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第三十三話「白磁の祭壇」

調律室の中は、静かだった。

広い。

白い。

天井は高く、声を出せばそのまま吸い上げられそうだった。

壁には透明な管がいくつも這っている。

その中を、濃く集まった液体が流れていた。

先ほど見たものより、ずっと重い。

ここへ集められているのだと、リィズには分かった。

笑いたい気持ち。

怒りたい気持ち。

どこかへ行きたい気持ち。

誰かを守りたい気持ち。

そういうものが、全部ここへ流れてくる。

そして、白い祭壇の周りで静かに揺れている。

「気持ち悪い」

リィズは言った。

その声は、調律室の白に吸い込まれた。

中央には、白磁の祭壇があった。

王城の礼拝堂にある祭壇とは違う。

祈るためのものではない。

何かを捧げるための形をしていた。

人が一人、立てるほどの台。

その前に、腕を置くためのくぼみ。

右腕の高さ。

くぼみの縁には、細い紫の線が刻まれている。

線はただの模様ではなかった。

リィズが一歩近づくと、内側から淡く光った。

呼んでいる。

右腕を。

包帯の下の黒い痕を。

三〇八号を。

「嫌」

リィズは言った。

調律室の奥から、平らな声が響いた。

「三〇八号。紫反応、確認」

「私はリィズ」

「三〇八号。調律核、接続準備」

「リィズだって言ってるでしょ」

声は返事をしなかった。

聞こえていないのではない。

聞く気がないのだ。

名前は、この部屋にとって必要ない。

番号があればいい。

反応があればいい。

右腕があればいい。

リィズは胸の奥が冷たくなるのを感じた。

「私を、ここに置く気なんだね」

白磁の祭壇は答えない。

でも、右腕が答えた。

包帯の下で、黒い痕が熱を持つ。

血ではない。

炎でもない。

身体の奥にある紫が、祭壇へ引かれている。

セノアの言葉が、耳の奥に残っていた。

リィズの紫は、低速化に抵抗する強い反応。

人を眠らせる波の中で、強く動く反応。

だからネオストは、それを逆に使う。

強く動く力を、動かないための波に変える。

「私の魔法で、世界を眠らせる」

リィズは小さく言った。

口にした瞬間、それが少しだけ本当になった気がして、嫌だった。

「そんなこと、させない」

杖を握る。

壊したい。

この祭壇を壊す。

管を壊す。

瓶を割る。

白い部屋ごと、全部。

リィズの中で紫が膨らむ。

一瞬、調律室の管が震えた。

閉じ込められた色が、リィズの魔法に触れて身じろぎしたようだった。

白磁の祭壇の線が、強く光った。

「三〇八号。過出力反応」

リィズは杖を上げかけた。

その時、白い部屋に残してきたものが、胸の奥に戻ってきた。

三一六の声。

メルティナに預けた、小さな手。

動けない子どもたち。

奥の部屋にまだいる子どもたち。

硝子の向こうの魔物たち。

閉じ込められた感情の液体。

ここを壊せば、何が起こるか分からない。

リィズの魔法は強い。

強すぎる。

その光は、壊したいものだけを選んではくれない。

今さら、そんなことを知る。

「撃てない」

リィズは言った。

悔しかった。

壊せるのに。

壊してはいけない。

その間に立っていることが、右腕の痛みより苦しかった。

でも、何もしないためにここへ来たわけではない。

リィズは白磁の祭壇を見た。

右腕を置くためのくぼみ。

紫を集める線。

三〇八号を調律核にするための場所。

ネオストは、リィズの紫を外へ広げようとしている。

大陸へ。

人々へ。

子どもたちへ。

アークライアへ。

なら、その入口はここだ。

「外から撃てないなら」

リィズは言った。

「中から壊す」

怖い。

でも、ただ怖がりに来たわけではない。

この右腕を、ずっと隠してきた。

壊すだけの腕だと思っていた。

でも今は違う。

この腕を使って、眠らされている子どもたちを起こす。

閉じ込められた感情を返す。

魔物を縛る白い管を止める。

「向こうが私を使うなら、私も向こうを使う」

リィズは言った。

「ネオストが私の紫を大陸へ流そうとしてるなら、その前に、この部屋の中へ全部流す」

その言葉は、強がりだった。

でも、嘘ではなかった。

調律室の床に、紫の光が広がった。

魔法陣だった。

白い床に刻まれていた細い溝が、リィズの足元から祭壇へ向かって光っていく。

機械ではない。

ただの魔法陣でもない。

