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第二十六話「壊れた首輪」

セノアは、廊下の入口の壁ぎわに座り込んでいた。

背中を壁に預け、片膝だけを立てている。もう片方の足は床に投げ出されていた。

破れた白い服。

土と血で汚れた肩。

水色の髪には乾いた泥がつき、頬には細い傷が走っている。

以前より、ずっと人間に見えた。

けれど、いちばん変わっていたのは首元だった。

金属の輪。

あの青い光を放っていた輪が、割れていた。

半分ほど欠け、首に残った金属片だけが、沈黙している。

リィズは杖を握ったまま、動けなかった。

「……三〇八」

セノアが言った。

その声は、機械のようではなかった。

けれど、名前でもなかった。

リィズの指に力が入った。

「その名前で呼ばないで」

セノアは、割れた首輪に触れた。

「識別として、そう記録されています」

「私はリィズ」

セノアは黙った。

その沈黙は長くなかった。けれど、その短い間に、彼の中で何かが引っかかったように見えた。

「……リィズ」

初めて、その声で名前を呼ばれた。

でも、リィズは杖を下げなかった。

名前を呼ばれたからといって、何かが戻ったわけではない。

メルティナを貫いた岩の棘は、消えない。

洞窟の床に広がった血も、消えない。

「知ってたの?」

「記録上は」

「記録じゃなくて」

セノアは答えなかった。

答えられないのかもしれなかった。

メルティナがリィズの前に出ようとした。

身体が動ききらず、肩が揺れる。

リィズはすぐに支えた。

「メルティナは動かないで」

「ですが」

「だめ」

メルティナは口を閉じた。

少しだけ不服そうだった。

リィズは、その顔を見て胸が痛くなった。

不服そうにできるくらいには戻ってきている。

でも、立っているだけで、息が浅い。

セノアはメルティナを見た。

新しい服。

ほどいた髪。

支えられなければ立っていられない身体。

その視線が、腹のあたりで止まった。

「私が、傷つけました」

リィズの手が震えた。

「覚えてるの」

「はい」

セノアは目を伏せた。

「謝罪の仕方を知りません」

白い壁の奥で、音がした。

かちり。

かちり。

施設のどこかで、古いものが目を覚ましていく。

「ですが、必要だとは思います」

メルティナは、静かにセノアを見た。

「今は、説明を」

セノアは頷いた。

「はい」

謝るより先に、必要なことがある。

セノアは、目を伏せたまま頷いた。

けれど、戻ったからといって、傷がなかったことにはならない。

「ここは、中央調律機関の外縁施設です」

セノアは白い部屋を見た。

「中央調律機関って何」

「ネオストの中枢です」

「国の中心?」

「国より奥にあります」

リィズは眉を寄せた。

「意味分かんない」

「王や街より奥で、ネオストを動かしている場所です」

セノアの声は硬かった。

壊れた首輪のせいなのか。

もともと、そういう話し方なのか。

リィズには分からなかった。

「そこに、地下最下層があります」

「地下?」

「はい」

白い壁の線が、ひとつ灯った。

セノアの影が、床に細く伸びる。

「子どもたちがいます」

リィズの喉が止まった。

「子ども?」

「はい。番号で呼ばれている子どもたちです」

リィズは、床に落ちた白い板を見た。

三〇八。

埃の下に残っていた数字。

「私も?」

セノアは答えるまで、少し時間を置いた。

けれど、目をそらさなかった。

「はい」

リィズは何も言えなかった。

名前がある。

父が呼ぶ名前がある。

メルティナが呼ぶ名前がある。

リィズ。

アークライアの王女。

それなのに、そのもっと奥に、番号がある。

そのことが、冷たい虫のように胸の中を這った。

「リィズは、三〇八号として記録されていました」

「やめて」

声は思ったより低かった。

「そういう言い方、嫌い」

セノアは口を閉じた。

少しして、言い直した。

「リィズは、ネオストで作られました」

その言い方も、好きではなかった。

けれど、番号よりは少しだけましだった。

少しだけ。

「じゃあ、セノアは?」

「三〇二号です」

「あなたも、子どもだったの?」

「はい」

セノアは頷いた。

「私は、リィズの近くに置かれていました」

「なんで」

