第二十一話「ほどいた髪」
クナト村に来て、三日目の朝。
メルティナは、目を開けていた。
最初にそれを見た時、リィズは声を出せなかった。
寝台の上で、メルティナのまぶたが薄く開いている。ルビーのような赤い瞳はまだ濁っていて、いつものようにまっすぐ人を見る力はなかった。けれど、そこに光が戻っていた。
「……リィズ、様」
声は、かすれていた。
細く、途中で途切れそうだった。
リィズは寝台の横に膝をついた。
「しゃべらなくていい」
メルティナは、ほんの少しだけ眉を動かした。
「ですが……」
「いい。命令」
言ってから、リィズは少しだけ唇を結んだ。
命令、という言葉が、前より少し重かった。
メルティナは従おうとしたのか、口を閉じた。閉じただけで、胸が小さく上下する。
ハシュカは寝台の足元で、布と薬草の包みを整えていた。
「声が出るなら、昨日よりいい。でも、長く話せる身体じゃないね」
「歩ける?」
リィズが聞くと、ハシュカはすぐには答えなかった。
「立てるかどうかと、歩かせていいかは別だよ」
「……うん」
リィズは頷いた。
三日前なら、たぶんその違いが分からなかった。
立てるなら歩ける。歩けるなら進める。進めるなら、行ける。
そう思っていた。
けれど今は、メルティナの呼吸を見る。
顔色を見る。
指先の温度を見る。
ほんの少し眉が寄るだけでも、身体の奥で何かが痛んでいるのかもしれないと思う。
ハシュカが、寝台の横に畳んで置いてあった黒い布を持ち上げた。
メルティナのメイド服だった。
もう、服には見えなかった。
裂けた袖。
血の跡。
岩に擦れて白くなった裾。
魔法の熱で縮んだ布。
いつも完璧に整っていた黒い服は、今は傷の記録のようになっていた。
ハシュカはそれを見て、短く言った。
「これはもう着せられない」
メルティナの目が、わずかに揺れた。
「……申し訳、ありません」
「謝る相手は服じゃない」
ハシュカは淡々と言った。
「身体の方を先に戻すよ」
リィズは、メルティナの顔を見た。
メルティナは何も言わなかった。
けれど、いつもの服を失うことが、ただの着替えではないのだと分かった。
メイド服は、メルティナの姿だった。
リィズの隣に立つ時の形。
扉を開ける時の形。
リィズの髪を整える時の形。
誰かに頭を下げる時も、危険の前に立つ時も、メルティナはずっとその服を着ていた。
ハシュカは棚の奥から、別の服を取り出した。
山着ではある。けれど、ただの村人の服ではなかった。
白に近い生成りの上衣は、胸元まで高く閉じる作りだった。布は柔らかく、傷に触れても痛みが少ないように仕立てられている。袖はゆるく、包帯を巻いた腕でも通しやすい。
腰には灰色の長い布を重ねる。幅の広い布帯で留めるが、身体を締めつけるためではない。歩く時に布が乱れず、傷を抱えた身体を少しだけ支えるためのものだった。
裾は膝より下まで落ちる。歩けば、灰色の布が静かに揺れるだろう。
上衣の端には、目立たないほど細い刺繍が入っていた。
飾りではない。
布のほつれを防ぐための手仕事だった。
旅に出る者を、傷を抱えたまま少しでも長く歩かせるための服。
それなのに、どこか凛としていた。
「うちのものだけど、しばらくはこれを着なさい」
メルティナは、かすかに首を動かした。
「……お借り、します」
「礼は治ってからでいい」
ハシュカは、リィズを見た。
「手伝って。ゆっくり。肩を上げさせすぎない」
「わかった」
リィズは立ち上がった。
メルティナの身体を起こす。
ほんの少し動かしただけで、メルティナの息が乱れた。
「痛い?」
メルティナは小さく首を振ろうとした。
「嘘はだめ」
リィズが言うと、メルティナは目を伏せた。
「……少し」
「少しじゃない顔してる」
ハシュカが横から言った。
「ここの少しは、信用しなくていいよ」
リィズはハシュカを見た。
ハシュカは涼しい顔で新しい服を広げている。
「こういう人は、痛みを小さく言う」
「メルティナ、そうなの?」
メルティナは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
リィズは、治療のために切り開かれたメイド服の残りを、ゆっくり外した。
