第二十八話「三斜印」
旧休眠室の中で、時間は少しだけ遅くなった。
ネオストの低速化ではない。
メルティナの呼吸に合わせて、リィズが勝手に遅くしている時間だった。
一つ。
二つ。
三つ。
胸が上がる。
胸が下がる。
そのたびに、リィズは指先の力を少し抜いた。
強く握りすぎれば痛い。
弱く握りすぎれば、どこかへ行ってしまいそうだった。
メルティナは目を閉じている。
眠っているのか、眠ろうとしているのかは分からない。
けれど、さっきより呼吸は落ち着いていた。
白い寝台。
古い空調の音。
天井から落ちる青白い光。
部屋の隅に座るセノア。
そして、寝台の脇に置かれた布包み。
リィズはその布包みに目を向けた。
メルティナのダガー。
クナト村で服を着替えた時、黒いメイド服の内側から出てきた二本の刃。
父のものだと、メルティナは言った。
ハシュカも、それを見た。
柄の根元に刻まれた、三本の短い斜線。
あの時、ハシュカは知っている顔をした。
でも、話さなかった。
少しだけ知っているものほど、朝に話すと長くなる。
ハシュカはそう言った。
今は、朝ではない。
白い施設の奥で、朝からいちばん遠い場所にいる。
それでも、もう聞かないままにはできなかった。
リィズは布包みに手を伸ばした。
「それ」
セノアが言った。
声は静かだった。
リィズは手を止めた。
「何」
「その印を、見たことがあります」
部屋の空気が、ほんの少し変わった。
メルティナのまぶたが動く。
眠っていなかった。
リィズは布を開いた。
二本のダガー。
刃はよく手入れされている。
柄は古いが、握られてきた時間を持っていた。
その根元に、三本の短い斜線。
まっすぐではない。
少し傾きながら、同じ方向へ走っている。
傷ではなく、印だった。
「メルティナのお父さんの?」
リィズが聞いた。
セノアは頷いた。
「部隊の印です」
「部隊?」
「中央調律機関では、三斜印の妨害者と記録されています」
「さんしゃいん」
リィズは、音だけを繰り返した。
白い施設の奥で聞くには、あまりにも場違いな響きだった。
でも、セノアの声は笑っていなかった。
メルティナも笑っていなかった。
寝台の上で、メルティナが薄く目を開ける。
「……父は」
声は細い。
リィズはすぐに顔を近づけた。
「しゃべらなくていい」
「少しだけ、です」
「少しだけは信用しない」
メルティナは、かすかに息を吐いた。
笑ったようにも、痛みに耐えたようにも見えた。
「父は……サンシャイン、と呼んでいました」
リィズはダガーの印を見た。
三本の斜線。
サンシャイン。
白い施設の奥で、その名前だけが少し浮いていた。
でも、変ではなかった。
たぶん、変ではない。
場違いだからこそ、消えずに残っているようにも見えた。
「どういう部隊なの」
リィズはセノアを見た。
セノアは少しだけ目を伏せた。
「正式な名称は、記録に残っていません」
「じゃあ、記録では?」
「三本の斜線を印として残す妨害者。搬送路、外縁施設、保護対象移送部隊への襲撃。記録上は、そうなっています」
「保護対象」
リィズの声が低くなった。
その言葉は、もう嫌いだった。
「子どもたち?」
「はい」
セノアは答えた。
「境界山地周辺で、中央調律機関へ運ばれる子どもたちを、何度か逃がしています」
リィズは、ダガーの柄を見た。
小さな三本の線。
その線が、山道に見えた。
白い道を横切る、細い山道。
誰かが、ネオストのまっすぐな線に、斜めから傷を入れた。
「メルティナのお父さんが?」
「その可能性が高いです」
「可能性じゃなくて」
リィズはメルティナを見た。
メルティナは目を閉じている。
でも、聞いている。
「メルティナは知ってたの?」
しばらく、返事はなかった。
空調の弱い音だけが落ちてくる。
メルティナの指が、リィズの手の中で少し動いた。
「……幼い頃」
メルティナはゆっくり言った。
「父と、旅をしたことがあります」
「転送の洞窟?」
「はい」
「その時に?」
「父は、多くを話しませんでした」
リィズは黙って聞いた。
メルティナの言葉は、歩くより遅かった。
一語ずつ、傷に触れないように出てくる。
「ただ、白い道を避けること。音のしない場所に入らないこと。気配を消す相手は、気配で探さないこと。転送の魔法陣には、絶対に触れないこと」
メルティナは息を整えた。
