第三十話「搬送路」
旧休眠室の扉の外で、白い音が増えていた。
かちり。
かちり。
かちり。
さっきまでは遠くにあった音が、廊下の壁の中まで来ている。
眠っていた施設が、少しずつ指を動かしているようだった。
リィズは、メルティナの呼吸をもう一度だけ聞いた。
一つ。
二つ。
三つ。
浅い。
でも、途切れていない。
それを確かめてから、リィズはセノアを見た。
「ここ、もう危ない?」
「はい」
セノアは立ち上がろうとして、壁に手をついた。
その動きはまだぎこちない。壊れた首輪の欠片が、首元で鈍く光った。
「休眠室も、長くは隠れ場所になりません」
「見つかる?」
「はい」
「誰に?」
「この施設に」
リィズは眉を寄せた。
人が来る方が、まだ分かる。
足音がある。
息がある。
目がある。
でも、施設に見つかるというのは、壁や床や光に見られているようで気持ちが悪かった。
「これ、魔法なの?」
リィズが聞いた。
セノアは、白い壁に走る細い光を見た。
「魔法だけではありません」
「じゃあ、何」
「ネオストでは、魔法を技術として扱います。魔法科学技術と呼ばれています」
「魔法を、道具みたいに?」
「はい」
セノアは静かに答えた。
「人の身体も、感情も、魔物の力も、測り、薄め、保存し、使える形にします」
リィズは、その言い方が嫌いだと思った。
魔法は、もっと勝手なものだと思っていた。
嬉しい時に跳ねるもの。
驚いた時にあふれるもの。
壊してしまって、あとで困るもの。
メルティナに叱られて、でも少しだけ胸の奥が光るもの。
それを、測る。
薄める。
保存する。
使える形にする。
「全然オシャじゃないね」
リィズは小さく言った。
セノアは否定しなかった。
「どこへ行くの」
「旧搬送路です」
「搬送路」
リィズは、その言葉を繰り返した。
嫌な響きだった。
運ぶ。
人を、荷物のように。
子どもを、番号のように。
「中央調律機関の奥へ続いています。現在の主要路ではありませんが、地下最下層へ近い」
「子どもたちは、その道で運ばれたの?」
セノアは、少しだけ間を置いた。
「はい」
リィズの右手に力が入った。
包帯の下が熱くなる。
「じゃあ、サンシャインが壊そうとしてた道」
「はい」
その返事で、リィズはダガーの印を思い出した。
三本の斜線。
白い道に斜めから入った線。
まっすぐ運ばれるものを、まっすぐ運ばせないための印。
「その道を行くの?」
「はい」
「子どもを奥へ連れていくための道を?」
「はい」
リィズは少し黙った。
それから、寝台の上のメルティナを見た。
メルティナは目を閉じている。
でも、眠ってはいなかった。
リィズには分かった。
「じゃあ、その道を変える」
セノアが、リィズを見た。
「変える、ですか」
「子どもを奥へ連れていくための道なんでしょ」
「はい」
「なら、子どもを助けに行く道にする」
白い部屋の中で、その言葉だけが少しだけ温度を持った。
メルティナのまぶたが、かすかに動いた。
「リィズ様」
声は細い。
リィズはすぐに顔を近づけた。
「だめ。メルティナは寝てる命令」
「今のは」
「何」
「よい命令です」
リィズは一瞬、何も言えなかった。
メルティナはそう言うと、また息を整えた。
少し話しただけで、胸が上下している。
リィズは唇を結んだ。
もう歩かせたくない。
本当は、この白い寝台ごと安全な場所へ運びたい。
クナト村へ戻したい。
ハシュカのところへ戻したい。
煙のある朝へ戻したい。
でも、その道はもう遠い。
戻るには山がある。
白い人影がいる。
そして、この施設は目を覚ましている。
「メルティナをどうする」
リィズはセノアに聞いた。
「歩かせない方法ある?」
「休眠室の寝台は固定式です」
「使えない」
「はい」
リィズは寝台の縁に手を置いた。
白い板は冷たい。
人を休ませるためのものなのに、人の体温を残さない。
ここにメルティナを置いていくなど、できるはずがなかった。
「じゃあ、私が支える」
メルティナが目を開いた。
「リィズ様」
「これは相談じゃない」
「ですが」
「命令」
メルティナは口を閉じた。
納得していない顔だった。
