第三十四話「白い右腕」
アークライア城の朝は、静かだった。
窓の外で、噴水の水が細く跳ねている。
庭師が石畳を洗う音が、遠くから聞こえた。
水の音。
鳥の声。
廊下を歩く侍女たちの、控えめな足音。
それは、ネオストの白い静けさとは違っていた。
誰かが眠らされている静けさではない。
朝が、朝として息をしている音だった。
リィズは寝台の上に座って、自分の右腕を見ていた。
包帯はない。
紫の布もない。
肩から二の腕まで、白い肌が続いている。
何度見ても、まだ少し信じられなかった。
指を曲げる。
開く。
もう一度、曲げる。
ちゃんと動く。
痛みは、少しだけある。
でも、それは黒い痕が疼く痛みではなかった。
旅のあと、たくさん魔法を使ったあと、身体が疲れている時の痛みに近い。
普通の痛み。
それが、リィズには不思議だった。
「メルティナ」
寝台の横に立っていたメルティナが、静かに頭を下げた。
「はい、リィズ様」
「見て」
リィズは右腕を少し上げた。
「やっぱり白い」
「はい」
「夢じゃない?」
「夢ではございません」
「ほんとに?」
「はい」
リィズは、少しだけ笑った。
城に戻ってから、何度も同じことを聞いている。
そのたびに、メルティナは同じように答えてくれる。
少しも面倒そうにしない。
いつものメルティナだった。
「消えたのよ、メルティナ」
リィズは、右腕を朝の光にかざした。
「本当に消えたの。黒いの、もうどこにもない」
「はい」
「包帯もいらないの」
「はい」
「隠さなくていいの」
「はい」
「メルティナと一緒に勝ったのよ」
「はい」
メルティナは微笑んだ。
完璧なメイドの笑顔だった。
リィズは右腕を見つめたまま、そっと息を吸った。
朝の光が、白い肌に乗っている。
隠さなくていい腕。
包帯を巻かなくていい腕。
誰かに見られても、胸の奥が縮まらない腕。
「オシャ」
小さく言ってから、少し照れた。
「今のは、自分で言っちゃった」
メルティナは、ほんの少しだけ目を細めた。
「よろしいかと存じます」
「いいの?」
「はい」
「自分の腕にオシャって言うの、変じゃない?」
「変ではございません」
メルティナは、静かに微笑んだ。
「とても、リィズ様らしいです」
リィズは胸の奥が跳ねるのを感じた。
それがうれしかった。
自分の右腕を見て、怖いと思わなかった。
隠したいと思わなかった。
きれいだと思った。
オシャだと思った。
朝の光が、白い右腕の上で少しだけ明るく見えた。
扉の外から、控えめな足音がした。
「姫様」
声は、王の側近オルネだった。
「陛下が、朝食を共にしたいとのことです」
リィズは目を輝かせた。
「お父様、起きてるの?」
「はい」
「珍しい」
扉の向こうで、オルネが少し黙った。
「陛下は、姫様がお戻りになってから、ほとんど眠っておられません」
リィズは目を瞬いた。
「そうなの?」
「はい」
「怒ってる?」
「それは、ご本人からお聞きください」
「怒ってる時の言い方じゃん」
メルティナが静かに言った。
「まずは、お召し替えを」
「このままじゃだめ?」
「だめです」
「右腕見せたいのに」
「見せることと、寝間着で朝食へ向かうことは別です」
「メルティナって、そういうところ細かい」
「姫様が大雑把すぎるのです」
リィズは少しだけ口を尖らせた。
でも、すぐに右腕を見て笑った。
「でも、見せたい」
「はい」
「お父様にも」
「はい」
「オルネにも」
扉の向こうで、オルネが咳払いをした。
リィズは笑った。
久しぶりに、何も考えずに笑った気がした。
城壁を壊して出ていった日の朝。
遠見の崖を目指した日。
クナトの煙。
転送の洞窟。
白い施設。
調律室。
どれも、まだ身体のどこかに残っている。
でも今、窓の外にはアークライアの庭がある。
噴水があり、石畳があり、朝の光がある。
帰ってきたのだと、少しずつ分かってきた。
メルティナが衣装棚へ向かう。
いつもの動きだった。
静かで、無駄がなく、迷いがない。
けれど、衣装棚の取っ手に触れた時、ほんの少しだけ指が止まった。
リィズは、自分の右腕を、まだ見ていた。
メルティナは衣装を選んだ。
生成りの柔らかな上衣。
淡い紫の腰布。
旅の服より少しだけ城に合う。
けれど、堅苦しすぎない服。
右肩を隠しすぎない形だった。
リィズはそれを見て、少し驚いた。
「それ、右腕見える?」
「はい」
「いいの?」
「リィズ様が、見せたいのでしょう」
リィズは、ぱっと笑った。
「うん」
「では、見せればよろしいかと」
「メルティナ、大好き」
「存じております」
「そこは、私もですって言うところじゃない?」
「私もでございます」
「遅い」
「申し訳ございません」
メルティナは、ほんの少しだけ、襟元のボタンに指を添えた。
「どうしたの?」
「少し、襟が乱れておりました」
「全然乱れてないよ」
「メイドですので」
メルティナは微笑んだ。
その笑顔がいつもどおりで、リィズは安心した。
衣服を替える間、メルティナの指は一度も乱れなかった。
帯を整え、襟元を直し、髪を梳く。
旅の土と煙の匂いは、もうほとんど残っていない。
鏡の中のリィズは、アークライアの王女に戻っていた。
でも、少し違う。
右腕を隠していない。
