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第二十七話「旧休眠室」

白い施設の奥は、外から見たより深かった。

廊下はまっすぐ続いている。

壁には細い線が走り、ところどころで淡く光っていた。白い光ではない。古い硝子の奥に残った、青白い光だった。生きているというより、まだ死にきっていないものの光に見えた。

セノアが先を歩いた。

歩くたび、肩が少し揺れる。壁に手をつきながらでなければ、まっすぐ進めないようだった。

それでも足取りには、迷いがなかった。

「道、分かるの?」

リィズが聞くと、セノアは少しだけ振り返った。

「記憶があります」

「ここに来たことがあるの?」

「三〇二号としては、ありません」

「じゃあ、どうして」

「首輪の中に、外縁施設の経路が入っていました」

リィズは、割れた首輪を見た。

青い光は消えている。

けれど、セノアの首には、まだ金属の欠片が残っていた。

「壊れても残るの?」

「一部は」

「嫌なものだね」

「はい」

セノアは否定しなかった。

メルティナの足が、少しだけ遅れた。

リィズはすぐに止まる。

「休む?」

「……まだ」

「まだは信用しない」

リィズは短く言って、メルティナの身体を支え直した。

白い壁に背を預けさせる。

メルティナの呼吸が浅い。

額に触れると、熱は少しある。

強くはない。

でも、忘れていい熱ではなかった。

ハシュカの声が、耳の奥に残っている。

半刻歩いたら休む。

坂は支える。

熱が上がったら、その日は終わり。

傷が開いたら、戻るか、止まる。

魔法は使わせない。

リィズは布袋に触れた。

青い紐。

赤い紐。

黒い紐。

まだ使わない。

でも、あることを確かめる。

「リィズ様」

メルティナが小さく言った。

「私は」

「大丈夫って言うならだめ」

メルティナは口を閉じた。

リィズは、少しだけメルティナを見た。

「言いたいこと、当てられるようになってきた」

「……よくありません」

「よくあるよ」

メルティナは困ったように目を伏せた。

その顔が、少しだけいつものメルティナだった。

リィズは胸の奥で息をした。

セノアは少し離れた場所で待っていた。

急かさない。

ただ、廊下の奥を見ている。

その横顔は、やはりまだ人形のように静かだった。

けれど、首輪に青い光はない。

リィズはそこを何度も見てしまう。

あの青い光が、セノアから何を奪っていたのか。

そして、今どれだけ戻っているのか。

分からなかった。

「旧休眠室は近いの?」

「はい」

セノアは答えた。

「この先を下ります」

「下るの?」

「地下です」

リィズは廊下の奥を見た。

白い床が、少し先で途切れている。

その向こうに階段があった。

低く、広い階段。

白い石でできている。

端は欠けていたが、形はきれいに残っていた。

下から風は来ない。

匂いもしない。

ただ、音だけが少し変わっていた。

階段の奥へ、かつ、という足音が沈んでいく。

リィズはその音が嫌いだった。

「メルティナ、ゆっくり」

「はい」

一段目。

メルティナの足が震える。

リィズは支える。

二段目。

止まる。

息を聞く。

三段目。

また止まる。

セノアは先に数段下り、振り返っていた。

その目がメルティナの傷を見る。

リィズは少しだけ眉を寄せた。

「見ないで」

セノアは目を伏せた。

何かを言おうとして、言葉にならなかったようだった。

リィズは、今はそれ以上言わなかった。

「下りるよ」

「はい」

セノアは頷いた。

階段を下りきると、廊下の白さが変わった。

上より暗い。

壁の線も少ない。

代わりに、丸みを帯びた扉がいくつも並んでいた。

白磁の扉。

縁には細い銀色の線が走り、中央には曇った硝子が嵌め込まれている。

中は見えない。

どの扉も同じ顔をしていた。

リィズは喉の奥が冷えるのを感じた。

「休眠室って、ここ?」

「この区画です」

「眠る部屋?」

「身体反応を低下させて、負傷者や搬送対象を一時的に保つ場所です」

「保つって」

リィズは嫌な顔をした。

「人に使う言い方じゃない」

セノアは黙った。

その沈黙で、ここでは人にもそう言うのだと分かった。

奥から三つ目の扉の前で、セノアが止まった。

扉の横に、細い窪みがある。

セノアは割れた首輪に触れた。

一瞬だけ、欠けた金属片に青い火花が走った。

リィズは身構える。

でも、セノアは顔を歪めただけだった。

「大丈夫なの?」

「痛みはあります」

「痛いって言えるんだ」

「はい」

セノアは少しだけ考えるように沈黙した。

「言えます」

扉が、低い音を立てた。

白い線が一本、横へ走る。

重い扉が、ゆっくり開いた。

中は小さな部屋だった。

白い寝台が二つ。

壁際には、古い箱のような装置が沈黙している。

天井には小さな円形の口があり、そこから弱い風が落ちていた。

空気を動かすためのもの。

