第二十三話「白い道」
リィズは、まずアークライアへ戻ることを考えていた。
断界のことは、もう遠かった。
遠見の崖から見た、世界の割れ目。
あの景色の近くまで行けば、胸が跳ねると思っていた。
けれど今は、そんなことを考えている場合ではなかった。
メルティナを休ませたい。
眠らせたい。
傷がふさがるまで、どこにも動かしたくない。
けれど、クナト村には白い人影が近づいていた。洞窟へ戻っても、そこがまだ安全だとは限らない。
アークライアへ帰るには、境界山地を越えなければならなかった。
リィズは一度、尾根の方を見上げた。
山は高い。
木々の間に、細い道らしいものは見える。けれど、それは道というより、獣や山の者だけが知っている裂け目のようだった。
メルティナを支えながら越えられる場所ではない。
「……戻れないね」
リィズが言うと、メルティナは少しだけ目を伏せた。
「はい。今の私では、足を引きます」
「そういう言い方しないで」
リィズはすぐに言った。
メルティナは黙った。
リィズは息を吸った。
「メルティナのせいじゃない。私が戻したいだけ。でも、戻る道がない」
その時、山道が唐突に終わった。
木の根も、濡れた土も、黒い石も、そこで途切れていた。
その先に、白い道があった。
石を敷いた道だった。
けれど、村へ続く道とは違う。人の足に踏まれてできたものではない。山を削り、土をならし、白い石を同じ幅で並べた道だった。
リィズは、メルティナを支えたまま足を止めた。
「これ、変」
「はい」
メルティナの声は小さい。
けれど、目はもう道を見ていた。
「自然にできた道ではないと思われます」
「断界へ続いてる?」
メルティナは、白い石の並びを見た。
「分かりません。ですが、断界へ向かう道には見えません」
「じゃあ、どこ?」
「ネオストの管理道かもしれません。領地の内側へ続いている可能性があります」
「最悪」
「はい」
メルティナは否定しなかった。
白い石は、山の中にあるには明るすぎた。
苔も少ない。
落ち葉も溜まっていない。
誰かが、ここを使っている。
あるいは、ここだけが今も使われるように保たれている。
リィズは右腕を押さえた。
包帯の下の聖痕が、少し熱い。
痛みではない。
けれど、そこにあるものが、道の奥に似た何かを知っているような熱だった。
「リィズ様」
メルティナが、わずかに体重をかけてきた。
「大丈夫?」
「はい」
そう言った直後、メルティナの膝が少し沈んだ。
リィズは慌てずに支えた。
「大丈夫じゃない」
「……少しだけです」
「少しは信用しない」
メルティナは目を伏せた。
その顔が少し不服そうで、リィズは胸の奥で小さく息を吐いた。
戻ってきている。
でも、まだ戻りきってはいない。
リィズは道の端にある平たい石を見つけ、そこにメルティナを座らせた。
「休む」
「時間が」
「休む」
短く言うと、メルティナは黙った。
リィズはハシュカの布袋を開けた。
青い紐。
赤い紐。
黒い紐。
間違えないように、指で触れて確かめる。
熱を見る。
水を飲ませる。
半刻歩いたら休む。
言われたことを、ひとつずつ思い出す。
白い道の上は、山道より歩きやすいはずだった。
でも、リィズは嫌だった。
歩きやすいことが、ここでは安心ではなかった。
「この道、行くしかないの?」
メルティナは白い石の道と、背後の山道を見比べた。
「戻れば、先ほどの白い人影と重なる可能性があります」
「クナト村も危ない」
「はい」
「洞窟も、安全か分からない」
「はい」
リィズは白い道を見た。
行きたいわけではない。
断界へ近づいているのかも分からない。
アークライアへ戻れる道でもない。
それでも、今この場で選べる道は、そこにしかなかった。
「進みたいから進むんじゃない」
リィズは小さく言った。
メルティナが、リィズを見た。
「止まる場所がないから、進む」
メルティナは少しだけ目を伏せた。
「はい」
リィズはメルティナの手を取った。
冷たさは少し残っている。
でも、握り返す力があった。
二人は白い道を進んだ。
足音が変わった。
土を踏む音ではない。
乾いた石が、小さく鳴る。
かつ。
かつ。
山の音から、少しずつ離れていくような音だった。
リィズはその音が嫌いだった。
施設の廊下を思い出す。
同じ幅。
同じ光。
同じ足音。
匂いのない白。
けれど、ここにはまだ山の風があった。
木の葉の匂いも、メルティナの浅い呼吸も、リィズの手の中の温度もあった。
それなら、まだ全部は奪われていない。
道は、ゆるく曲がっていた。
曲がった先に、白い柱が一本立っていた。
折れている。
半分ほどで斜めに欠け、根元には細い草が生えていた。
リィズは足を止めた。
「何、あれ」
メルティナは目を細めた。
「標柱だと思われます」
「道しるべ?」
「おそらく。ですが、文字が削られています」
近づくと、柱の表面には浅い傷がいくつもあった。
何かが刻まれていた跡。
けれど、読めない。
削られている。
誰かが消したのか。
それとも、時間が削ったのか。
リィズには分からなかった。
その時、右腕の聖痕が、ひくりと熱を持った。
リィズは息を止めた。
白い柱の奥。
木々の隙間に、何かが見えた。
壁だった。
山の斜面に埋まるような、白い壁。
窓は見えない。
けれど、そこだけ森の色が途切れている。
メルティナが小さく言った。
「リィズ様」
「うん」
リィズは、白い壁を見た。
行きたくない。
けれど、戻れない。
白い道は、そこへ続いていた。
リィズはメルティナの手を握り直した。
「少しだけ進む。危なかったら、すぐ止まる」
「はい」
二人は、白い道の先へ進んだ。




