第二十四話「白い壁」
白い壁は、近づくほど古く見えた。
遠くからは滑らかに見えた表面に、細い亀裂が入っている。角には薄く苔がつき、壁の下には枯れ葉が溜まっていた。
けれど、壊れているわけではない。
捨てられた場所というより、誰かに眠らされている場所のようだった。
リィズは壁を見上げた。
「ここ、使われてないの?」
「長く使われていない施設だと思われます」
メルティナは息を整えながら答えた。
「ですが、完全に放棄された場所ではないかもしれません」
「どうして?」
「道が残りすぎています」
リィズは来た道を振り返った。
白い石の道。
苔も落ち葉も少ない、不自然に歩きやすい道。
たしかに、何年も誰も通っていない道には見えなかった。
壁の端に、入口らしきものがあった。
扉はなかった。
四角く開いた暗い穴のように、壁の一部が口を開けている。中から風は出てこない。匂いも薄い。ただ、山の空気がそこだけ途切れていた。
リィズは足を止めた。
「入りたくない」
「私もです」
メルティナがすぐに言った。
その返事があまりに早くて、リィズは少しだけ目を丸くした。
メルティナは小さく咳をした。
「ですが、後ろの道に戻れば、白い人影と重なる可能性があります」
「……ここに隠れるしかない?」
「少なくとも、外で見つかるよりは」
メルティナの声は静かだった。
でも、その身体はリィズの腕に少し重くかかっている。
リィズはメルティナを見た。
「少しだけ。危なかったら出る」
「はい」
「メルティナは無理しない」
「はい」
「魔法もだめ」
「……はい」
少しだけ返事が遅れた。
リィズは眉を寄せた。
「今、遅かった」
「気のせいです」
「気のせいじゃない」
メルティナは目を伏せた。
リィズは息を吐いて、入口を見た。
白い壁の中へ、一歩入る。
足音が変わった。
外の石より、さらに乾いた音がした。
かつ。
音が、奥へ細く伸びていく。
中は暗すぎなかった。
天井の一部が割れ、そこから細い光が落ちている。白い床には埃が積もっていた。けれど、その埃は一面ではない。
古い足跡がある。
その上に、新しい足跡もあった。
リィズは息を止めた。
「誰か、来てる」
「はい」
メルティナの手が、荷物の方へ動きかけた。
リィズはすぐに止めた。
「ダガーもだめ」
「見ただけです」
「持とうとした」
「……見ただけです」
「嘘が下手になってる」
メルティナは黙った。
リィズは、少しだけ胸が痛くなった。
本当なら、メルティナは今すぐ刃を持ちたいはずだった。
守るために。
遅れないために。
それでも、今は立っているだけで息が切れている。
リィズは前を見た。
白い廊下が、奥へ続いている。
壁には細い線が走っていた。装飾ではない。何かを通すための溝のようだった。ところどころ途切れ、黒ずんでいる。
ネオストの白。
けれど、リィズの知っている白より古い。
冷たく、乾いて、少し死んでいる。
「ここ、何を見る場所だったのかな」
リィズが呟いた。
メルティナは壁を見た。
「境界山地を越える者か、断界の方角か。あるいは、魔力反応かもしれません」
「全部嫌」
「はい」
二人は少しだけ進んだ。
廊下の奥に、小さな部屋があった。
扉は傾き、半分だけ開いている。
中には、白い台が並んでいた。割れた板。曇った硝子。読めない文字。壁際には、細い管がいくつも伸びている。
部屋の中央に、古い標識のような板が落ちていた。
リィズはそれを拾おうとして、右腕を押さえた。
聖痕が熱を持っていた。
さっきより、はっきりと。
「リィズ様?」
「平気」
平気ではなかった。
痛いわけではない。
でも、右腕の奥で、何かが目を覚まそうとしている。
リィズは板を見た。
埃に隠れて、文字はほとんど読めない。
けれど、数字だけが残っていた。
三〇八。
リィズは、その数字を聞いたことがあった。
セノアが、そう呼んだ。
三〇八号。
あの時は意味が分からなかった。けれど今、その数字は白い板の上に残っている。
偶然ではない。
リィズの右腕が、奥から冷えた。
メルティナの呼吸が、隣で止まった。
「メルティナ?」
返事はなかった。
リィズが振り向くと、メルティナは白い板を見つめていた。
顔色が、さっきより白くなっている。
「知ってるの?」
リィズが聞いた。
メルティナは、すぐには答えなかった。
白い壁の奥で、どこか遠くから、小さな音がした。
かちり。
眠っていたものが、ひとつだけ目を開けたような音だった。