石と白磁と金属と魔力が、ひとつの術式にされている。

魔法を、命令どおり動かすための形。

ネオストの魔法科学技術。

そう呼ぶのだと、セノアは言った。

リィズは、その言葉をもっと嫌いになった。

「三〇八号。第一拘束、開始」

床の魔法陣から、薄い光の帯が伸びた。

リィズの右足首に触れる。

冷たい。

すぐに振り払おうとした。

けれど、光は皮膚ではなく、もっと奥に触れてくる。

魔力の通り道。

右腕と同じ場所。

「っ……!」

リィズの膝が揺れた。

さらに、左足首。

腰。

右腕。

包帯の上から、紫の光が巻きつく。

縛られているのに、縄ではない。

触れられているのに、手ではない。

身体の中の道を、勝手に読まれている。

「やめて!」

リィズは腕を引いた。

光の帯は伸びる。

切れない。

切れても、すぐに別の線が繋がる。

白磁の祭壇のくぼみが、強く光った。

右腕を置け。

そう言っているようだった。

リィズは歯を食いしばった。

置きたくない。

でも、置かなければ入れない。

内側へ。

この白い部屋の奥へ。

ネオストが自分を使うつもりなら、その通り道を奪うしかない。

「分かったよ」

リィズは小さく言った。

「置けばいいんでしょ」

戻れる保証はない。

でも、ここまで来て、ただ怖がって帰ることはできない。

リィズは祭壇の前に立った。

右腕が熱い。

包帯の下の黒い痕が、奥から剥がされるように疼いている。

調律室が、リィズの紫を引き出そうとしている。

普段は身体の奥に沈んでいるものまで。

黒く焦げた魔力の道まで。

全部。

「ネオストが私を使う前に」

リィズは言った。

「私が使う」

そして、右腕を祭壇のくぼみへ近づけた。

その瞬間だった。

調律室の声が響く。

「紫反応、不安定。補助因子、接近中」

リィズは顔を上げた。

補助因子。

嫌な言葉だった。

誰のことか、聞かなくても分かる。

「メルティナ?」

答えはなかった。

そのかわり、入口の方で小さな足音がした。

リィズは振り返った。

白い扉のところに、メルティナが立っていた。

壁に片手をついている。

顔色は悪い。

唇の色も薄い。

立っているだけで、身体が崩れそうだった。

それでも、赤い瞳だけはまっすぐリィズを見ていた。

「来ないで!」

リィズは叫んだ。

メルティナは首を横に動かした。

「それは、お受けできません」

「命令!」

「今だけは、従えません」

「私、今から中に入るの! だから来ちゃだめ!」

「だから、来ました」

リィズの胸が跳ねた。

メルティナは一歩、調律室へ入った。

床の魔法陣が、彼女の足元にも薄く光る。

リィズの右腕に巻きついていた紫の光が、メルティナの方へ震えた。

リィズは息を呑む。

「だめ、触らないで!」

「触れなければ、ほどけません」

メルティナはそう言って、リィズの右腕へ手を伸ばした。

指先に、白い治癒の光が灯る。

紫の光の中へ、白が細く入り込んだ。

まるで、濁った水に細い月の光を落とすようだった。

「何してるの」

「流れを乱します」

「治癒魔法で?」

「はい」

「そんなことできるの?」

「やります」

「できるか聞いてるの」

「やります」

リィズは言葉に詰まった。

メルティナがこういう時は、もう決めている。

いつもそうだった。

リィズの包帯を替える時も。

魔法を使いすぎて、右腕が熱を持った時も。

リィズが何も分からず笑っていた時も。

メルティナは、できるかどうかではなく、やると決めて手を伸ばす。

だから今も、そうなのだと思った。

「メルティナ、戻って!」

「戻りません」

「子どもたちは!」

「三一六は、セノア様が抱えています」

メルティナは息を整えようとした。

けれど、吸った息の途中で胸が小さく詰まった。

「動ける子は、入口側へ集めています」

「じゃあ、なおさら戻って!」

「戻りません」

リィズは泣きそうになった。

怒っているのか、怖いのか、自分でも分からない。

「なんで分かんないの!」

「分かっております」

メルティナは静かに言った。

「だから、来ました」

「分かってない!」

リィズの声が、白い部屋に跳ねた。

「ここ、私を使う場所なんでしょ! 私の紫で、みんなを眠らせる場所なんでしょ!」

「はい」

「だから、私が先に使うの!」

「はい」

「はいじゃない!」

「リィズ様だけでは、危険です」

その言葉は、細いのに硬かった。