昨夜、ハシュカが傷を確かめるために裂いた布が、包帯の下や脇にまだ少し残っていた。黒い布は血と汗を吸って硬くなり、ところどころ肌に貼りついている。
指先を入れるだけで、メルティナの呼吸がわずかに乱れた。
「痛い?」
メルティナは、また首を振ろうとした。
リィズはその動きを止めるように、そっと手を添えた。
「振らなくていい。痛かったら、目を閉じて」
メルティナは少しだけ黙った。
それから、ゆっくり目を閉じた。
リィズの胸が、ぎゅっと狭くなった。
痛いのだ。
こんなに小さな動きでも。
リィズは布を引っぱらなかった。水で湿らせ、硬くなったところを少しずつほどいた。傷に触れないように。包帯を引っかけないように。指先に力を入れすぎないように。
短い作業のはずなのに、思っていたより時間がかかった。
メルティナの肌は、まだ白かった。
けれど、死に近い白さではなかった。熱が少し戻り、首元には薄く血色が差している。
新しい上衣に袖を通す時、メルティナの手が少し震えた。
リィズはその手を支えた。
「大丈夫。私がやる」
メルティナの目が、少しだけリィズを見た。
その視線に、いつもの静かな驚きがあった。
リィズは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
いつもは逆だった。
リィズが立っているだけで、メルティナが服を整えてくれた。
乱れた髪も、汚れた袖も、緩んだ紐も、メルティナが先に見つけた。
今は、リィズが結んでいる。
下手な手つきで。
少し曲がった布帯を、ハシュカに直されながら。
「きつくしない。傷に響く」
「うん」
「でも緩すぎると歩く時にずれる」
「難しい」
「服はだいたい難しいよ」
ハシュカは少しだけ笑った。
着替え終えたメルティナは、寝台の端に座っていた。
いつもの黒いメイド服ではない。
白い上衣に、灰色の長い腰布。
身体を飾るためではなく、傷を守り、歩くための服。
胸元は高く閉じていた。けれど、硬いメイド服とは違い、布は身体の線を隠しきらなかった。
リィズは、メルティナが思っていたより豊かな体つきをしていることに、今さら気づいた。
それは艶めいた驚きではなかった。
いつも自分のそばにいた人を、自分がどれほど見ていなかったかを知る驚きだった。
布は胸のあたりを控えめに受け止め、腰へ向かって静かに落ちている。締めつけるための形ではない。息ができるように、傷が痛まないように、身体の輪郭をそっと逃がしている。
それでも、メルティナが着ると品があった。
服が豪華なのではない。
彼女の背筋の静けさが、布の上に残っていた。
髪も、ほどかれていた。
いつも完璧に結い上げられていた髪が、肩から背へ、まっすぐ落ちている。
チャコールグレーの髪だった。
朝の光を受けると、灰色の奥に炭の黒と淡い銀が混じって、静かに光った。
リィズは、少しだけ目をそらしそうになった。
知っているはずのメルティナなのに、知らない人のように見えた。
「……変、でしょうか」
メルティナが小さく言った。
リィズは首を振った。
「変じゃない」
それから、少しだけ迷って言った。
「きれい」
メルティナの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
返事をする代わりに、彼女は視線を落とした。
その時、ハシュカの手が止まった。
古いメイド服の内側から、短いダガーが二本出てきた。
布に包まれ、身体に沿うように留められていたものだった。
リィズは、その二本を知っていた。
夜の獣を、音もなく沈めた刃。
セノアの前で、メルティナの手に握られていた刃。
いつも取り出す瞬間は見えなかった。気づいた時には、もう両手にあった。
けれど、こうして服から外されるところを見るのは初めてだった。
ダガーは、武器というより、メルティナの身体の一部のようにそこにあった。
リィズは、今さらそのことに気づいた。
「それ、いつもそこにあったんだね」
リィズが言うと、メルティナは一度だけ、浅く息を吸った。
「……はい」
「ずっと?」
「はい」
メルティナは視線を落とした。
「必要な時に、遅れないように」
リィズは何も言えなかった。
夜の獣に襲われた時も。
