があるらしい。

道は岩肌から草地へ戻っていく。

足元がやわらかくなった。夕方の光が草の先を赤く染めている。昼間より風が冷たい。夜の匂いが、少しだけ混じっていた。

「……暗くなってきたね」

「はい」

「野宿って、したことない」

「知っています」

「メルティナは?」

「一度だけ」

リィズは隣を見た。

「いつ?」

「城へ上がる前です。少しだけ」

それ以上、メルティナは言わなかった。

リィズも聞かなかった。

平たい岩場を見つけたのは、空の赤が深くなった頃だった。

大きな岩が風を遮っている。地面は乾いていた。岩の表面には、昼の熱が少しだけ残っている。

「ここにしましょう」

メルティナは荷物を下ろした。

リィズも杖を置いた。

「何する?」

「火を起こします」

「手伝う」

「結構です」

「なんで」

「大きくなりすぎます」

リィズは少しだけ口を尖らせた。

反論はしなかった。

メルティナが枯れ枝を集めた。岩の陰に火口を置き、小さく火を移す。最初は煙だけだった。やがて、細い炎が立った。

橙色の光が、岩肌を照らす。

影が揺れた。

リィズはその前に座り、膝を抱えた。

「……きれいだね」

「焚き火ですか」

「うん」

「そうですね」

火は小さかった。

けれど、暗くなり始めた草地の中では、それだけで十分だった。

メルティナが隣に座る。

崖の上より、少し近かった。

空を見上げると、星が出ていた。

最初は一つ。

それから二つ。

目が慣れるにつれて、数えられないほど増えていく。城の窓から見る星は、いつも四角い枠の中にあった。今は、頭の上が全部星だった。

リィズはしばらく黙っていた。

「ねえ」

「はい」

「家出して、よかったかな」

メルティナはすぐには答えなかった。

火を見ていた。

「お嬢様はどう思いますか」

「よかったと思う」

「なら、そうです」

「メルティナは?」

火が、小さく音を立てた。

メルティナは、炎の奥を見ていた。

「……叱られることを除けば」

リィズは笑った。

「それ、よかったってこと?」

「明言はしていません」

「でも、否定はしてない」

「……否定はしません」

リィズは満足そうに頷いた。

メルティナは、少しだけ目を伏せた。

「明日は、どっちへ行くの?」

リィズが焚き火を見ながら聞いた。

「本来は、城へ戻る道です」

「本来は?」

「お嬢様が、その通りになさるとは思っておりませんので」

リィズは少しだけ笑った。

「分かってるじゃん」

「分かりたくはありませんでした」

メルティナは火を見た。

「ただ、断界へ向かうには準備が足りません。道も、食料も、情報も」

「うん。今日は行かない」

リィズは空を見上げた。

「でも、もう少しだけ外を見たい」

メルティナはすぐには答えなかった。

火の中で、枝が小さく弾けた。

「……明日の朝、北の道を少しだけ進みます」

「北?」

「城へ戻る道から少し外れます。ただし、断界へ向かう道ではありません」

「少しだけ?」

「少しだけです」

リィズは満足そうに頷いた。

「じゃあ、少しだけ」

メルティナは、その言葉を信用しなかった。

夜が濃くなっていく。

遠くで虫が鳴いていた。草が風に触れる音がする。火の中で枝が小さく弾けた。

リィズは岩に背を預けた。

「眠くなってきた」

「今日はよく歩きました」

「メルティナは?」

「見張りをします」

「一人で?」

「はい」

「ずるい」

「何がですか」

「私も起きてたい」

「お嬢様は寝てください」

「うーん」

リィズはまだ何か言いたそうだった。

けれど、目が半分閉じていた。

メルティナは外套を一枚、リィズの肩にかけた。

「……ありがとう」

「はい」

火が揺れる。

風が岩を撫でていく。

リィズの呼吸が、少しずつ深くなった。

メルティナは火の具合を確かめた。

それから空を見上げた。

星が多かった。

城では、窓の外にしか見えなかったものが、今夜は全部見えた。

メルティナは少しだけ息を吐いた。

リィズは眠っている。

右腕の包帯が、外套の下から少しだけ見えていた。

メルティナは手を伸ばし、ほどけかけた端を静かに直した。

火は小さい。

けれど、消えてはいなかった。

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