セノアが言っていた空調とは、これのことなのだろう。

部屋は冷たかった。

けれど、廊下ほど死んでいなかった。

古い空気が、かすかに動いている。

「ここなら、少し休めます」

セノアが言った。

「安全?」

「安全とは言えません」

「言えないんだ」

「はい」

「でも外よりは?」

「はい」

リィズはメルティナを見た。

「寝られる?」

「……はい」

メルティナはそう答えた。

けれど、それは寝たいというより、もう立っていられないという返事だった。

リィズはメルティナを寝台へ座らせた。

ゆっくり。

肩を動かしすぎないように。

腹の布がずれないように。

灰色の腰布を整える。

メルティナは横になろうとして、息を詰めた。

リィズはすぐに支える。

「痛い?」

メルティナは目を閉じた。

それが答えだった。

「ハシュカ、ここにいてほしい」

リィズは思わず言った。

メルティナは目を開けた。

「……そうですね」

その声が、少しだけ優しかった。

リィズは喉の奥が詰まった。

クナト村の煙。

ミナクの小さな手。

ハシュカの薬草の匂い。

あの場所は、もう遠い。

遠いのに、まだリィズの手の中に残っている。

リィズはハシュカの布袋を開けた。

青い紐の包みを取り出す。

「熱の薬、いる?」

メルティナは少しだけ首を動かした。

「今は……水を」

「うん」

リィズは水袋を取り出し、唇に少しだけ含ませた。

喉が動く。

一度。

もう一度。

メルティナの眉が、少しだけ寄る。

「苦い?」

「水です」

「じゃあ、嫌な顔しないで」

メルティナは、ほんの少しだけ目を伏せた。

「……はい」

旅に出てからずっと、そう言うのはメルティナの方だった。

今は逆だ。

逆になったからといって、安心できるわけではない。

でも、何もできないよりはよかった。

メルティナを寝台に横たえると、リィズはようやく息を吐いた。

白い寝台の上で、メルティナの炭色を帯びた髪が静かに広がっている。

黒いメイド服ではない。

ほどいた髪。

白い上衣。

灰色の布。

クナト村から持ってきた身体。

生きている身体。

リィズは、その横に座った。

セノアは部屋の入口に立っていた。

入ってこない。

リィズは彼を見た。

「なんでそこにいるの」

「近づかない方がいいと判断しました」

「誰に?」

「メルティナに」

リィズはメルティナを見た。

メルティナは目を閉じている。

けれど、眠ってはいない。

「メルティナ、どうする?」

「……入っても、構いません」

セノアの表情は変わらなかった。

でも、少しだけ目を伏せた。

「ありがとうございます」

その言い方は、硬かった。

それでも、さっきより少しだけ人間の言葉に聞こえた。

セノアは部屋の隅まで入り、壁に背を預けた。

立っているのもつらそうだった。

リィズは少し迷った。

「セノアも座れば」

「必要ありません」

「必要ある顔してる」

「顔で判断できますか」

「できるようになってきた」

セノアは黙った。

しばらくして、壁際の床に腰を下ろした。

その動きがぎこちない。

人間が休む方法を思い出している途中のようだった。

部屋の中に、短い沈黙が落ちた。

空調の弱い音。

メルティナの呼吸。

遠くの施設の、かちり、という音。

それだけがあった。

リィズは右腕を押さえた。

包帯の下が、まだ熱い。

強くはない。

でも、ずっとそこにある。

セノアの視線が、そこへ落ちた。

リィズはすぐに言った。

「見ないで」

「確認ではありません」

「じゃあ何」

「記憶があります」

リィズは黙った。

セノアは、少しだけ言葉を探した。

「その黒い痕は、傷ではありません」

リィズの手が止まった。

メルティナのまぶたも、わずかに動いた。

「傷じゃないなら、何」

「魔力回路の炭化です」

「炭化?」

「紫の反応が、身体の中で制御できずに焼けた痕です。皮膚ではなく、奥にある通り道が黒くなっています」

リィズは自分の右腕を見た。

包帯の下にある黒。

火傷のようで、火傷ではないもの。

ずっと隠してきたもの。

「魔法を使うと、広がる?」

「はい」

セノアは頷いた。

「出力が大きいほど進行します」

リィズは、メルティナを貫いた岩の棘を思い出した。

山肌を削った紫の光。

そのあと、包帯の下で何かが広がった。

「あの時も?」

「おそらく」

おそらく。

またその言葉だ。

でも、今回は嫌ではなかった。

断定された方が怖かった。

リィズは右腕を抱えるようにした。

「これ、いつか私を殺すの?」

部屋の空気が止まった。

セノアはすぐには答えなかった。

その沈黙だけで、リィズには半分分かった。

「進行が中枢まで届けば」

「中枢って」

「心臓。脊髄。脳。魔力反応の中心」

リィズは小さく息を吐いた。

怖かった。

でも、どこかで知っていた。

命のカウントダウン。

昔、父と医師が話していた言葉。

聞こえないふりをした。

知らないふりをした。

