第二十九話「きれいな髪」
メルティナが目を開けたのは、施設の音が三度近づいたあとだった。
かちり。
かちり。
かちり。
それは遠くの音だった。
けれど、遠いままではいない音だった。
旧休眠室の天井から、青白い光が細く落ちている。白い寝台の上で、メルティナはしばらく瞬きをしなかった。起きたというより、眠りの浅いところから戻ってきたように見えた。
リィズは、すぐに顔を近づけた。
「メルティナ」
「……リィズ様」
声は細い。
でも、リィズを呼ぶ形をしていた。
それで、リィズは少し息を吐いた。
「痛い?」
メルティナは答えるまで、少し間を置いた。
「……少し」
「少し?」
「かなり、です」
「珍しいね。隠さないの」
メルティナは、薄く目を伏せた。
「隠す体力が、足りません」
リィズは笑わなかった。
その正直さが、笑えないくらい痛かった。
寝台の脇で、セノアは壁に背を預けたまま座っている。眠ってはいない。水色の髪の下で、目だけが静かにこちらを見ていた。
リィズは、メルティナの手を握った。
熱はまだある。
でも、さっきより指先は少し温かかった。
「メルティナ」
「はい」
「どこまで知ってたの」
空調の音が、少しだけ大きく聞こえた。
メルティナの指が、リィズの手の中で小さく止まる。
「何を、でしょうか」
「私のこと」
リィズは、言ってから右腕を見た。
包帯の下にある黒。
三〇八。
リィズ。
王女。
作られた子ども。
拾われた子ども。
名前のある自分と、番号のある自分が、同じ身体の中でまだうまく重ならない。
「私が、生まれた時から王女じゃないこと」
メルティナは目を閉じた。
逃げるためではなかった。
言葉を選ぶためだった。
「知っていました」
リィズの胸が沈んだ。
分かっていた。
たぶん、そうだと思っていた。
それでも、メルティナの口から出ると、床が一段低くなったように感じた。
「いつから?」
「最初からではありません」
「じゃあ、いつ」
「王から、少しだけ聞かされました」
「お父様が?」
「はい」
リィズは黙った。
カイルム王の顔が浮かぶ。
大きな声。
雑な言い方。
笑う時に、城の空気ごと揺らすような人。
あいつなら死なない。
外の世界の方が危ない。
そう言って、追手を出さなかった父。
その父が、メルティナには何を話していたのか。
「何を聞いたの」
「リィズ様は、城の外で見つかった子だと」
「どこで?」
「王領の外縁、とだけ」
「誰が見つけたの」
「王です」
リィズは瞬きをした。
「お父様が?」
「はい」
メルティナは、ゆっくり頷いた。
「予定にない場所で、紫の光を見たと聞いています」
「紫の光」
「はい」
リィズは右腕を押さえた。
紫。
ネオストが識別色として付けた紫。
アークライア王家の象徴色でもあった紫。
偶然なのか。
誰かが後から意味をつけたのか。
リィズには分からなかった。
「カイルム王は」
セノアが静かに口を開いた。
リィズは振り返る。
「外縁搬送路から外れた三〇八号を、アークライア王領内で保護したと記録されています」
「保護って言葉、嫌い」
リィズはすぐに言った。
セノアは頷いた。
「はい。ですが、この場合は、本来の意味に近いと思われます」
リィズは何も言わなかった。
同じ言葉。
保護。
ネオストでは、子どもを番号にして連れていく言葉。
カイルム王の場合は、拾って、名前を与えて、王女にした言葉。
言葉は怖い。
誰が使うかで、手にも鎖にもなる。
「お父様は、知ってたの?」
リィズは聞いた。
「私が、三〇八だったこと」
メルティナは小さく首を横に動かした。
「番号までは、知らなかったと思います」
セノアも頷いた。
「アークライア側に、識別番号の完全記録はありません」
「じゃあ、何を知ってたの」
メルティナは少しだけ息を整えた。
「リィズ様の身体が、危険な状態にあることです」
胸が、ちくりとした。
リィズは、自分の手を見た。
この手が。
この右腕が。
城壁を壊し、花畑を消し、山肌を削った。
危険。
その言葉は、あまりにも簡単にリィズの中へ入ってきた。
「違います」
メルティナが言った。
リィズは顔を上げた。
「リィズ様が危険なのではありません」
メルティナは、息を整えながら続けた。
「リィズ様の身体が、危険の中にあるという意味です」
「……私が、誰かを傷つけるからじゃなくて?」
「違います」
その声だけは、少し強かった。
「放っておけば、リィズ様の身体が壊れてしまう。王が知っていたのは、そのことです」
リィズは右腕を押さえた。
包帯の下にある黒い痕が、急に重くなった気がした。
「魔法を使うと、悪くなることも?」
「知っていました」
リィズは手を握った。
「いつから?」
「包帯を替える役になって、少し経ってからです」
「包帯を替える役?」
「はい」
メルティナは少しだけ視線を落とした。