「世話。記録。鎮静。逃走防止」

言葉は冷たかった。

でも今のセノアは、その冷たさを自分のものとして話していないように見えた。

記録に残っている言葉を、そのまま口から出している。

そうしなければ、言えないのかもしれなかった。

「私は、リィズを逃がしました」

部屋の空気が止まった。

リィズは、セノアを見た。

「逃がした?」

「はい」

「なんで」

セノアはすぐには答えなかった。

壊れた首輪に、指先で触れる。

「理由は、当時は分かりませんでした。命令にない行動でした」

「命令にないなら、なんで」

「地下最下層に戻せば、リィズはリィズではなくなると思いました」

リィズは息を止めた。

「その時、私は名前があったの?」

「ありませんでした」

セノアは首を横に振った。

「三〇八号でした」

リィズの胸が、また冷えた。

名前がなかった自分。

白い部屋。

水色の髪の少年。

名前をもらって。

転送の光の中で見た記憶が、胸の奥で揺れた。

「その後、私は再制御されました」

セノアは言った。

「首輪をつけられ、命令だけが残りました」

リィズは壊れた首輪を見た。

「じゃあ、あの時は」

「私ではありました。ですが、私だけではありませんでした」

セノアはメルティナを見た。

「言い訳にはなりません」

メルティナは、静かに目を伏せた。

「はい」

その一言は、許しではなかった。

責めでもなかった。

ただ、事実を置く声だった。

リィズは息を吸った。

「ネオストは、何がしたいの」

セノアは白い床を見た。

「世界を滅ぼすつもりではありません」

「じゃあ、何」

「世界を眠らせようとしています」

リィズは眉を寄せた。

「眠らせる?」

「はい」

セノアの声は硬いままだった。

「人や魔物が、強く動きすぎないようにするためです。怒りも、欲望も、恐怖も、誰かを守りたいという衝動も、立ち上がる前に薄めます」

「それが、平和?」

「ネオストでは、そう記録されています」

リィズは黙った。

白い部屋の中で、音が遠くなった。

そして、別の音が戻ってきた。

ランゼの手前の村。

道端に座っていた子どもたち。

楽しいかと聞いても、分からない。

つまらないかと聞いても、分からない。

あの顔。

目は開いていた。

でも、どこか遠かった。

あれは、静かな村ではなかった。

静かにされていたのだ。

リィズの喉が、少し痛くなった。

「低速化の波は、まだ完成していません」

セノアが言った。

「完成していない波は、場所によって強く漏れます」

リィズは、また別の景色を思い出した。

倒れた草が起き上がらなかった場所。

風が吹いているのに、布だけが揺れなかった荷車。

誰も寄りつかなかった木陰。

道が、風より少し遅れて動いた場所。

火の先が、風と違う向きへ倒れた夜。

気配のない黒い獣。

音が抜ける場所。

見ていた。

ずっと見ていた。

でも、何を見ていたのか分かっていなかった。

「じゃあ、あれ全部」

「低速化の漏出域だった可能性があります」

リィズは唇を結んだ。

可能性。

おそらく。

記録。

そういう言葉が、白い壁に似合いすぎていた。

「子どもは」

リィズの声が掠れた。

「地下にいる子どもたちは、どこから来たの」

「各地から集められています」

「集めるって」

「ネオストでは、保護と記録されています」

「保護?」

リィズは、その言葉を噛むように言った。

「魔力異常。辺境病。孤児。低速化不適合。理由は地域ごとに変えられます」

「本当は?」

「実験体です」

その言葉が、白い床に落ちた。

今度は、冷えるより先に、熱くなった。

道の上に落ちていた木の人形。

雑な顔の、小さな人形。

北から逃げてきた男の声。

子どもも泣いていた。

落ちているものに触るな。

鎖の切れ端。

小さな布。

壊れた荷車。

全部が、リィズの中で遅れてつながった。

「クナト村も?」

そう聞いた時、声が少し震えた。

セノアは沈黙した。

その沈黙だけで、リィズは分かってしまった。

「記録があります」

「誰」

「個人名は分かりません。境界山地、クナト村。保護対象、一名」

メルティナの指が、リィズの手の中でわずかに動いた。

リィズは、ミナクを思い出した。

戸口に立っていた小さな身体。

干した実を差し出した手。

すっぱい。眠い時、食べる。

白い人、歩ける?

