第三十二話「色のない平和」
奥の扉の向こうは、白い廊下だった。
けれど、今までの白とは違っていた。
白すぎるのに、どこか薄く濁っている。
壁の奥を、液体が流れていた。
透明な管が、壁にも天井にも這っている。
細いもの。
太いもの。
指ほどのもの。
腕ほどのもの。
その中を、淡い色の液体がゆっくり動いていた。
きれいだった。
きれいなのに、リィズは気持ち悪いと思った。
「何、これ」
リィズが聞いた。
セノアは、白い部屋の入口に残ったまま答えた。
「感情の残滓です」
「感情?」
「楽しみ。高揚。怒り。欲望。誰かを守りたいという衝動」
リィズは、壁の中を流れる液体を見た。
ゆっくり。
ゆっくり。
息をひそめるように流れている。
「感情って、液体になるの?」
「ネオストの魔法科学技術では、そう扱われます」
「扱われますって言い方、嫌い」
「はい」
セノアは否定しなかった。
「人から吸い上げ、薄め、保存します。強くなりすぎた衝動は、低速化の波を乱すためです」
リィズは、管の中を見た。
どの色も、どこか見覚えがある気がした。
笑い声。
怒った顔。
走り出す足。
誰かの手を取る時の熱。
そういうものが、色だけになって閉じ込められている。
「楽しい気持ちも?」
「はい」
「怒る気持ちも?」
「はい」
「誰かを守りたい気持ちも?」
「はい」
リィズは右手を握った。
包帯の下が熱くなる。
「それ、取っちゃだめなやつじゃん」
セノアは答えなかった。
答えなくてもよかった。
リィズには、もう分かっていた。
ネオストは、命をすぐに殺す場所ではない。
泣かせない。
怒らせない。
走らせない。
遠くへ行きたいと思わせない。
誰かのために無茶をしようとする心を、立ち上がる前に薄くする。
その方が平和だと、白い顔で言う場所だった。
「そんなの、平和じゃない」
リィズは言った。
「動けなくしてるだけじゃん」
壁の管の中で、液体が小さく揺れた。
リィズの声に反応したように見えた。
それがまた、気持ち悪かった。
廊下の先に、硝子の壁があった。
透明ではない。
少し白く曇っている。
その向こうに、影が並んでいた。
最初は、標本かと思った。
大きな角。
黒い翼。
曲がった爪。
鱗のある背中。
でも、違った。
影のひとつが、ゆっくり呼吸した。
リィズは足を止めた。
「生きてる」
セノアがうなずいた。
「魔物です」
硝子の向こうで、翼を縛られた魔物が横たわっている。
角のある魔物は、白い管に繋がれていた。
鱗の隙間から、青白い光が滲んでいる。
眠っているのではない。
眠らされている。
そう見えた。
「魔物まで」
リィズは言った。
「はい」
「研究してるの?」
「研究と、エネルギー抽出です」
「エネルギーって何」
「魔物の力を、施設を動かす魔力として使います」
リィズは硝子の向こうを見た。
魔物は怖いものだと思っていた。
旅の中で、危ないものにも会った。
襲われれば、撃った。
倒した。
それなのに、ここにいる魔物は怖いというより、寒そうだった。
怒ることもできず。
暴れることもできず。
ただ、白い場所に置かれている。
「ネオストは、魔物まで退屈にするんだね」
リィズは小さく言った。
その言葉は、思ったより低く響いた。
廊下の奥で、紫に近い光が脈打つ。
リィズの右腕が、それに応えるように熱を持った。
「リィズ」
セノアが言った。
「これ以上進むと、調律室があなたを読みます」
「もう読んでるでしょ」
「はい」
「じゃあ同じ」
「同じではありません」
セノアの声は静かだった。
「この先で、リィズの紫は中央に固定されます」
「固定?」
「ネオストにとって、リィズの紫は低速化に抵抗する強い反応です」
「抵抗」
「はい」
セノアは壁の管を見た。
「人を眠らせる波の中で、強く動く反応です。だから、ネオストはそれを逆に使います」
リィズは顔をしかめた。
「逆?」
「強く動く力を、動かないための波に変える」
リィズは、少し黙った。
それから、ゆっくり言った。
「私の魔法で、みんなを眠らせるの?」
「はい」
すぐに返事があった。
その早さが嫌だった。
「子どもたちも?」
「はい」
「アークライアも?」
「最終的には」
リィズは息を吸った。
胸の奥が熱い。
怒りだった。
怖さでもあった。
自分の紫。
アークライアの王家の色。
オシャな景色を見た時、胸の中で跳ねた色。
城壁を壊してしまった色。