「最初にリィズ様のおそばに置かれた時、私はまだ城に入ったばかりでした。母を亡くし、父も戻らず、王城で働く子どもの一人でした」
リィズは黙って聞いた。
メルティナが城に来た時のことを、リィズは知らない。
知っていると思っていた。
メルティナは最初からそこにいた気がしていた。
でも、そんなはずはなかった。
誰にでも、来る前の時間がある。
メルティナにも。
「私は治癒魔法の素質があったので、医師たちの手伝いをしていました」
「それで、私の包帯?」
「はい」
メルティナの目が、リィズの右腕へ向いた。
「黒い痕を、怖がらずに触れられる者が少なかったので」
「怖かった?」
リィズは聞いた。
メルティナは首を横に動かした。
「痛そうでした」
その答えに、リィズは言葉をなくした。
怖い、ではなく。
痛そう。
メルティナは最初から、そう見ていたのか。
黒い腕を。
普通ではないものを。
王女かどうかも分からない子どもを。
化け物でも、危険物でもなく、痛そうな子として見ていたのか。
「私、嫌がった?」
「いいえ」
「泣いた?」
「いいえ」
「じゃあ、何してたの」
メルティナは、ほんの少しだけ目を細めた。
笑みに近かった。
けれど、今の身体では、笑みになる前に薄くほどけてしまう。
「私の髪を見ていました」
「髪?」
リィズはメルティナの髪を見た。
白い寝台の上に広がる、炭色を帯びた髪。
今はほどけている。
昔は、もっと短かったのだろうか。
「当時は、今より短かったです」
「ふうん」
「包帯を替えている間、リィズ様はずっと私の髪を見ていました」
「私、変な子だね」
「はい」
「そこは否定してよ」
「事実ですので」
リィズは少しだけ口を尖らせた。
メルティナの声はまだ細い。
でも、その言い方は、ほんの少しだけ戻ってきている。
それが嬉しくて、悲しかった。
「それで?」
リィズが聞くと、メルティナは静かに言った。
「包帯を巻き終えた時、リィズ様が言いました」
リィズは息を止めた。
「何を?」
メルティナは、リィズを見た。
赤い瞳。
熱で少し潤んでいる。
それでも、まっすぐだった。
「きれいな髪だね、と」
旧休眠室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
リィズは何も思い出せなかった。
その言葉を言った自分が、どこにもいない。
でも、メルティナの中にはいた。
黒い腕を差し出しながら、包帯を替えられながら、目の前の少女の髪を見て、そんなことを言った小さなリィズが。
「私、それ言ったんだ」
「はい」
「覚えてない」
「はい」
メルティナは、それを責めなかった。
責めないことが、もっと痛かった。
「メルティナは、覚えてたの」
「はい」
「ずっと?」
「はい」
リィズは、メルティナの髪をもう一度見た。
白い寝台。
青白い光。
炭色を帯びた髪。
幼い自分は、その髪を見ていた。
黒い腕を見られながら。
怖がられるはずの場所で。
先に、相手の髪をきれいだと言った。
その一言を、自分は忘れた。
メルティナは覚えていた。
「ずるい」
リィズは、小さく言った。
メルティナは瞬きをした。
「何がでしょうか」
「私が覚えてないことを、メルティナだけ覚えてる」
「それは、ずるいのでしょうか」
「ずるい」
リィズは、少しだけ強く言った。
「だって、それでメルティナは、私のことを守ろうとしたんでしょ」
メルティナは答えなかった。
答えないことが、答えに近かった。
リィズの胸の奥が熱くなる。
怒りではない。
悲しみでもない。
まだ名前がない。
でも、動かないわけにはいかない感情だった。
「さっきの」
リィズは言った。
「セノアが言ったこと」
メルティナの指が、かすかに固くなる。
「誰かが、進行を受け取っていた可能性があるって」
空調の音が遠のいた。
セノアは黙っている。
メルティナは、少しだけ目を伏せた。
「それ、メルティナのこと?」
「私だけではありません」
リィズは眉を寄せた。
「どういうこと?」
「治癒魔法は、痛みや熱をただ消すものではありません。流れを変え、散らし、身体の外へ逃がす術でもあります」
「逃がす?」
「はい」
メルティナは、リィズの手を弱く握り返した。
「空気へ。水へ。布へ。私の魔力へ。できる範囲で、少しずつ」
「じゃあ、メルティナが全部受け取ってたわけじゃないの?」
「はい」
その答えは、嘘ではなかった。
けれど、リィズの中にあった小さな棘は、抜けなかった。
「でも、メルティナにも痛い?」
メルティナは少しだけ黙った。
「少しは」
「少し?」
「治癒魔法を使えば、術者にも負荷はあります」
リィズはメルティナの顔を見た。
「普通のこと?」
「普通より、少し重いです」
「少し?」
メルティナは、わずかに目を伏せた。
「……かなり、です」
リィズは息を止めた。
さっきと同じ答えだった。
でも、メルティナはそれ以上を言わなかった。
