↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/35

第三十四話「白い右腕」

アークライア城の朝は、静かだった。

窓の外で、噴水の水が細く跳ねている。

庭師が石畳を洗う音が、遠くから聞こえた。

水の音。

鳥の声。

廊下を歩く侍女たちの、控えめな足音。

それは、ネオストの白い静けさとは違っていた。

誰かが眠らされている静けさではない。

朝が、朝として息をしている音だった。

リィズは寝台の上に座って、自分の右腕を見ていた。

包帯はない。

紫の布もない。

肩から二の腕まで、白い肌が続いている。

何度見ても、まだ少し信じられなかった。

指を曲げる。

開く。

もう一度、曲げる。

ちゃんと動く。

痛みは、少しだけある。

でも、それは黒い痕が疼く痛みではなかった。

旅のあと、たくさん魔法を使ったあと、身体が疲れている時の痛みに近い。

普通の痛み。

それが、リィズには不思議だった。

「メルティナ」

寝台の横に立っていたメルティナが、静かに頭を下げた。

「はい、リィズ様」

「見て」

リィズは右腕を少し上げた。

「やっぱり白い」

「はい」

「夢じゃない?」

「夢ではございません」

「ほんとに?」

「はい」

リィズは、少しだけ笑った。

城に戻ってから、何度も同じことを聞いている。

そのたびに、メルティナは同じように答えてくれる。

少しも面倒そうにしない。

いつものメルティナだった。

「消えたのよ、メルティナ」

リィズは、右腕を朝の光にかざした。

「本当に消えたの。黒いの、もうどこにもない」

「はい」

「包帯もいらないの」

「はい」

「隠さなくていいの」

「はい」

「メルティナと一緒に勝ったのよ」

「はい」

メルティナは微笑んだ。

完璧なメイドの笑顔だった。

リィズは右腕を見つめたまま、そっと息を吸った。

朝の光が、白い肌に乗っている。

隠さなくていい腕。

包帯を巻かなくていい腕。

誰かに見られても、胸の奥が縮まらない腕。

「オシャ」

小さく言ってから、少し照れた。

「今のは、自分で言っちゃった」

メルティナは、ほんの少しだけ目を細めた。

「よろしいかと存じます」

「いいの?」

「はい」

「自分の腕にオシャって言うの、変じゃない?」

「変ではございません」

メルティナは、静かに微笑んだ。

「とても、リィズ様らしいです」

リィズは胸の奥が跳ねるのを感じた。

それがうれしかった。

自分の右腕を見て、怖いと思わなかった。

隠したいと思わなかった。

きれいだと思った。

オシャだと思った。

朝の光が、白い右腕の上で少しだけ明るく見えた。

扉の外から、控えめな足音がした。

「姫様」

声は、王の側近オルネだった。

「陛下が、朝食を共にしたいとのことです」

リィズは目を輝かせた。

「お父様、起きてるの?」

「はい」

「珍しい」

扉の向こうで、オルネが少し黙った。

「陛下は、姫様がお戻りになってから、ほとんど眠っておられません」

リィズは目を瞬いた。

「そうなの?」

「はい」

「怒ってる?」

「それは、ご本人からお聞きください」

「怒ってる時の言い方じゃん」

メルティナが静かに言った。

「まずは、お召し替えを」

「このままじゃだめ?」

「だめです」

「右腕見せたいのに」

「見せることと、寝間着で朝食へ向かうことは別です」

「メルティナって、そういうところ細かい」

「姫様が大雑把すぎるのです」

リィズは少しだけ口を尖らせた。

でも、すぐに右腕を見て笑った。

「でも、見せたい」

「はい」

「お父様にも」

「はい」

「オルネにも」

扉の向こうで、オルネが咳払いをした。

リィズは笑った。

久しぶりに、何も考えずに笑った気がした。

城壁を壊して出ていった日の朝。

遠見の崖を目指した日。

クナトの煙。

転送の洞窟。

白い施設。

調律室。

どれも、まだ身体のどこかに残っている。

でも今、窓の外にはアークライアの庭がある。

噴水があり、石畳があり、朝の光がある。

帰ってきたのだと、少しずつ分かってきた。

メルティナが衣装棚へ向かう。

いつもの動きだった。

静かで、無駄がなく、迷いがない。

けれど、衣装棚の取っ手に触れた時、ほんの少しだけ指が止まった。

リィズは、自分の右腕を、まだ見ていた。

メルティナは衣装を選んだ。

生成りの柔らかな上衣。

淡い紫の腰布。

旅の服より少しだけ城に合う。

けれど、堅苦しすぎない服。

右肩を隠しすぎない形だった。

リィズはそれを見て、少し驚いた。

「それ、右腕見える?」

「はい」

「いいの?」

「リィズ様が、見せたいのでしょう」

リィズは、ぱっと笑った。

「うん」

「では、見せればよろしいかと」

「メルティナ、大好き」

「存じております」

「そこは、私もですって言うところじゃない?」

「私もでございます」

「遅い」

「申し訳ございません」

メルティナは、ほんの少しだけ、襟元のボタンに指を添えた。

「どうしたの?」

「少し、襟が乱れておりました」

「全然乱れてないよ」

「メイドですので」

メルティナは微笑んだ。

その笑顔がいつもどおりで、リィズは安心した。

衣服を替える間、メルティナの指は一度も乱れなかった。

帯を整え、襟元を直し、髪を梳く。

旅の土と煙の匂いは、もうほとんど残っていない。

鏡の中のリィズは、アークライアの王女に戻っていた。

でも、少し違う。

右腕を隠していない。