セノアの前に立った時も。
メルティナは、リィズが気づくより先に、その刃へ手を届かせていた。
ただ守るために。
ハシュカは笑わなかった。
一本を手に取り、柄の根元を見ていた。
柄は古く、刃は薄い。飾りはない。けれど、手入れだけはされていた。小さな傷がいくつもあり、それでも錆びてはいない。
柄の根元に、三本の短い斜線が刻まれていた。
傷にも見える。
印にも見える。
ハシュカは親指で、それを一度だけなぞった。
「……これを、この子が?」
声が、少し低くなった。
リィズはハシュカを見た。
「知ってるの?」
ハシュカはすぐには答えなかった。
ダガーの刃を光にかざす。
それから、メルティナを見た。
「これは、あなたのもの?」
メルティナの表情がわずかに変わった。
弱っているはずなのに、その一瞬だけ目に力が戻った。
「父のものです」
部屋の空気が、少しだけ止まった。
外では、山羊の鈴が鳴っていた。
遠くで、ミナクの声がした。誰かに呼ばれて、返事をしている。
ハシュカはダガーを布で包んだ。
「そう」
「返して、ください」
メルティナの声は細かった。
けれど、そこだけは譲らない声だった。
ハシュカは頷いた。
「返すよ。今は腰に差さない。傷に触る」
「……はい」
「鞄の上に置いておく。歩けるようになったら、自分で持ちなさい」
メルティナは小さく頷いた。
リィズは、ハシュカの手元を見ていた。
三本の短い斜線を見た時から、ハシュカの指が少しだけ慎重になっている。
「その印、知ってるの?」
ハシュカは、布の上から柄を押さえた。
「名前までは知らない」
「名前までは?」
「山に来る人間は、いろんなものを持ってくるからね」
リィズは眉を寄せた。
「それ、知ってるってことじゃない?」
「少しだけ」
ハシュカはダガーを包み、寝台の脇に置いた。
「少しだけ知っているものほど、朝に話すと長くなる」
メルティナは何も言わなかった。
リィズも、それ以上は聞かなかった。
聞きたいことはあった。
メルティナの父。
ダガー。
三本の斜線。
ハシュカが何を知っているのか。
でも、今のメルティナに過去まで背負わせる気にはなれなかった。
まずは、立つこと。
まずは、息をすること。
まずは、ここにいること。
ハシュカが寝台の前に立った。
「立ってみる?」
メルティナは頷いた。
リィズはすぐに手を出した。
メルティナはその手を見た。
少し迷ったあと、そっと重ねた。
指はまだ冷たかった。
リィズは握り返した。
「無理したら怒る」
「……リィズ様が、ですか」
「うん。私が」
「それは、少し……」
「何?」
「新鮮です」
リィズは口を尖らせた。
「怒るよ」
「もう、怒っていらっしゃいます」
メルティナの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑おうとしたのかもしれない。
その小さな動きだけで、リィズの胸の奥がほどけた。
メルティナは、ゆっくりと足を下ろした。
床に触れる。
膝が震えた。
リィズが支える。
ハシュカも反対側に手を添える。
「息を止めない」
メルティナは浅く息を吐いた。
立ち上がる。
一度、身体が前に傾いた。
リィズは慌てずに支えた。
急いだ。
けれど、慌てなかった。
ハシュカが言った。
「いい。そこで止まる」
メルティナは立っていた。
自分の足で。
顔は白い。
手は震えている。
けれど、立っていた。
リィズは泣きそうになった。
でも泣かなかった。
泣くと、メルティナが謝りそうだったから。
「立てた」
リィズが言うと、メルティナは小さく頷いた。
「はい」
その一言だけで息が切れている。
ハシュカは表情を変えなかった。
「歩けるね」
リィズが顔を上げる。
ハシュカは続けた。
「でも、歩かせていい身体じゃない」
リィズは頷いた。
「わかってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんは危ないね」
ハシュカは棚から薬草の包みをいくつか取り出した。
「半刻歩いたら休む。坂は支える。熱が上がったら、その日は終わり。傷が開いたら、戻るか、止まる。魔法は使わせない」
「魔法は、だめ」
リィズはすぐに言った。