「そう教えられました」
リィズの中に、あの夜の黒い獣が戻ってきた。
音もなく近づき、気配もなく爪を伸ばしたもの。
メルティナが迷わずダガーを抜いた理由を、今になって少しだけ知った。
あれは、技術だけではなかった。
父から渡された、生き延び方だった。
「お父さんは、ネオストと戦ってたの?」
メルティナは答えなかった。
代わりに、セノアが口を開いた。
「記録上は、敵対者です」
リィズはセノアを睨んだ。
「それ、ネオスト側の言い方でしょ」
「はい」
「じゃあ、メルティナのお父さん側から見たら?」
セノアは少し考えた。
考える時間がある。
それが、前より人間に近かった。
「子どもを運ぶ道を、壊していた人たちです」
リィズは頷いた。
そちらの方が分かる。
そちらの方が、人の言葉だった。
「サンシャイン」
リィズはもう一度、音を口にした。
今度は、少しだけ違って聞こえた。
明るい名前ではない。
暗い山道で、誰かが子どもの手を引いた時にだけ必要になる光。
そういう名前だった。
「ハシュカも知ってた」
リィズは言った。
「ダガーを見た時、知ってる顔をした」
メルティナは、薄く目を開けた。
「ハシュカ様が?」
「うん。話さなかったけど」
メルティナは少しだけ視線を揺らした。
「父が、あの村に立ち寄ったことがあるのかもしれません」
「傷ついて?」
「おそらく」
また、おそらく。
でも今は、その言葉の中に逃げはなかった。
手元にある欠片を、欠片のまま置いているだけだった。
リィズはダガーを布の上に戻した。
「じゃあ、クナト村の子も」
言いかけて、止まる。
ミナクの手が浮かんだ。
干した実。
すっぱい。眠い時、食べる。
その小さな手の向こうに、いない誰かがいる。
名前も顔も知らない。
知らないのに、胸が痛かった。
セノアは答えた。
「クナト村の保護対象記録と、三斜印の妨害記録は近い時期にあります」
「助けられたの?」
「結果は記録にありません」
リィズは唇を噛んだ。
記録にない。
ネオストの白い場所では、その言葉で終わる。
でも、山では違う。
戻ったか。
戻らなかったか。
待っている人がいたか。
泣いた人がいたか。
それがある。
記録にないから、なかったことにはならない。
「父は」
メルティナが言った。
リィズはすぐに顔を向ける。
「もういいよ」
「いいえ」
メルティナは目を閉じたまま、続けた。
「父は、戻りませんでした」
リィズの手が止まった。
「いつ?」
「私が、城へ入る前です」
メルティナの声は揺れていない。
揺れていないことが、逆に痛かった。
「母が亡くなったあと、父はしばらく私を連れて歩きました。けれど、ある時、私を知人の家に預けて……戻りませんでした」
「ネオスト?」
「分かりません」
リィズは何も言えなかった。
メルティナは、いつも何でも知っているような顔をしていた。
薬も、料理も、礼儀も、修復魔法も、危険の避け方も。
でも、父がどこで消えたのかは知らない。
そのことが、とても変だった。
変で、当たり前だった。
メルティナの父は戻らなかった。
でも、ダガーは戻っている。
三本の斜線も残っている。
サンシャインという名前も、メルティナの中に残っている。
人は戻らなくても、残るものがある。
そのことが、少しだけ残酷だった。
遠くで、かちり、と音がした。
今度は少し近い。
セノアが顔を上げる。
「施設の起動が進んでいます」
「どれくらい休める?」
リィズが聞いた。
「長くはありません」
「いつもそれ」
「事実です」
リィズはため息を吐いた。
「事実って言葉も、あんまり好きじゃなくなってきた」
「はい」
セノアは頷いた。
リィズはメルティナを見た。
「少し寝て」
「リィズ様は」
「私は起きてる」
「それでは」
「命令」
メルティナは、目を閉じたまま、かすかに息を吐いた。
「……承知しました」
リィズはメルティナの手を握ったまま、もう片方の手でダガーの布をそっと閉じた。
三本の斜線は、隠れた。
でも、見えなくなっただけだった。
そこにある。
右腕の黒い痕と同じように。
記録にない子どもたちと同じように。
リィズは、眠ろうとするメルティナの呼吸を聞いた。
その奥で、白い施設の音が増えていく。
かちり。
かちり。
かちり。
サンシャイン。
白い壁の中で、その名前だけが、まだ消えずに残っていた。




