第一話「城壁の外」
城壁に、朝が入っていた。
白い石壁に、丸い穴が開いている。縁は焦げ、砕けた石が草の上に散っていた。まだ熱の残る粉塵が、光の中をゆっくり漂っている。
穴の向こうは草原だった。
リィズは、その前に立っていた。
銀の髪が風に流れる。アメジスト色のドレス。黒革のコルセット。右腕には紫の包帯。
結び目には、アメジスト色の細いリボンが揺れていた。
片手には杖。
王女というより、旅に出る魔道士のようだった。
ただし今、その魔道士は城に穴を開けたばかりだった。
「出られた」
声は明るかった。
半歩後ろで、メルティナが穴を見ていた。
チャコールグレーの髪をきっちりまとめ、黒いロングメイド服を首元まで閉じている。ルビーレッドの瞳が、焦げた石と、穴の大きさと、リィズを順に見た。
「お嬢様」
「うん」
「もう少し小さくできませんでしたか」
「ぎりぎりだったよ」
「三メートルは、ぎりぎりではありません」
「じゃあ二メートル九十センチ」
「変わっていません」
風が入ってきた。
草と土の匂いがした。
リィズは穴の外へ一歩出た。靴の下で、草が沈む。朝露が光った。
「外って、やわらかいね」
「草ですので」
露が指先で光った。
冷たかった。
「オシャだね」
その声だけ、少し低かった。
メルティナは答えず、風で緩んだ右腕の包帯を直した。
慣れた手つきだった。
「ありがとう」
「はい」
城の奥で、声が上がった。
誰かが穴に気づいたらしい。廊下を走る足音が近づいてくる。
リィズは振り返った。
壊れた壁の向こうで、白い廊下に草原の光が差していた。城の中に、外の影が揺れている。
「怒られるかな」
「かなり」
「だよね」
「はい」
「じゃあ、今は戻らない方がいいね」
「その判断は危険です」
リィズは笑って、草原の方を向いた。
空が広かった。
雲がゆっくり流れている。丘の向こうは、光で少し霞んでいた。
「遠見の崖、行こう」
「はい」
「断界、見えるかな」
「晴れていれば」
「晴れてる」
「そうですね」
リィズは歩き出した。
メルティナは地図を開き、すぐに言った。
「お嬢様」
「うん」
「そちらは南です」
リィズは止まった。
草原を見た。空を見た。メルティナを見た。
「……南に、何かある?」
「今の目的地はありません」
「遠見の崖は?」
「北です」
「北ってどっち」
メルティナは黙って指さした。
リィズは反対側の丘を見た。
光の奥に、もう一枚景色があるようだった。
「あっちか」
「はい」
「さっきと全然違う方向だね」
「はい」
「でも、さっきの方もオシャだった」
「目的地は北です」
「わかってる」
リィズはもう一度だけ南を見た。
白い小さな花が揺れている。
「……北に行こう」
「最初からそうしてください」
「してるつもりだったんだよ」
「知っています」
二人は歩き出した。
振り返ると、アークライアの城が見えた。
外壁の穴から、まだ細い煙が上がっている。兵たちが豆粒のように走っていた。
リィズは前を向いた。
風が背中を押した。
遠見の崖から断界が見えたなら、きっとすごくオシャだ。
そう思いながら歩いていたら、五分後にリィズは東へ曲がっていた。
「お嬢様」
「……またやっちゃった」
道が細くなったあたりで、足元の色が変わった。
草の背が低くなり、土が少し湿っている。小さな石が増えていた。苔のついた岩が、道の端にいくつか転がっている。
リィズは転んだ。
大きな石ではなかった。
道端にある、どこにでもある石だった。
「いたた」
膝に土がついた。アメジスト色のドレスの裾にも、少しだけ泥が跳ねている。
メルティナは黙って膝を折った。
「泣いていますか」
「泣いてない」
「涙目です」