リィズも、それ以上は聞けなかった。
問いは残った。
遠ざけるって、どこへ。
その答えは、部屋のどこにも出なかった。
出なかったからこそ、リィズの中に残った。
小さな棘のように。
抜けないまま、残った。
「お父様は」
リィズは、少ししてから聞いた。
別の問いへ逃げたのではない。
同じ問いの周りを、別の道から歩いている気がした。
「メルティナに何て言ったの」
メルティナは、息を整えながら目を閉じた。
「王は、リィズ様の右腕が命に関わるものだと知っていました」
「うん」
「ただ、リィズ様にそれを背負わせるつもりはない、とも言っていました」
「お父様が?」
「はい」
リィズは父の顔を思い浮かべた。
雑なようで、全部見ている顔。
見ているくせに、見ていないふりをする顔。
「王は、私に言いました」
メルティナの声が、少しだけ深くなる。
その奥に、カイルム王の声が混じった気がした。
「あいつが自分で生きたいと思うまで、そばにいてやれ」
リィズは、何も言えなかった。
自分で生きたいと思うまで。
自分は、思っていなかったのだろうか。
生きているのが当たり前で。
城が退屈で。
外に出たくて。
オシャな景色が見たくて。
魔法を撃てば、みんなが驚いて。
メルティナが直してくれて。
父が笑って。
それで、生きていると思っていた。
でも、父は知っていた。
自分がまだ、生きたいと選んでいないことを。
「ずるい」
リィズは言った。
今度の声は、さっきより小さかった。
「お父様も、メルティナも、ずるい」
メルティナは何も言わなかった。
セノアも黙っていた。
リィズは、メルティナの手を握ったまま、右腕を見た。
黒い痕は包帯の下に隠れている。
見えないだけで、ある。
メルティナの答えも、同じだった。
見えないだけで、ある。
「私は」
リィズは小さく言った。
「ちゃんと生きたいって思ってるのかな」
メルティナの指が、少しだけ動いた。
「思っています」
「なんで分かるの」
「今、聞いているからです」
リィズはメルティナを見た。
「聞くことと、生きたいことって同じ?」
「近いです」
メルティナは、ほんの少しだけ目を開けた。
「知ろうとしている人は、まだこちら側にいます」
こちら側。
その言葉が、リィズの胸に落ちた。
ネオストは眠らせようとする。
悲しめないようにする。
怒れないようにする。
願えないようにする。
でも、今のリィズは知りたい。
痛いことも。
怖いことも。
メルティナが隠したことも。
父が知っていたことも。
自分が何者なのかも。
「じゃあ、私はこっちにいる」
リィズは言った。
「はい」
メルティナは答えた。
「メルティナも?」
「はい」
「嘘じゃない?」
「今は、嘘ではありません」
「今はって言い方、嫌い」
「正確ですので」
「それも嫌い」
メルティナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
笑った。
たぶん、笑った。
リィズはそれを見て、胸の奥がまた痛くなった。
痛いのに、嬉しかった。
遠くで、かちり、と音がした。
今度は近かった。
セノアが顔を上げる。
「起動音が増えています」
リィズはメルティナの手をそっと寝台に戻した。
「どれくらい休める?」
「短いです」
「短いってどのくらい」
「分かりません」
「分かんないこと多いね」
「はい」
セノアは否定しない。
その正直さにも、少し慣れてきた。
リィズは立ち上がった。
右腕はまだ熱い。
でも、さっきとは違う熱だった。
怒りだけではない。
怖さだけでもない。
聞きたいことが残っている熱だった。
「メルティナは寝て」
「リィズ様は」
「起きてる」
「危険です」
「知ってる」
「それでは」
「命令」
メルティナは、少しだけ息を吐いた。
「……承知しました」
リィズは、メルティナの髪を見た。
炭色を帯びた髪。
幼い自分が、きれいだと言った髪。
自分は覚えていない。
でも、メルティナは覚えている。
その非対称が、今は少し怖かった。
でも、怖いからこそ、もう忘れたくなかった。
「メルティナ」
「はい」
「髪、今もきれいだよ」
メルティナの目が、ほんの少し開いた。
その赤い瞳が、リィズを見た。
今度は、リィズも覚えている。
言ったことを。
この部屋で。
白い施設の奥で。
青白い光の下で。
メルティナは、しばらく何も言わなかった。
それから、目を閉じる。
「……ありがとうございます」
声は小さかった。
でも、消えなかった。
リィズはその声を、ちゃんと聞いた。
遠ざけるって、どこへ。
問いは残っている。
でも今は、その問いごと手の中に持っている。
リィズはメルティナの隣に立ち、白い扉の方を見た。
かちり。
かちり。
施設は、待ってくれない。
それでもリィズは、もう一度だけメルティナの呼吸を聞いた。
一つ。
二つ。
三つ。
その数え方も、今度は忘れないと思った。