鏡の中の自分は、知っている姿のはずなのに、知らない人みたいに見えた。

「ねえ、メルティナ」

「はい」

「私、ちゃんと姫に見える?」

「はい」

「前より?」

「前より、まっすぐ立って見えます」

リィズは鏡を見た。

まっすぐ。

そう言われると、少し照れた。

「そっか」

「はい」

メルティナは、髪飾りを整えながら言った。

「セノア様から、知らせが届いております」

「セノアから?」

「はい」

リィズは鏡越しにメルティナを見た。

「三一六たちは?」

「奥の部屋の子どもたちも、北の山道を下りたそうです」

リィズは息を止めた。

「三一六も?」

「はい」

「歩けた?」

「途中までは、セノア様が抱えていたそうです」

「そっか」

リィズは小さく息を吐いた。

「よかった」

メルティナは続けた。

「クナトから連れ去られていた子も、ハシュカ様のもとへ戻ったと」

リィズはぱっと顔を上げた。

「生きてる?」

「はい。衰弱はあるそうですが、命に別状はないとのことです」

リィズは長く息を吐いた。

今度は、胸の奥まで空気が入った。

「よかった」

それから、少しだけ眉を寄せた。

「でも、ハシュカ、忙しくなるね」

「はい」

「クナトの煙も?」

「戻っているそうです」

「炊事の煙?」

「はい」

リィズは少し笑った。

「じゃあ、あそこも朝ごはん作ってるんだ」

「おそらく」

「あとで、お礼しなきゃ」

「はい」

「いっぱい」

「はい」

リィズは鏡の中の自分を見た。

白い右腕。

淡い紫の腰布。

髪に差した小さな飾り。

その向こうに、メルティナがいる。

いつものように、少し後ろに。

少し静かに。

「ねえ、メルティナ」

「はい」

「セノアも、ちゃんと逃がす側に残ったんだね」

「はい」

「よかった」

「はい」

「戻ってきたら、お礼言わなきゃ」

「はい」

「でも、ちょっと怒る」

「なぜでしょうか」

「すぐ『分かりません』って言うから」

メルティナは少しだけ笑った。

「それは、たしかに少し困りますね」

「でしょ」

リィズは満足そうにうなずいた。

笑えた。

普通に。

それが、また少し嬉しかった。

リィズは扉へ向かおうとして、ふと足を止めた。

メルティナが動かない。

まだ鏡の前にいる。

いつもなら、リィズより先に扉へ向かう。

廊下の安全を見て、歩く位置を整え、必要なら侍女へ指示を出す。

でも今は、鏡の前で静かに立っていた。

「メルティナ?」

「はい」

メルティナはすぐに顔を上げた。

「参ります」

「疲れてる?」

「少し」

「少し?」

「旅の疲れでございます」

リィズはじっと見た。

メルティナは微笑んでいる。

いつもの、きれいな笑顔。

「朝食のあと、寝る?」

「リィズ様が休まれましたら」

「私じゃなくて、メルティナが」

「では、リィズ様がお休みになったあとに」

「同じじゃん」

「はい」

リィズは少し不満だった。

でも、今は早く父に右腕を見せたかった。

だから、あとで絶対に寝かせようと思った。

絶対。

本当に絶対。

メルティナは、襟元のボタンに指を添えた。

一番上まで、きちんと留める。

朝の光が、白い布の上を滑った。

リィズは、もう扉の方を向いていた。

「行こう、メルティナ」

「はい、リィズ様」

扉が開く。

廊下には、朝の光が差していた。

白い石壁。

磨かれた床。

遠くから聞こえる食器の音。

どれも、リィズの知っている城の音だった。

リィズは右腕を少しだけ上げたまま、廊下へ出た。

隠さない。

もう、隠さない。

すれ違った侍女が、驚いたように目を見開いた。

すぐに深く頭を下げる。

その目が、右腕を見たことをリィズは分かった。

でも、嫌ではなかった。

見ていい。

そう思った。

見て。

白いから。

消えたから。

メルティナと一緒に勝ったから。

胸の奥が跳ねた。

リィズは、右腕を少しだけ上げた。

メルティナが隣で、ほんの少しだけ目を細めた。

「嬉しそうですね」

「うん」

リィズは笑った。

廊下の先に、朝食の間へ続く扉が見える。

その向こうに、父がいる。

きっと驚く。

たぶん泣かない。

父は、そういう時に変な顔をする。

そして、よかったな、くらいのことを軽く言う。

でも、きっと本当は嬉しい。

リィズは少し走りそうになった。

「走ってはいけません」

メルティナが言った。

「まだ走ってない」

「走る直前の足でした」

「なんで分かるの」

「メイドですので」

「メイドってすごいね」

「はい」

リィズは右腕を見た。

朝の光が、白い肌に乗っている。

本当に白い。

本当に消えた。

「メルティナ」

「はい」

「ありがとう」

メルティナは歩きながら、静かに頭を下げた。

「もったいないお言葉です」

「もったいなくないよ」

リィズは前を見たまま言った。

「私、嬉しいの。すごく」

「はい」

「だから、今日はたくさん言う」

「はい」

「ありがとう、メルティナ」

「はい」

リィズは前を見たまま、もう一度右腕を抱えた。

朝食の間の扉が開く。

明るい光が、廊下へ流れた。

リィズは白い右腕を抱えたまま、その光の中へ入っていった。

後ろで、メルティナは一度だけ足を止めた。

ほんの一瞬だった。

それから、いつもの歩幅でリィズの後を追う。

首元まで留めたボタンは、一つも乱れていない。

メルティナは微笑んでいた。

完璧なメイドの笑顔を、最後まで崩さないまま。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。