「違う」
「違いません」
淡い光が、メルティナの手のひらからこぼれた。
膝の擦り傷が、ゆっくり消えていく。痛みも引いた。土の上に落ちた血の赤だけが、少し遅れて目に入った。
「ありがとう」
「はい。次は足元を見てください」
「見てたよ」
「見ていれば転びません」
リィズは石を見た。
石はそこにあった。
「石が悪い」
「石は悪くありません」
少し進むと、岩場に出た。
灰色の岩が重なり、そのあいだを細い道が抜けている。風が岩に当たって、低く鳴っていた。
その陰から、魔物が出てきた。
六本の脚。ぬめった皮膚。外側へ曲がった牙。
口の端から、濁った息が漏れている。
「……オシャじゃないね」
リィズの右手が、少し動いた。
紫の光が、一瞬だけ咲いた。
音は、そのあとに来た。
岩場の端が消えていた。
魔物も、そこにあった岩も、いくつかまとめてなくなっていた。砂煙が遅れて上がる。
メルティナは、その空白を見た。
「お嬢様」
「うん」
「地形が変わりました」
「オシャじゃなかったから」
「地形の話をしています」
メルティナが杖を振った。
崩れた岩が戻っていく。削れた土が均される。砂煙が払われ、なくなったはずの岩場が、少しずつ元の顔を取り戻した。
リィズはそれを見ていた。
「メルティナって、すごいね」
「お嬢様が壊さなければ、必要のない作業です」
「でも、すごい」
メルティナは答えなかった。
岩場を抜けると、風が変わった。
空が広くなり、草の匂いが戻ってくる。
丘の向こうに、白いものが見えた。
リィズは足を止めた。
「……あれ」
斜面いっぱいに、小さな白い花が咲いていた。
風が通るたび、花が一斉に揺れる。光を受けた花びらが、薄く透けている。リィズの声が、少し低くなった。
「メルティナ」
「はい」
「オシャだね」
指先に、紫の光が滲んだ。
メルティナが目を上げる。
「お嬢様」
「うん?」
光が広がった。
白い花の一角が、ふわりと空へ上がった。
根も、土も、花びらも。
音は小さかった。
残ったのは、斜面の中に開いた、きれいな楕円形の空白だった。
「……またやっちゃった」
メルティナは、その空白を見た。
それから、リィズを見た。
何も言わずに杖を持ち直す。
淡い光が、土の上に広がった。根が戻り、茎が伸び、白い花が一本ずつ立ち上がっていく。
風が吹いた。
戻ったばかりの花も、同じように揺れた。
リィズは、しばらくそれを見ていた。
同じ景色に戻ったはずだった。
でも、少しだけ違って見えた。
「……ごめん」
メルティナの手が、ほんの少し止まった。
「珍しいですね」
「今のは、ちょっと思った」
「そうですか」
「うん」
メルティナは最後の一輪を戻した。
花畑は、また白くなった。
風が通る。花が揺れる。さっき空白だった場所も、何事もなかったように揺れていた。
リィズは少しだけ黙っていた。
「メルティナ」
「はい」
「今の、ちゃんと戻った?」
「戻りました」
「ほんとに?」
「はい」
リィズは花畑を見た。
同じに見える。
でも、自分が一度壊したことだけは、戻らなかった。
「……そっか」
「はい」
しばらく、風だけがあった。
リィズは急に顔を上げた。
「ねえ」
「はい」
「お腹すいた」
メルティナは一拍だけ黙った。
「でしょうね」
「でしょうねって何」
「城壁を壊し、道を間違え、転び、魔物を消し、花畑を一部消しました」
「並べないで」
「朝からよく動いています」
「そう言われると、すごく働いた気がする」
「働いてはいません」
リィズは口を尖らせた。
「お昼、何食べる?」
「出発前に、食料を持ちましたか」
リィズは止まった。
風が吹いた。
花が揺れた。
「……メルティナ」