鏡の中の自分は、知っている姿のはずなのに、知らない人みたいに見えた。
「ねえ、メルティナ」
「はい」
「私、ちゃんと姫に見える?」
「はい」
「前より?」
「前より、まっすぐ立って見えます」
リィズは鏡を見た。
まっすぐ。
そう言われると、少し照れた。
「そっか」
「はい」
メルティナは、髪飾りを整えながら言った。
「セノア様から、知らせが届いております」
「セノアから?」
「はい」
リィズは鏡越しにメルティナを見た。
「三一六たちは?」
「奥の部屋の子どもたちも、北の山道を下りたそうです」
リィズは息を止めた。
「三一六も?」
「はい」
「歩けた?」
「途中までは、セノア様が抱えていたそうです」
「そっか」
リィズは小さく息を吐いた。
「よかった」
メルティナは続けた。
「クナトから連れ去られていた子も、ハシュカ様のもとへ戻ったと」
リィズはぱっと顔を上げた。
「生きてる?」
「はい。衰弱はあるそうですが、命に別状はないとのことです」
リィズは長く息を吐いた。
今度は、胸の奥まで空気が入った。
「よかった」
それから、少しだけ眉を寄せた。
「でも、ハシュカ、忙しくなるね」
「はい」
「クナトの煙も?」
「戻っているそうです」
「炊事の煙?」
「はい」
リィズは少し笑った。
「じゃあ、あそこも朝ごはん作ってるんだ」
「おそらく」
「あとで、お礼しなきゃ」
「はい」
「いっぱい」
「はい」
リィズは鏡の中の自分を見た。
白い右腕。
淡い紫の腰布。
髪に差した小さな飾り。
その向こうに、メルティナがいる。
いつものように、少し後ろに。
少し静かに。
「ねえ、メルティナ」
「はい」
「セノアも、ちゃんと逃がす側に残ったんだね」
「はい」
「よかった」
「はい」
「戻ってきたら、お礼言わなきゃ」
「はい」
「でも、ちょっと怒る」
「なぜでしょうか」
「すぐ『分かりません』って言うから」
メルティナは少しだけ笑った。
「それは、たしかに少し困りますね」
「でしょ」
リィズは満足そうにうなずいた。
笑えた。
普通に。
それが、また少し嬉しかった。
リィズは扉へ向かおうとして、ふと足を止めた。
メルティナが動かない。
まだ鏡の前にいる。
いつもなら、リィズより先に扉へ向かう。
廊下の安全を見て、歩く位置を整え、必要なら侍女へ指示を出す。
でも今は、鏡の前で静かに立っていた。
「メルティナ?」
「はい」
メルティナはすぐに顔を上げた。
「参ります」
「疲れてる?」
「少し」
「少し?」
「旅の疲れでございます」
リィズはじっと見た。
メルティナは微笑んでいる。
いつもの、きれいな笑顔。
「朝食のあと、寝る?」
「リィズ様が休まれましたら」
「私じゃなくて、メルティナが」
「では、リィズ様がお休みになったあとに」
「同じじゃん」
「はい」
リィズは少し不満だった。
でも、今は早く父に右腕を見せたかった。
だから、あとで絶対に寝かせようと思った。
絶対。
本当に絶対。
メルティナは、襟元のボタンに指を添えた。
一番上まで、きちんと留める。
朝の光が、白い布の上を滑った。
リィズは、もう扉の方を向いていた。
「行こう、メルティナ」
「はい、リィズ様」
扉が開く。
廊下には、朝の光が差していた。
白い石壁。
磨かれた床。
遠くから聞こえる食器の音。
どれも、リィズの知っている城の音だった。
リィズは右腕を少しだけ上げたまま、廊下へ出た。
隠さない。
もう、隠さない。
すれ違った侍女が、驚いたように目を見開いた。
すぐに深く頭を下げる。
その目が、右腕を見たことをリィズは分かった。
でも、嫌ではなかった。
見ていい。
そう思った。
見て。
白いから。
消えたから。
メルティナと一緒に勝ったから。
胸の奥が跳ねた。
リィズは、右腕を少しだけ上げた。
メルティナが隣で、ほんの少しだけ目を細めた。
「嬉しそうですね」
「うん」
リィズは笑った。
廊下の先に、朝食の間へ続く扉が見える。
その向こうに、父がいる。
きっと驚く。
たぶん泣かない。
父は、そういう時に変な顔をする。
そして、よかったな、くらいのことを軽く言う。
でも、きっと本当は嬉しい。
リィズは少し走りそうになった。
「走ってはいけません」
メルティナが言った。
「まだ走ってない」
「走る直前の足でした」
「なんで分かるの」
「メイドですので」
「メイドってすごいね」
「はい」
リィズは右腕を見た。
朝の光が、白い肌に乗っている。
本当に白い。
本当に消えた。
「メルティナ」
「はい」
「ありがとう」
メルティナは歩きながら、静かに頭を下げた。
「もったいないお言葉です」
「もったいなくないよ」
リィズは前を見たまま言った。
「私、嬉しいの。すごく」
「はい」
「だから、今日はたくさん言う」
「はい」
「ありがとう、メルティナ」
「はい」
リィズは前を見たまま、もう一度右腕を抱えた。
朝食の間の扉が開く。
明るい光が、廊下へ流れた。
リィズは白い右腕を抱えたまま、その光の中へ入っていった。
後ろで、メルティナは一度だけ足を止めた。
ほんの一瞬だった。
それから、いつもの歩幅でリィズの後を追う。
首元まで留めたボタンは、一つも乱れていない。
メルティナは微笑んでいた。
完璧なメイドの笑顔を、最後まで崩さないまま。