メルティナが包帯で隠してくれていた色。
それを使って、世界を動かなくする。
「ふざけてる」
リィズは言った。
壁の管が、また揺れた。
閉じ込められていた色が、小さく震える。
リィズは杖を握った。
壊したい。
全部、壊したい。
管も。
硝子も。
白い壁も。
魔物を繋いでいるものも。
感情を閉じ込めている瓶も。
でも、ここで撃てばどうなるか分からない。
硝子の向こうには魔物がいる。
背中の向こうには子どもたちがいる。
メルティナがいる。
リィズは杖を握ったまま、撃たなかった。
「撃たないのですか」
セノアが聞いた。
リィズは横目で見た。
「撃ってほしいの?」
「いいえ」
「じゃあ聞かないで」
「確認でした」
「確認も嫌」
セノアは少しだけ黙った。
「リィズは、壊せるものを壊さないことが増えました」
リィズは何も言わなかった。
増えた。
たしかに、増えた。
花畑を消した時の自分なら、たぶんもう撃っていた。
壊してから、メルティナに直してもらえばいいと思っていた。
でも今は、メルティナは直せない。
直すたびに、何かを削っていた。
それを知ってしまった。
だから撃てない。
撃たない。
その違いが、右腕より重かった。
「セノア」
「はい」
「魔物、逃がせる?」
セノアは硝子の壁を見た。
「今は難しいです」
「子どもたちも、今は無理。魔物も、今は無理。全部、今は無理なんだね」
リィズは笑わなかった。
「嫌になる」
「はい」
「でも、あとでやる」
セノアはリィズを見た。
「あとで、ですか」
「うん」
リィズは硝子の向こうの魔物を見た。
翼を縛られた影が、ゆっくり胸を上下させている。
「子どもたちを出す。魔物も出す。感情の変な液体も、全部返す」
「返す」
「元の場所に」
リィズは、壁の管を見た。
「笑いたい人には笑うのを返す。怒りたい人には怒るのを返す。誰かを守りたい人には、勝手に無茶する気持ちを返す」
メルティナの顔が浮かんだ。
無茶ばかりする人。
リィズを守るためなら、何でも整えてしまう人。
それが怖くて、嫌で、でも、その無茶がなかったら今のリィズはいない。
「返さなきゃだめ」
リィズは言った。
「そういうの、取っちゃだめ」
その時、廊下の奥で白い扉が開いた。
音はなかった。
ただ、紫に近い光が強くなった。
壁の管の色が、一瞬だけ薄くなる。
まるで、その光に吸われたようだった。
セノアが言った。
「調律室です」
リィズは扉の先を見た。
広い部屋がある。
中央に、白磁の祭壇のような台が見えた。
その周りに、透明な瓶が何本も並んでいる。
瓶の中では、濃く集められた色が静かに揺れていた。
どれも美しい。
どれも閉じ込められている。
白い祭壇の中央には、腕を置くためのくぼみがあった。
右腕の高さ。
リィズは、それを見ただけで分かった。
ここに置かせる気だ。
右腕を。
紫を。
自分を。
「嫌」
声が出た。
小さかった。
でも、はっきりしていた。
調律室の奥で、平らな声が響く。
「三〇八号。紫反応、到達」
リィズは一歩下がりそうになった。
けれど、下がらなかった。
「私はリィズ」
調律室の光が、ゆっくり強くなる。
「三〇八号。調律核、接続準備」
「リィズだって言ってるでしょ」
返事はない。
声は、リィズを聞いていない。
番号だけを読んでいる。
リィズは、胸に手を当てた。
背後に、子どもたちがいる。
メルティナがいる。
セノアがいる。
硝子の向こうに、魔物がいる。
壁の管の中には、誰かの笑い声や怒りや願いが、色になって閉じ込められている。
リィズは、その全部を背中に感じた。
怖い。
でも、もう見えている。
何が怖いのか。
何を止めるのか。
何を返すのか。
「行く」
リィズは言った。
セノアが一歩、前に出ようとした。
リィズは首を横に振る。
「セノアは戻って」
「しかし」
「子どもたちをお願い」
セノアは口を閉じた。
「私は」
「逃がす側に残りたいんでしょ」
セノアの目が、わずかに揺れた。
リィズはそれ以上言わなかった。
「戻って」
「……はい」
セノアは頷いた。
その返事は、記録の言葉ではなかった。
リィズは調律室の扉へ向かった。
紫の光が、右腕を呼ぶ。
番号として。
核として。
道具として。
でも、リィズは胸の奥で、自分の名前をもう一度置いた。
私はリィズ。
番号に呼ばれながら、リィズは自分の名前を抱いて、白い扉の向こうへ入った。