髪、きれい。

前より、こっちの方が見える。

顔。

あの子の家にも、誰かがいないのかもしれない。

ハシュカの声も戻ってきた。

命の前で遠慮する人は、あとで泣く。

急ぐのと慌てるのは違う。

ハシュカは、ただ知っていたのではない。

見てきたのだ。

止められなかったものを。

戻らなかったものを。

「保護って」

リィズは言った。

声が低くなった。

「そんな言葉で、連れていったの」

「はい」

「戻したの?」

セノアは答えなかった。

答えないことが、答えだった。

リィズの右腕が、はっきり熱を持った。

包帯の下で、黒い聖痕が脈打つ。

メルティナが、そっと袖に触れた。

「リィズ様」

その声で、リィズは息を戻した。

白い床が、少しだけ近くなる。

ここにいる。

メルティナがいる。

まだ、撃ってはいけない。

「悲しまなくていいようにするんじゃなくて」

リィズは小さく言った。

セノアが、リィズを見た。

「悲しめなくしてるだけじゃん」

白い部屋の奥で、かちり、と音がした。

リィズは続けた。

「怒らなくていい世界じゃない。怒る力を奪ってるだけ。行かなくていい世界じゃない。行きたい気持ちを消してるだけ」

右腕が熱い。

でも、今はその熱を手放さなかった。

「そんなの、平和じゃない」

セノアは何も言わなかった。

否定もしなかった。

リィズは息を吸った。

「私をどうするつもりだったの」

「回収します」

「回収して?」

「低速化の核にします」

メルティナの顔色が変わった。

リィズは、聞き間違えたと思った。

「核?」

「リィズの紫は、低速化に抵抗します。だから、反転させて使います」

「反転って何」

「リィズを使って、波を安定させるということです」

細かい理屈は分からなかった。

けれど、自分の中にある大事なものを使われるのだと分かった。

自分の怒り。

自分の楽しいと思う気持ち。

オシャだと思う気持ち。

メルティナを守りたいと思う気持ち。

それを使って、世界から気持ちを薄める。

そういうことなのだと分かった。

「私を使って、みんなを眠らせるの」

「はい」

リィズはメルティナの手を握った。

その手は、まだ少し熱かった。

洞窟で握った手。

血に濡れていた手。

今も、リィズのそばにある手。

「ふざけてる」

声は小さかった。

でも、床の白さが少し震えた気がした。

「ふざけてる」

もう一度言った。

今度は、右腕がはっきり熱を持った。

メルティナが、リィズの袖を握った。

止めるためではなかった。

そこにいると知らせるためだった。

リィズは、その手を見た。

ほどいた髪。

白い上衣。

灰色の布。

まだ立っているだけで苦しそうな身体。

この人を、これ以上歩かせたくない。

でも、地下に子どもたちがいると聞いてしまった。

クナト村からも、誰かが連れていかれたと聞いてしまった。

自分が、その子たちを眠らせるための核にされると聞いてしまった。

リィズは息を吸った。

「止めるには、どうすればいいの」

セノアは廊下の奥を見た。

「中央調律機関へ行く必要があります」

「地下最下層?」

「はい」

「そこに、子どもたちがいる?」

「います」

「低速化の波も?」

「地下最下層は、実験体の接続区画です。そこを切れば、完成前の波は大きく乱れます」

メルティナが静かに言った。

「罠の可能性があります」

「高いです」

セノアはすぐに答えた。

「この施設がリィズを認識しました。すでに中央へ信号が送られている可能性があります」

「止められる?」

リィズが聞いた。

「完全には無理です」

「じゃあ、今は?」

「この施設の下層に、旧休眠室があります」

セノアは壁に手をつき、身体を支えた。

「一時的に身を隠せます。空調が一部生きていれば、傷のある者を休ませることもできます」

リィズはメルティナを見た。

「危ない?」

「危険はあります」

「外よりは?」

「外よりは、見つかりにくい可能性があります」

リィズは納得していなかった。

でも、メルティナは立っているだけでもつらそうだった。

唇の色も、まだ戻りきっていない。

このまま進むなど、間違っている。

けれど、戻る場所もない。

止まる場所もない。

「まず、メルティナを休ませる」

リィズは言った。

「それから考える」

セノアは頷いた。

「はい」

リィズはセノアを見た。

「私は、あなたを信用してない」

「当然です」

「メルティナを傷つけた」

「はい」

「でも、今は案内して」

「分かりました」

セノアは背を壁から離した。

片手を壁につき、時間をかけて立ち上がる。

その動きだけで、身体が揺れた。

彼もまた、まともに歩ける状態ではなかった。

ボロボロの三〇二号。

ほどいた髪のメルティナ。

紫の聖痕を抱えたリィズ。

三人は、眠っていた白い施設の奥へ向かった。

背後で、また音がした。

かちり。

かちり。

施設はもう、眠っていなかった。

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