リィズは息を止めた。

「なんで、そんなこと言うの」

「この術式は、壊すだけでは止まりません」

メルティナは一歩ずつ近づいてくる。

紫の光が、その足元で揺れる。

メルティナの身体が小さく傾く。

それでも止まらない。

「詳しい仕組みは分かりません」

メルティナは、リィズの右腕を見た。

「ですが、今は普段より奥が浮いています」

「奥?」

「はい。右腕の奥です。いつもは治癒魔法が届かない場所まで、熱が上がっています」

リィズは右腕を見た。

包帯の下で、黒い痕が強く疼いている。

「だから痛いの?」

「はい」

メルティナは、リィズの右腕に触れた。

「普段の治癒魔法では、ここまで届きません」

「じゃあ、今なら届くの?」

「はい。今だけです」

「今だけ?」

「調律室が、リィズ様の紫を引き出している間だけ」

メルティナの指先に、白い光が灯る。

「その流れに、私の治癒魔法を入れます」

「入れたら?」

「黒く焼けた通り道を、ほどけます」

「ほどく?」

「はい。皮膚を治すのではありません。奥で焦げついた魔力の道を、外へほどいていきます」

リィズは、よく分からなかった。

でも、分かったこともある。

今だからできる。

この白い嫌な部屋が、リィズを使おうとしているから。

その嫌な力を、メルティナが逆に使おうとしている。

「つまり」

リィズは、涙をこらえながら言った。

「ネオストが私を使おうとしてるのを、メルティナが横取りするってこと?」

メルティナは、ほんの少しだけ目を細めた。

「だいたい合っています」

「だいたいなんだ」

「かなり乱暴な理解です」

「でも合ってる?」

「はい」

リィズの胸に、少しだけ光が差した。

消える。

この黒い痕が。

魔法を使うたびに熱くなっていたものが。

ずっと包帯で隠してきたものが。

今なら。

ここだから。

メルティナが、ほどいてくれる。

「本当に?」

「はい」

「痛いの?」

「治癒魔法には、負荷があります」

「それ、答えになってない」

「痛みはあります」

「やっぱり痛いんじゃん」

「ですが、できます」

「できるか聞いてない!」

リィズは叫んだ。

メルティナは、少しだけ口元を緩めた。

「では、何をお聞きになりたいのですか」

「やめてって言ってる!」

「それには、お答えできません」

「ずるい!」

「はい」

メルティナは静かに言った。

「少し、ずるいです」

その言い方が穏やかすぎて、リィズは余計に怖くなった。

でも、リィズには、メルティナが何かを隠しているようには見えなかった。

ただ、痛いことをしようとしている人の顔だった。

リィズを治すために。

いつものように。

少し無茶な方法で。

「メルティナも、一緒に勝つんだよね?」

メルティナは、リィズの右腕を見た。

それから、リィズの顔を見た。

赤い瞳は静かだった。

「はい」

「約束」

「はい」

「ほんとの約束」

「はい」

リィズは、メルティナの言葉を信じた。

信じたかった。

信じるしかなかった。

「リィズ様」

メルティナの声が近い。

「目を閉じないでください」

「嫌」

「見ていてください」

「怖い」

そう言った瞬間、涙が落ちた。

一粒ではなかった。

止めようとしたのに、次々にこぼれた。

頬を伝って、顎から落ちる。

白い床に、小さな丸い跡がいくつもできた。

「怖い」

リィズはもう一度言った。

今度は、子どもみたいな声になった。

「右腕が戻るのも怖い。戻らないのも怖い。メルティナが痛そうなのも怖い。メルティナが平気な顔してるのも、もっと怖い」

メルティナの手が、リィズの右腕を包んだまま止まった。

リィズは泣きながら首を横に振った。

涙で、メルティナの顔が何度も滲んだ。

「私、メルティナがいないとだめなの」

言ってから、自分で驚いた。

そんな言葉を、今まで一度もちゃんと言ったことがなかった。

けれど、一度こぼれたら、もう止まらなかった。

「だめなの。ほんとに、だめなの」

声が崩れた。

リィズは、右腕を引こうとした。

でも、メルティナの手は離れなかった。

メルティナは、ほんの少しだけ目を伏せた。

「はい」

「はいじゃない!」

涙がまた落ちた。

「ちゃんと分かって。私、メルティナがいないと、何も分かんない。靴も、道も、お金も、薬も、どこへ行けばいいかも。どこで休めばいいかも、何を食べればいいかも、知らない場所で誰に聞けばいいかも、何も分かんない」

