第三十五話「白い襟元」
朝食の間の扉が閉じた。
廊下に、メルティナだけが残った。
廊下の窓から、朝の光が差している。
白い石壁に、メルティナの影が細く伸びていた。
メルティナはそっと壁に手をついた。
倒れないために。
胸の奥で、何かが流れていた。
血ではない。
熱でもない。
旅の途中で、リィズの右腕から少しずつ受け取ってきたもの。
調律室で、一気に引き受けたもの。
それが今、身体の内側を静かに広げていく。
メルティナは襟元のボタンに指を添えた。
一番上まで、きちんと留めている。
それでも、襟の内側で、肌が色を変えているのが分かった。
鎖骨の下まで、もう来ていた。
そこから先は、肩。
二の腕の内側。
脇腹。
背中。
旅の前、リィズの右腕にあった黒が、今はメルティナの胴体のほとんどを覆っていた。
メイド服の襟元から、首筋までは、あと指二本分。
あの黒い色が、そこまで来ていた。
メルティナは襟元から指を離した。
ボタンは乱れていない。
布の外には、何も見えない。
それで十分だった。
扉の向こうから、リィズの笑い声がした。
何を言ったのかは聞こえない。
でも、笑っている。
明るい声だった。
旅に出る前のリィズの声に、少しだけ似ていた。
王の低い声も聞こえた。
何か短く言って、また笑う。
リィズが、もっと笑った。
メルティナは目を伏せた。
「……はい」
誰に答えたわけでもなかった。
ただ、その声が出た。
胸の中で、何度も繰り返してきた言葉。
リィズに、これ以上謝らせない。
リィズに、これからも笑ってほしい。
そのために、ここまで来た。
メルティナはゆっくり壁から手を離した。
立ち姿は、まだ崩れない。
シニヨンに結い直した髪。
久しぶりに袖を通した、黒のロングメイド服。
旅に出る前と、同じ姿だった。
ただ、その布の下にあるものだけが、違う。
廊下の窓の外で、噴水の音がした。
鳥の声。
扉の向こうから、また笑い声。
メルティナは襟元のボタンを、もう一度だけ確かめた。
留まっている。
完璧に。
扉の向こうで、リィズが何か言った。
メルティナの名前のようにも聞こえた。
聞き間違いかもしれなかった。
それでも、メルティナは静かに微笑んだ。
完璧なメイドの笑顔を、誰も見ていない廊下で。
朝の光が、白い襟元に静かに落ちていた。