「はい」
「城、壊して出てきたから」
「はい」
「急いでたから」
「はい」
「忘れた」
メルティナは懐から、小さな包みを取り出した。
布できっちり包まれている。手のひらほどの大きさだった。
「二人分あります」
リィズの顔が明るくなった。
「メルティナ!」
「お嬢様が忘れることは、分かっていましたので」
「さすが!」
「褒められることではありません」
「でも、さすが」
メルティナは包みを開いた。
堅焼きの菓子と、薄く切った干し肉が入っていた。城で食べるものより、ずっと簡素だった。
リィズはそれを見て、少しだけ目を輝かせた。
「これ、外で食べるやつだ」
「だいたいの食べ物は、外で食べれば外で食べるものになります」
「そういう意味じゃなくて」
「分かっています」
丘の斜面から少し離れたところに、平たい岩があった。
二人はそこに腰を下ろした。
岩は日に温められていて、少しだけぬくもりがあった。草の匂いと、花の匂いと、干し肉の塩気が混ざっている。
リィズは干し肉を口に入れた。
しばらく噛んだ。
「かたい」
「携帯食ですので」
「でも、おいしい」
「そうですか」
「城で食べるのより好きかも」
「それは、料理人が聞いたら泣きます」
「言わないでおく」
「賢明です」
風が丘を越えた。
花畑が揺れた。
リィズは菓子をかじりながら、空を見上げた。
「外で食べると、何でも少しおいしく感じるね」
「そうですね」
「メルティナも?」
メルティナは干し肉を小さく折った。
少しだけ間があった。
「……否定はしません」
リィズは笑った。
メルティナは笑わなかった。
でも、否定もしなかった。
リィズは北の方を見た。
「遠見の崖、まだ遠い?」
「ここからなら、午後には着くと思います」
「断界、見えるかな」
「今日の空なら、見える可能性は高いです」
「メルティナ、調べてきたの?」
「少しだけ」
「いつ?」
「昨夜です」
リィズは菓子を持ったまま、メルティナを見た。
「昨夜?」
「お嬢様が北塔の窓を三度見ていましたので」
「見てた?」
「はい」
「私を?」
「はい」
「……ずっと?」
「必要な範囲で」
リィズは少し考えた。
「じゃあ、私が今日出るって分かってたの?」
メルティナは干し肉を布に戻した。
「確信ではありません」
「確信じゃない?」
「ただ、お嬢様は遠見の崖の地図を逆さに持っていました」
「……見てた?」
「はい」
「止めなかったんだ」
「止めても、別の壁が壊れるだけですので」
リィズは黙った。
風が吹いた。
花が揺れた。
「じゃあ、準備してくれたの?」
「最低限は」
「食べ物も?」
「はい」
「地図も?」
「はい」
「私が忘れることも?」
「はい」
リィズは少しだけ口を尖らせた。
「そんなに分かりやすいかな、私」
「はい」
「少しは迷って」
「迷う要素がありません」
「ひどい」
「事実です」
リィズは菓子をかじった。
少しして、笑った。
「でも、来てくれてよかった」
メルティナはすぐには答えなかった。
花畑の方を見ていた。
「……否定はしません」
今度は、少しだけ声が低かった。
リィズはその横顔を見た。
メルティナの表情は、いつも通り静かだった。けれど、風で揺れた前髪を直す手が、少しだけ遅かった。
食べ終えると、リィズは岩から立ち上がった。
「よし。行こう」
「はい」
「今度こそ北」
「お願いします」
二人はまた歩き出した。
花畑が後ろへ遠ざかっていく。
白い花は、もうただの白い花に見えた。けれどリィズは、一度だけ振り返った。
風が吹いた。
さっき戻した場所も、同じように揺れていた。
リィズは前を向いた。
北へ向かう道は、そこから少しずつ上りはじめていた。