息が詰まった。

それでも言葉は止まらなかった。

「オシャなもの見つけても、メルティナに言えなかったら、全然オシャじゃない」

声が震える。

涙で、白い祭壇の縁が歪んで見えた。

「だから、痛いならやめて。怖いならやめて。私のために、また平気な顔しないで」

メルティナは、リィズを見た。

赤い瞳が揺れていた。

「怖いです」

メルティナは言った。

リィズは泣いたまま息を止めた。

メルティナが怖いと言った。

その一言で、白い部屋が少し揺れた気がした。

「じゃあ、やめようよ」

リィズの声は震えていた。

ほとんどお願いだった。

「怖いなら、やめようよ。私、黒いままでいい。包帯巻く。ずっと巻く。魔法も使わない。城の中にいる。外に出ない。オシャな景色も、もう見に行かなくていい」

言いながら、それが全部嘘だと分かっていた。

でも、メルティナを止められるなら、何でも言えた。

「だから、やめようよ」

メルティナの手が、リィズの右腕を包んだまま少し震えた。

「怖くても、やります」

「なんで」

「あなたの右腕を、見届けたいからです」

「私の?」

「はい」

メルティナの声は静かだった。

「あなたが、もう隠さずにその腕を見られるところを、私は見たいのです」

リィズはまた泣いた。

涙がぼろぼろ落ちた。

今度は止めようともしなかった。

頬も、顎も、首元も濡れていく。

泣きながら、メルティナの手を見た。

その手は震えている。

でも、離れない。

「あなたも、見てください」

リィズは喉を鳴らした。

怖い。

痛い。

逃げたい。

でも、メルティナの手がある。

リィズは祭壇のくぼみに、自分の右腕を置いた。

紫の光が、腕の奥へ入り込む。

同時に、メルティナの白い治癒の光が、その流れの中へ差し込まれた。

調律室の魔法陣が揺れた。

閉じ込められた色が、管の中でいっせいに震えた。

リィズの右腕が、焼けるように熱くなった。

包帯の下で、黒い聖痕が浮かび上がる。

浮かび上がった黒は、皮膚の上ではなく、もっと奥から剥がれてくるようだった。

「痛っ……!」

リィズの膝が崩れかける。

メルティナの手が支えた。

その手も震えていた。

「大丈夫です」

「大丈夫じゃない」

「はい」

「メルティナも痛い?」

「少し」

「嘘」

「かなり」

「やっぱり!」

リィズは泣きながら怒った。

涙で、白い調律室が滲んで見えた。

メルティナは、ほんの少しだけ笑った。

「隠す体力が、足りません」

「今それ言うところじゃない!」

「はい」

リィズは、自分の右腕を見た。

黒い痕が、少しずつ薄くなっていく。

包帯の下から、紫の光と黒い影が浮いて、白い治癒の光にほどかれていく。

泣いているせいで、輪郭ははっきり見えなかった。

それでも分かった。

消えている。

消えていく。

リィズには、そう見えた。

「ほんとに……」

声が震えた。

「消えてる」

メルティナは答えなかった。

答えるかわりに、リィズの右腕を包む手に力を込めた。

「メルティナ」

「はい」

「消えてる」

「はい」

「ほんとに、消えてる」

「はい」

メルティナの声は、少しだけ掠れていた。

リィズは右腕から目を離せなかった。

白い光が強くなる。

紫の光が、調律室いっぱいに広がる。