でも、反論する力がない。
そのことが、リィズには悔しかった。
セノアが言った。
「私も補助します」
リィズはセノアを見た。
「歩けるの?」
「歩けます」
「その言い方、信用できない」
「では、少しは歩けます」
「それも信用できない」
セノアは少し黙った。
「倒れた場合は、置いてください」
「それはもっと信用できない」
リィズは即座に言った。
セノアは、少しだけ目を伏せた。
「合理的ではありません」
「うるさい」
リィズは短く返した。
「メルティナも、セノアも、倒れたら拾う」
「なぜですか」
「そうしたいから」
セノアは黙った。
答えが記録にないような顔だった。
リィズはメルティナの身体を起こした。
ゆっくり。
肩に手を添える。
背中を支える。
腹の布が引きつらないようにする。
メルティナは唇を噛まなかった。
ただ、息が一度だけ止まった。
リィズは、それを見逃さなかった。
「少しずつ行く」
メルティナは小さく頷いた。
よし、とは言わなかった。
よいはずがなかった。
それでも、ここに留まることもできなかった。
メルティナの片腕をリィズの肩へ回す。
軽い。
こんなに軽かっただろうか。
城にいた時のメルティナは、もっと重かった気がする。
身体の重さではなく、存在の重さが。
何でも整え、何でも先に気づき、何でもできる人。
その人が、今はリィズの肩に体重を預けている。
リィズは、その重さを逃がさないように足を踏ん張った。
「行ける?」
メルティナは答えようとして、少しだけ息を吸った。
その息の浅さを見て、リィズはすぐに首を振った。
「答えなくていい」
メルティナはリィズを見た。
「顔で分かる」
少し前なら、メルティナが言っていた言葉だった。
今はリィズが言っている。
メルティナは、ほんのわずかに目を細めた。
「……はい」
セノアが扉の前に立った。
割れた首輪の欠片に指を触れる。
青い火花が、短く走る。
扉がさらに開いた。
廊下の光が、少し強くなっている。
壁の細い線が、ところどころで揺れていた。
光というより、冷たい魔力の糸だった。
眠っていた血管に、冷たい血が戻っていくようだった。
「壁を見すぎないでください」
セノアが言った。
「壁?」
「孔があります」
リィズは廊下を見た。
最初は分からなかった。
でも、白い壁の高いところに、小さな丸い孔がある。
硝子ではない。
薄い水膜のようなものが張っていて、その奥で青白い火が揺れていた。
目。
そう思った瞬間、リィズの背中が冷えた。
「見てるの?」
「見始めています」
「嫌な言い方」
「はい」
リィズはメルティナを支え直した。
「メルティナ、足元だけ見て」
メルティナは頷いた。
声は出さなかった。
それでいい。
返事をさせることも、今は体力を削る。
セノアが先に出る。
リィズはメルティナを支え、旧休眠室を出た。
廊下はさっきより長く感じた。
白い床。
白い壁。
青白い火。
眠っていた目。
同じような扉が並ぶ。
どこにも人の匂いがない。
それなのに、見られている。
リィズはメルティナの呼吸を聞きながら歩いた。
一歩。
止まる。
もう一歩。
止まる。
メルティナの足が床を擦る音。
セノアの靴が、かつ、と鳴る音。
遠くの、かちり、という音。
それだけが廊下にある。
メルティナの足が、ほんの少し遅れる。
リィズは何も聞かず、歩幅を小さくした。
聞けば、メルティナはきっと「進めます」と言う。
その言葉を言わせること自体が、今は痛かった。
「こっちです」
セノアが角を曲がった。
その先は、さらに暗かった。
壁の白が少し古い。
床に細い溝が二本、まっすぐ走っている。
金属のようにも、石の傷のようにも見えた。
「これ、何?」
「搬送の溝です」
リィズは足元を見た。
二本の白い溝。
まっすぐ奥へ続いている。
その上を、昔、台のようなものが進んだのだろう。
何を載せて。
誰を載せて。
考えたくないのに、考えてしまう。
「ここを、子どもたちが?」
「はい」
セノアの声は低かった。
「眠らされた状態で運ばれることが多かったと記録されています」
「起きてた子は?」
セノアは答えなかった。
リィズはそれ以上聞かなかった。
