↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/35

第三十二話「色のない平和」

奥の扉の向こうは、白い廊下だった。

けれど、今までの白とは違っていた。

白すぎるのに、どこか薄く濁っている。

壁の奥を、液体が流れていた。

透明な管が、壁にも天井にも這っている。

細いもの。

太いもの。

指ほどのもの。

腕ほどのもの。

その中を、淡い色の液体がゆっくり動いていた。

きれいだった。

きれいなのに、リィズは気持ち悪いと思った。

「何、これ」

リィズが聞いた。

セノアは、白い部屋の入口に残ったまま答えた。

「感情の残滓です」

「感情?」

「楽しみ。高揚。怒り。欲望。誰かを守りたいという衝動」

リィズは、壁の中を流れる液体を見た。

ゆっくり。

ゆっくり。

息をひそめるように流れている。

「感情って、液体になるの?」

「ネオストの魔法科学技術では、そう扱われます」

「扱われますって言い方、嫌い」

「はい」

セノアは否定しなかった。

「人から吸い上げ、薄め、保存します。強くなりすぎた衝動は、低速化の波を乱すためです」

リィズは、管の中を見た。

どの色も、どこか見覚えがある気がした。

笑い声。

怒った顔。

走り出す足。

誰かの手を取る時の熱。

そういうものが、色だけになって閉じ込められている。

「楽しい気持ちも?」

「はい」

「怒る気持ちも?」

「はい」

「誰かを守りたい気持ちも?」

「はい」

リィズは右手を握った。

包帯の下が熱くなる。

「それ、取っちゃだめなやつじゃん」

セノアは答えなかった。

答えなくてもよかった。

リィズには、もう分かっていた。

ネオストは、命をすぐに殺す場所ではない。

泣かせない。

怒らせない。

走らせない。

遠くへ行きたいと思わせない。

誰かのために無茶をしようとする心を、立ち上がる前に薄くする。

その方が平和だと、白い顔で言う場所だった。

「そんなの、平和じゃない」

リィズは言った。

「動けなくしてるだけじゃん」

壁の管の中で、液体が小さく揺れた。

リィズの声に反応したように見えた。

それがまた、気持ち悪かった。

廊下の先に、硝子の壁があった。

透明ではない。

少し白く曇っている。

その向こうに、影が並んでいた。

最初は、標本かと思った。

大きな角。

黒い翼。

曲がった爪。

鱗のある背中。

でも、違った。

影のひとつが、ゆっくり呼吸した。

リィズは足を止めた。

「生きてる」

セノアがうなずいた。

「魔物です」

硝子の向こうで、翼を縛られた魔物が横たわっている。

角のある魔物は、白い管に繋がれていた。

鱗の隙間から、青白い光が滲んでいる。

眠っているのではない。

眠らされている。

そう見えた。

「魔物まで」

リィズは言った。

「はい」

「研究してるの?」

「研究と、エネルギー抽出です」

「エネルギーって何」

「魔物の力を、施設を動かす魔力として使います」

リィズは硝子の向こうを見た。

魔物は怖いものだと思っていた。

旅の中で、危ないものにも会った。

襲われれば、撃った。

倒した。

それなのに、ここにいる魔物は怖いというより、寒そうだった。

怒ることもできず。

暴れることもできず。

ただ、白い場所に置かれている。

「ネオストは、魔物まで退屈にするんだね」

リィズは小さく言った。

その言葉は、思ったより低く響いた。

廊下の奥で、紫に近い光が脈打つ。

リィズの右腕が、それに応えるように熱を持った。

「リィズ」

セノアが言った。

「これ以上進むと、調律室があなたを読みます」

「もう読んでるでしょ」

「はい」

「じゃあ同じ」

「同じではありません」

セノアの声は静かだった。

「この先で、リィズの紫は中央に固定されます」

「固定?」

「ネオストにとって、リィズの紫は低速化に抵抗する強い反応です」

「抵抗」

「はい」

セノアは壁の管を見た。

「人を眠らせる波の中で、強く動く反応です。だから、ネオストはそれを逆に使います」

リィズは顔をしかめた。

「逆?」

「強く動く力を、動かないための波に変える」

リィズは、少し黙った。

それから、ゆっくり言った。

「私の魔法で、みんなを眠らせるの?」

「はい」

すぐに返事があった。

その早さが嫌だった。

「子どもたちも?」

「はい」

「アークライアも?」

「最終的には」

リィズは息を吸った。

胸の奥が熱い。

怒りだった。

怖さでもあった。

自分の紫。

アークライアの王家の色。

オシャな景色を見た時、胸の中で跳ねた色。