メルティナがいるから大丈夫だと思っていた。

「リィズ様」

メルティナが小さく言った。

リィズはすぐに顔を近づけた。

「しゃべらなくていい」

「……ですが」

「だめ」

メルティナは黙った。

その瞳が、少しだけ苦しそうだった。

リィズは、メルティナの手を握った。

返ってきた指先が、少し冷たかった。

でも、メルティナは何も言わなかった。

「今は、私が聞く」

メルティナは、ほんの少しだけ握り返した。

リィズはセノアを見た。

「続けて」

セノアは頷いた。

「リィズの紫は、本来ひとりで扱う設計ではありませんでした」

「どういうこと」

「三〇二号が、制御する役でした」

リィズは息を止めた。

「セノアが?」

「はい」

セノアは壊れた首輪に触れた。

「私は、リィズの出力を抑えるために近くに置かれていました。反応が跳ねた時、流れを受け、逸らし、戻す。それが三〇二号の役割でした」

白い部屋。

小さな手。

水色の髪の少年。

起きない方がいい。

まだ、痛む。

名前はない。

でも、ここでは三〇八号と呼ばれる。

記憶の中の声が、今のセノアの声と重なる。

「じゃあ、私を逃がした時」

リィズは言った。

「その制御が、切れたの?」

「はい」

セノアは目を伏せた。

「私が切り離されたあと、紫は出口を失いました」

リィズは右腕を見た。

出口を失った紫。

身体の中で焼けた道。

黒くなった通り道。

それが、この腕。

「じゃあ、セノアが悪いの?」

言ってから、リィズは自分でその言葉に驚いた。

責めたいのか。

責めたくないのか。

分からなかった。

セノアは答えた。

「一部は」

リィズは眉を寄せた。

「そういう答え、嫌い」

「すべてとは言えません。ですが、無関係とも言えません」

「記録みたい」

「はい」

セノアは静かに言った。

「私は、まだ記録の言葉でしか話せないことが多いです」

リィズは何も言えなかった。

その正直さが、少し痛かった。

「本来なら」

セノアは続けた。

「リィズの身体は、もっと早く壊れていたはずです」

メルティナの手が、リィズの手の中でわずかに固くなった。

リィズはその動きを感じた。

「でも、壊れてない」

「はい」

セノアの視線が、メルティナへ向いた。

リィズの胸が冷える。

「誰かが、進行を受け取っていた可能性があります」

部屋の空調の音が、急に遠くなった。

リィズはメルティナを見た。

メルティナは目を閉じている。

でも、眠ってはいない。

唇は少しだけ白い。

指先はリィズの手に触れている。

「誰かって」

リィズの声が小さくなった。

セノアは答えなかった。

答えないことが、答えになりかけていた。

「違うよね」

リィズはメルティナに言った。

「メルティナ」

メルティナは目を開けた。

赤い瞳が、薄くリィズを見た。

「……今は」

声は細かった。

メルティナは一度だけ、胸元へ指を寄せた。

「休みましょう」

それは答えではなかった。

答えないための言葉だった。

リィズは、それを分かってしまった。

胸の奥が、痛いより先に冷たくなる。

「メルティナ」

「リィズ様」

メルティナは、息を整えながら言った。

「今、知れば……あなたは、動けなくなります」

リィズは何も言えなかった。

「だから、今は」

メルティナの声が、さらに小さくなる。

「休みましょう」

リィズは、メルティナの手を握った。

強く握りすぎないように。

でも、離さないように。

「分かった」

そう言うしかなかった。

分かっていなかった。

分かりたくもなかった。

けれど、今ここで問い詰めたら、メルティナは話そうとする。

話せない身体で。

リィズのために。

それが分かったから、聞けなかった。

セノアは目を伏せていた。

何かを言おうとして、言葉を選べずにいるようだった。

リィズは首を横に振った。

「今は、何も言わなくていい」

部屋の中に、また沈黙が落ちた。

白い寝台。

古い空調の音。

壁際に座る、壊れた首輪のセノア。

寝台に横たわる、ほどいた髪のメルティナ。

右腕を抱えるリィズ。

施設の奥で、まだ音がしている。

かちり。

かちり。

眠っていたものが、ひとつずつ目を開けていく。

リィズは、メルティナの隣に座ったまま、右腕の包帯を見た。

黒い痕は見えない。

でも、ある。

見えないだけで。

その進行を、誰かが受け取っていたかもしれない。

その誰かは、今、目の前で息をしている。

リィズは、メルティナの呼吸を数えた。

一つ。

二つ。

三つ。

洞窟で数えた時と同じように。

数えながら、リィズは初めて思った。

自分は、守られていたのではない。

削られながら、守られていたのかもしれない。

そのことを、まだ言葉にしたくなかった。

言葉にしたら、メルティナが本当に遠くへ行ってしまう気がした。

リィズは黙って、メルティナの手を握っていた。

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