メルティナがリィズを見た。
「リィズ様」
「だめ」
リィズは首を振った。
「メルティナが何かを直そうとしたら、私が止める」
メルティナは、困ったように目を伏せた。
「ですが、私は……」
「メルティナは、今、直される側」
その言葉を言うのは、少し怖かった。
でも、リィズは言った。
ハシュカが静かに頷いた。
「そうだね」
窓の外で、犬が吠えた。
一度。
少し間をおいて、もう一度。
リィズは外を見た。
村の朝は、今日も静かではなかった。
煙が上がっている。
薪の音がする。
ミナクが誰かと話している。
山羊の鈴が鳴る。
すべてが、昨日より少しだけ遠く聞こえた。
ハシュカが窓の方を見た。
「上の道に、人が入ったね」
リィズは振り返った。
「わかるの?」
「犬の声が違う」
ハシュカは淡々と言った。
「この村の人間に吠える声じゃない」
メルティナの指が、リィズの手の中でわずかに強くなった。
リィズはその動きを感じた。
ハシュカは、薬草の包みを布袋に入れる。
「今すぐ襲われるわけじゃない。でも、この村は隠れる場所には向かない」
「……村を巻き込む?」
「その前に出た方がいい」
メルティナが、何かを言おうとした。
リィズは先に言った。
「メルティナは黙ってて」
メルティナは口を閉じた。
少し不服そうだった。
リィズはその顔を見て、胸の奥で小さく笑った。
嫌がっている。
戻ってきている証拠。
「出る。でも、走らない」
リィズはハシュカを見た。
ハシュカはしばらく黙っていた。
それから、薬草の包みを布袋に入れた。
「半刻歩いたら休む。坂は支える。熱が上がったら止まる。傷が開いたら戻るか、止まる。魔法は使わせない」
ハシュカは少しだけ笑った。
「覚えはいいね」
「覚え続けるって言われたから」
ハシュカは何も言わず、布袋を差し出した。
「薬。青い紐が熱。赤い紐が痛み。黒い紐は、どうしても眠れない時だけ。多く使わない」
リィズは受け取った。
「ありがとう」
「礼は、その子を生かしてからでいい」
その言い方は冷たくなかった。
メルティナは、寝台の脇に置かれた布包みを見た。
ダガーだった。
リィズはそれを取って、メルティナの荷物の上に置いた。
「持っていく」
メルティナは小さく頷いた。
「はい」
戸口の布が揺れた。
ミナクが顔を出していた。
今日は籠を持っていない。
両手で、何か小さな布包みを抱えている。
「出るの?」
リィズはうなずいた。
「うん」
ミナクはメルティナを見た。
新しい服。
ほどいた髪。
支えられながら立っている身体。
「白い人、歩ける?」
「少しだけ」
リィズが答えると、ミナクは真剣な顔で頷いた。
「少しなら、道の石、踏まない方がいい」
「石?」
「黒い石。滑る」
ミナクは布包みを差し出した。
「これ、干した実。すっぱい。眠い時、食べる」
リィズは受け取った。
「ありがとう、ミナク」
ミナクは少しだけ笑った。
それから、メルティナの髪を見た。
「髪、きれい」
メルティナはゆっくりと目を向けた。
「……ありがとうございます」
「前より、こっちの方が見える」
「何が?」
リィズが聞くと、ミナクは首を傾げた。
「顔」
それだけ言って、ミナクは戸口から離れた。
走らなかった。
ただ、外で待っているようだった。
リィズはメルティナを支えたまま、一歩進んだ。
メルティナの足が、床を踏む。
もう一歩。
呼吸が少し乱れる。
止まる。
また一歩。
ハシュカは急かさなかった。
外へ出ると、朝の光が眩しかった。
クナト村の煙が、屋根の上で曲がっている。
まっすぐではない。
ほどけながら、山の風に混ざっていく。
リィズは、メルティナの手を少し強く握った。
「行こう」
メルティナは、かすかに頷いた。
「はい、リィズ様」
その声はまだ弱かった。
でも、そこに戻ってきたものがあった。
リィズは歩き出した。
急がない。
でも、止まらない。
クナト村の細い道を、メルティナの歩幅に合わせて下りていく。
背中の後ろで、ミナクが小さく手を振っていた。
ハシュカは戸口に立っていた。
その目は、メルティナではなく、布に包まれたダガーの方を一度だけ見ていた。
三本の短い斜線。
ハシュカはそれを、まだ覚えている顔をしていた。