瓶の中の色が揺れ、壁の管が震えた。

硝子の向こうで、遠くの魔物が低く息をした。

白い部屋の方から、子どもの泣き声が聞こえた気がした。

それは、痛みの声ではなかった。

眠りから戻る時の、細い声だった。

「子どもたち」

リィズが言った。

「起きてる?」

「はい」

メルティナは答えた。

「きっと」

「きっと?」

「はい」

「メルティナが言うなら、そうだね」

リィズは笑おうとした。

でも、涙と痛みでうまく笑えなかった。

唇が震えて、息がひっかかる。

それでも、笑おうとした。

メルティナの額に汗が浮いている。

唇が白い。

それを見て、リィズは不安になった。

「メルティナ、顔色悪い」

「治癒魔法の負荷です」

「すぐ休む?」

「はい」

「約束」

「はい」

メルティナはリィズの右腕を見た。

そして、静かに言った。

「もう少しです」

白い治癒の光が、最後に強く弾けた。

包帯がほどける。

紫の布が床へ落ちる。

リィズの右腕が、光の中に現れた。

黒い痕は、もうほとんど見えなかった。

肩から二の腕にかけて、白い肌が戻っている。

リィズは息を止めた。

自分の腕なのに、自分のものではないようだった。

ずっと隠してきた場所。

誰にも見せたくなかった場所。

メルティナだけが触れてくれた場所。

そこが、白い。

「メルティナ」

リィズは震える声で言った。

「見て」

涙がまた落ちた。

「白い」

メルティナは微笑んだ。

「はい」

「私の腕、白い」

「はい」

リィズの瞳が、ぱっと明るくなった。

痛みも、怖さも、一瞬だけ遠くへ行った。

「消えた」

メルティナは、ほんの少しだけ息を吸った。

「はい」

その返事が、少しだけ遅れた。

でも、リィズは自分の腕を見ていた。

白く戻った右腕を。

「メルティナ!」

リィズは泣きながら笑った。

涙をぼろぼろこぼしたまま、笑った。

「消えた!」

メルティナは微笑んだ。

顔色は悪い。

唇も白い。

それでも、笑顔だけは完璧だった。

「はい」

「メルティナと一緒に勝った!」

「はい」

その声は、ほとんど息だった。

それでも、リィズには届いた。

調律室の白い光が、一度大きく揺れた。

管の中から色が抜けていく。

閉じ込められていたものが、どこかへ戻る流れに変わっていく。

遠くで、子どもの声がした。

今度は、はっきりと。

泣き声だった。

リィズは顔を上げた。

「戻ろう」

メルティナは頷いた。

「はい」

「みんなを出すんだよ」

「はい」

「魔物も」

「はい」

「感情の変な液体も返す」

「はい」

「それで、帰ったら休む」

「はい」

「メルティナも」

メルティナは、ほんの少しだけ間を置いた。

「はい」

リィズは白く戻った右腕を胸に抱き、調律室の入口へ向かった。

涙はまだ、完全には止まっていなかった。

でも、リィズの顔には明るさが戻っていた。

泣いたあとの太陽みたいな、濡れた明るさだった。

その背中を、メルティナは見ていた。

完璧なメイドの笑顔を、崩さないまま。

白い祭壇の上で、リィズが外した紫の包帯だけが、静かに残っていた。

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