第二十五話「三〇八」
かちり。
その音は、小さかった。
けれど、白い部屋の中では大きく聞こえた。
リィズは板を持ったまま、動けなかった。
三〇八。
埃の下に残った数字。
セノアが呼んだ番号。
あの時は、意味が分からなかった。ただ、名前ではないもので呼ばれたことだけが、肌に残っていた。
でも今、その数字はここにある。
白い壁の中に。
長く眠っていたはずの施設の中に。
偶然ではない。
「メルティナ」
リィズは隣を見た。
メルティナは、白い板を見つめていた。
顔色が悪い。
怪我のせいだけではなかった。
「知ってるの?」
メルティナはすぐには答えなかった。
答えようとして、喉の奥で言葉が止まったように見えた。
「……すべてを知っているわけではありません」
「全部じゃなくていい」
リィズは板を見る。
三〇八。
「これは、私のこと?」
メルティナの指が、わずかに震えた。
「おそらく」
おそらく。
その言い方が、余計に怖かった。
嘘ではない。
でも、何かを避けている。
「セノアは、私をそう呼んだ」
「はい」
「三〇二とも言ってた」
「はい」
「じゃあ、セノアも番号なの?」
メルティナは、目を伏せた。
「その可能性が高いです」
リィズは笑わなかった。
笑えなかった。
「可能性ばっかり」
「申し訳ありません」
「謝らなくていい」
言ってから、リィズは息を吸った。
部屋の空気は冷たい。
山の匂いがしない。
白い床。
白い台。
曇った硝子。
細い管。
壁の線。
そのどれもが、黙ってこちらを見ているようだった。
「メルティナ」
「はい」
「ここ、私のことを知ってる場所?」
メルティナは、少しだけリィズを見た。
「少なくとも、この数字に関わる何かが残っている場所だと思われます」
その時、また音がした。
かちり。
今度は、足元ではなかった。
壁の奥。
白い線のどこか。
リィズの右腕が熱を持った。
包帯の下で、黒い聖痕が息をした気がした。
「っ……」
「リィズ様」
メルティナが手を伸ばしかける。
リィズは首を振った。
「触らないで。大丈夫」
「大丈夫ではありません」
「メルティナに言われたくない」
メルティナは黙った。
少しだけ、困ったような顔をした。
それがいつものメルティナに近くて、リィズはほんの少しだけ息ができた。
白い台のひとつが、かすかに光った。
強い光ではない。
古い硝子の下で、消えかけた火が思い出したように明滅している。
リィズは身構えた。
「これ、動いてる?」
「……そのようです」
「壊した方がいい?」
「まだです」
メルティナの返事は早かった。
「情報があるかもしれません」
「でも危ない」
「はい」
「じゃあ壊す?」
「まだです」
リィズは眉を寄せた。
「メルティナ、そういうところある」
「どのようなところでしょうか」
「危ないって分かってるのに、見るところ」
メルティナは少しだけ目を伏せた。
「今は、知らないことの方が危険です」
白い台の上に、薄い光の線が浮かんだ。
文字だった。
けれど欠けている。
読めるところと、読めないところがある。
リィズは近づいた。
メルティナも一歩進もうとして、すぐに膝を揺らした。
リィズは振り返る。
「座ってて」
「ですが」
「座ってて」
今度は命令ではなかった。
お願いでもなかった。
リィズが、怖がっている声だった。
メルティナはそれを聞いて、黙って近くの白い椅子に腰を下ろした。
椅子は冷たそうだった。
リィズは台の文字を見る。
読めない文字が多い。
でも、いくつかは分かった。
三〇八。
紫。
反応。
回収。
その単語だけが、白い光の中に浮いていた。
「回収って何」
メルティナは答えなかった。
「メルティナ」
「……分かりません」
「本当に?」
「はい」
その声は、嘘ではなかった。
知らない。
でも、怖い。
そんな声だった。
光がまた乱れた。
今度は、短い音が混じった。
人の声に似ていた。
けれど、遠い。
壊れた箱の奥から、水に沈んだ声が浮いてくるようだった。
『……三〇八……反応……』
リィズの喉が動いた。
メルティナが椅子から立ち上がろうとする。
「座ってて」
リィズは言った。
声は震えていた。
でも、言った。
『……紫……安定せず……』
白い光が揺れる。
壁の線が、一本ずつ薄く灯っていく。
眠っていたものが、少しずつ起きている。
『……三〇二……管理……失敗……』
メルティナの息が止まった。
リィズは振り返った。
「三〇二」
メルティナは、白い顔のまま小さく頷いた。
「セノア」
リィズはもう一度、台を見る。
『三〇八……回収……低速化……核……』
そこで音が途切れた。
光が落ちる。
部屋はまた、白い沈黙に戻った。
リィズは動けなかった。
低速化。
核。
意味は分からない。
でも、良い言葉ではない。
名前ではなく、番号で呼ばれる場所。
人ではなく、反応として見られる場所。
それが自分を知っている。
リィズは右腕を押さえた。
「私、何なの」
その声は、思っていたより小さかった。
メルティナが立ち上がった。
今度はリィズも止められなかった。
メルティナはゆっくり歩いてきて、リィズのそばに立った。
まだ足元は危うい。
息も浅い。
それでも、隣に立った。
「リィズ様は、リィズ様です」
「それ、答えになってない」
「はい」
メルティナは静かに言った。
「でも、最初に置くべき答えです」
リィズは目を伏せた。
泣きたいわけではない。
怒りたいわけでもない。
ただ、足元の白い床が急に遠くなった気がした。
自分の名前。
リィズ。
父が呼ぶ名前。
メルティナが呼ぶ名前。
城の者たちが呼ぶ名前。
それより前に、番号があるのかもしれない。
そのことが、気持ち悪かった。
また、音がした。
今度は部屋の外だった。
かつ。
足音。
リィズは息を止める。
メルティナの手が、荷物の方へ動いた。
リィズは止めようとして、止めきれなかった。
メルティナは布に包まれたダガーへ触れただけで、抜かなかった。
足音は近づいてこない。
廊下の奥で止まった。
長い沈黙。
それから、低い声がした。
「……三〇八」
リィズの背中が冷えた。
その声を、知っている。
機械のようではなかった。
命令でもなかった。
壊れた喉で、名前の代わりを呼んだような声だった。
リィズは廊下の方を見た。
白い入口の向こう、壁ぎわに人影があった。
水色の髪の青年が、座り込んでいる。
セノアだった。
リィズは杖を握った。
メルティナが、息を吸う。
セノアは動かなかった。
ただ、かすれた声で言った。
「ここに、長くいるな」
リィズは杖を下げなかった。
「どうして」
セノアは、白い壁を見た。
「この施設は、目を覚ました」
その奥で、また小さく音がした。
かちり。
今度は、ひとつではなかった。