城壁を壊してしまった色。

メルティナが包帯で隠してくれていた色。

それを使って、世界を動かなくする。

「ふざけてる」

リィズは言った。

壁の管が、また揺れた。

閉じ込められていた色が、小さく震える。

リィズは杖を握った。

壊したい。

全部、壊したい。

管も。

硝子も。

白い壁も。

魔物を繋いでいるものも。

感情を閉じ込めている瓶も。

でも、ここで撃てばどうなるか分からない。

硝子の向こうには魔物がいる。

背中の向こうには子どもたちがいる。

メルティナがいる。

リィズは杖を握ったまま、撃たなかった。

「撃たないのですか」

セノアが聞いた。

リィズは横目で見た。

「撃ってほしいの?」

「いいえ」

「じゃあ聞かないで」

「確認でした」

「確認も嫌」

セノアは少しだけ黙った。

「リィズは、壊せるものを壊さないことが増えました」

リィズは何も言わなかった。

増えた。

たしかに、増えた。

花畑を消した時の自分なら、たぶんもう撃っていた。

壊してから、メルティナに直してもらえばいいと思っていた。

でも今は、メルティナは直せない。

直すたびに、何かを削っていた。

それを知ってしまった。

だから撃てない。

撃たない。

その違いが、右腕より重かった。

「セノア」

「はい」

「魔物、逃がせる?」

セノアは硝子の壁を見た。

「今は難しいです」

「子どもたちも、今は無理。魔物も、今は無理。全部、今は無理なんだね」

リィズは笑わなかった。

「嫌になる」

「はい」

「でも、あとでやる」

セノアはリィズを見た。

「あとで、ですか」

「うん」

リィズは硝子の向こうの魔物を見た。

翼を縛られた影が、ゆっくり胸を上下させている。

「子どもたちを出す。魔物も出す。感情の変な液体も、全部返す」

「返す」

「元の場所に」

リィズは、壁の管を見た。

「笑いたい人には笑うのを返す。怒りたい人には怒るのを返す。誰かを守りたい人には、勝手に無茶する気持ちを返す」

メルティナの顔が浮かんだ。

無茶ばかりする人。

リィズを守るためなら、何でも整えてしまう人。

それが怖くて、嫌で、でも、その無茶がなかったら今のリィズはいない。

「返さなきゃだめ」

リィズは言った。

「そういうの、取っちゃだめ」

その時、廊下の奥で白い扉が開いた。

音はなかった。

ただ、紫に近い光が強くなった。

壁の管の色が、一瞬だけ薄くなる。

まるで、その光に吸われたようだった。

セノアが言った。

「調律室です」

リィズは扉の先を見た。

広い部屋がある。

中央に、白磁の祭壇のような台が見えた。

その周りに、透明な瓶が何本も並んでいる。

瓶の中では、濃く集められた色が静かに揺れていた。

どれも美しい。

どれも閉じ込められている。

白い祭壇の中央には、腕を置くためのくぼみがあった。

右腕の高さ。

リィズは、それを見ただけで分かった。

ここに置かせる気だ。

右腕を。

紫を。

自分を。

「嫌」

声が出た。

小さかった。

でも、はっきりしていた。

調律室の奥で、平らな声が響く。

「三〇八号。紫反応、到達」

リィズは一歩下がりそうになった。

けれど、下がらなかった。

「私はリィズ」

調律室の光が、ゆっくり強くなる。

「三〇八号。調律核、接続準備」

「リィズだって言ってるでしょ」

返事はない。

声は、リィズを聞いていない。

番号だけを読んでいる。

リィズは、胸に手を当てた。

背後に、子どもたちがいる。

メルティナがいる。

セノアがいる。

硝子の向こうに、魔物がいる。

壁の管の中には、誰かの笑い声や怒りや願いが、色になって閉じ込められている。

リィズは、その全部を背中に感じた。

怖い。

でも、もう見えている。

何が怖いのか。

何を止めるのか。

何を返すのか。

「行く」

リィズは言った。

セノアが一歩、前に出ようとした。

リィズは首を横に振る。

「セノアは戻って」

「しかし」

「子どもたちをお願い」

セノアは口を閉じた。

「私は」

「逃がす側に残りたいんでしょ」

セノアの目が、わずかに揺れた。

リィズはそれ以上言わなかった。

「戻って」

「……はい」

セノアは頷いた。

その返事は、記録の言葉ではなかった。

リィズは調律室の扉へ向かった。

紫の光が、右腕を呼ぶ。

番号として。

核として。

道具として。

でも、リィズは胸の奥で、自分の名前をもう一度置いた。

私はリィズ。

番号に呼ばれながら、リィズは自分の名前を抱いて、白い扉の向こうへ入った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。