聞かなくても、廊下の白さが答えていた。
搬送路は、まっすぐだった。
まっすぐすぎた。
人が迷わないためではない。
人に迷わせないための道だった。
途中、壁の低い位置に傷があった。
リィズは足を止めた。
細い傷。
白い壁に、何かで引っかいた跡。
三本ではない。
ばらばらの線。
小さな手が、爪で掻いたように見えた。
「これ」
リィズが言うと、セノアも見た。
「古い傷です」
「子ども?」
「可能性があります」
リィズはその傷に触れようとして、手を止めた。
触ったら、消えてしまう気がした。
いや、消えない。
消えないから、そこにある。
記録には残らなかったかもしれない。
でも、壁には残った。
「名前もないのかな」
リィズは小さく言った。
セノアは答えなかった。
メルティナも答えなかった。
白い壁の傷だけが、そこにあった。
少し進むと、床の溝が途切れていた。
まっすぐだった二本の線が、斜めに歪んでいる。
白い床が割れ、そこに別の石が詰められていた。
古い補修跡。
きれいではない。
雑で、急いで塞いだ跡だった。
セノアが足を止めた。
「ここです」
「何が?」
「三斜印の妨害記録と一致する地点です」
リィズは息を止めた。
床の割れ目を見た。
まっすぐな搬送路に、斜めの破壊跡。
三本ではない。
でも、リィズには見えた。
白い道を横切る、あの印が。
「サンシャインが壊したの?」
「はい」
セノアは静かに答えた。
「搬送がここで止まっています。記録上、保護対象二名が不明。妨害者三名が死亡。残りは逃走」
リィズは床を見つめた。
保護対象二名が不明。
不明。
ネオストにとっては、分からなくなっただけ。
でも、人にとっては違う。
逃げられたのかもしれない。
誰かが抱えて走ったのかもしれない。
山の中へ消えたのかもしれない。
戻れなかったのかもしれない。
それでも、ここでまっすぐな道が一度止まった。
「メルティナのお父さんも、ここにいたのかな」
リィズは言った。
メルティナは床を見た。
その目は、何かを探しているようだった。
でも、答えは落ちていなかった。
「分かりません」
声は細かった。
「でも」
リィズは言った。
「ここ、残ってる」
メルティナの指が、リィズの肩の上で少しだけ動いた。
「はい」
リィズは床の割れ目を見た。
サンシャイン。
白い壁の中で消えなかった名前。
その名前が、今は床の傷になっていた。
「行こう」
リィズは言った。
「同じ方向でも、同じことにはしない」
セノアが先へ進む。
リィズはメルティナを支え、割れた溝をまたいだ。
右腕が熱くなった。
紫の光が、包帯の下で少しだけ滲む。
壁の孔の奥で、青白い火が揺れた。
リィズは足を止める。
セノアも振り返った。
「見つかった?」
「はい」
「今ので?」
「リィズの紫に、搬送路の古い調律が反応しました」
「分かりやすく」
「呼ばれました」
リィズは、奥を見た。
追ってくる音はない。
走ってくる足音もない。
ただ、搬送路の奥が、少しだけ明るくなっていた。
まるで、白い道そのものが、リィズを思い出したようだった。
「呼ばれたなら、行くしかないね」
「危険です」
「知ってる」
リィズはメルティナを支える腕に力を入れた。
「でも、ここまで来て戻る方が嫌」
セノアは何も言わなかった。
搬送路は、さらに奥へ続いている。
壁の傷は少しずつ減っていった。
かわりに、白い扉が増えた。
扉の横には、数字が並んでいる。
二九一。
二九二。
二九三。
二九四。
その先にも、まだ続きがある。
リィズは、その数字の続きを見たくなかった。
「ここ?」
セノアは頷いた。
「地下最下層です」
扉の向こうから、匂いがした。
薬の匂い。
冷たい水の匂い。
古い布の匂い。
そして、かすかに人の匂い。
リィズは、杖を握った。
右腕は熱い。
メルティナの呼吸は浅い。
セノアの足取りも危うい。
それでも、扉の向こうに人の匂いがある。
番号ではなく。
記録ではなく。
人の匂いがある。
「開けて」
リィズが言った。
セノアが扉に手をかける。
白い扉が、音もなく横へずれた。
その先に、青白い光が落ちていた。




