第二十話「煙の朝」
朝のクナト村は、静かではなかった。
鶏が鳴く。
犬が戸口の前で身体を伸ばす。
桶に水を汲む音がする。
どこかの家で、薪が割られる。
細い咳。
子どもの泣き声。
すぐに、それをあやす女の声。
クナト村は、境界山地の中腹にある小さな村だった。
石を積んだ低い家が、斜面に沿って寄り添うように並んでいる。屋根は低く、窓は小さい。山から吹き下ろす風を避けるためなのか、どの家も少しだけ地面に沈んで見えた。
昔は、峠を越える旅人が足を休める宿場だったという。けれど今では道も細り、村を訪れる者は少ない。来るのは、山に用のある者か、道に迷った者か、どこかを痛めて歩けなくなった者くらいだった。
煙は、いくつもの家から上がっていた。
まっすぐではない。
屋根の隙間から出るもの。
低い炉口から漏れるもの。
一度、木に絡んでから、風にほどけるもの。
リィズは窓のそばに立って、それを見ていた。
白い煙ではなかった。
朝の光を含んで、少し灰色で、少し青くて、薪の焦げた匂いがした。
軒先には、乾かした薬草が吊るされている。細い茎。薄い葉。小さな白い花。風が通るたび、煙の匂いに混じって、かすかに苦い匂いが入ってきた。
寝台の上で、メルティナは眠っている。
夜よりは、呼吸が深い。
けれど、目は開かない。
肌の白さも戻っていない。
ハシュカは、夜明け前と同じように寝台の横に立ち、傷の布を確かめていた。
「動かせないよ」
リィズは振り返った。
「どれくらい?」
「数日」
ハシュカは布をめくり、すぐに戻した。
「早くても三日。できれば七日」
「七日」
リィズはその数字を口の中で繰り返した。
七日。
そのあいだ、ここにいる。
ネオストも。
アークライアも。
セノアも。
右腕の黒い聖痕も。
全部、外にあるまま。
ハシュカは薬草を小さな紙に包んだ。
「急ぎたい顔をしてる」
リィズは何も言えなかった。
「でも、この子は今、戻ってきている途中だよ」
「途中?」
「生きる方へ」
ハシュカは包みを一つ、棚に置いた。
「だから、引っ張りすぎない」
リィズはメルティナを見た。
眠っている。
でも、死んでいるわけではない。
戻ってきている途中。
その言葉は、少し不思議だった。
人は道を歩いて戻るものだと思っていた。
でも、メルティナは今、身体の中で戻っている。
呼吸の奥から。
熱の中から。
血の止まった傷の向こうから。
「私は、何をすればいい?」
ハシュカは少しだけ笑った。
「待つ」
「待つだけ?」
「待つのは、何もしないことじゃないよ」
ハシュカは水桶を指さした。
「布を替える。水を飲ませる。熱を見る。呼吸を見る。変だと思ったら呼ぶ。食べられそうなら、粥を一口ずつ。食べられないなら、無理に入れない」
リィズは頷いた。
やることはある。
でも、進めない。
壊せない。
撃てない。
走れない。
ただ、戻ってくるものを待つ。
それは、リィズが一番知らないことだった。
戸口の布が揺れた。
小さな女の子が顔を出した。
昨日、ハシュカを呼びに走った子だった。名を、ミナクという。
七つほどで、薄茶色の髪を左右で結んでいる。けれど、結び目の高さが少し違っていた。片方の紐だけがほどけかけ、耳の下で揺れている。
手には、木の器を持っていた。
中には、湯気の立つものが入っていた。
「ハシュカ」
ミナクはリィズを見て、少し固まった。
紫のドレス。
破れた裾。
包帯の右腕。
それから、寝台のメルティナを見て、声を小さくした。
「粥」
ハシュカが受け取る。
「ありがとう、ミナク」
ミナクは頷いた。
けれど、すぐには帰らなかった。
リィズを見ている。
こわがっているのか。
珍しがっているのか。
分からない。
「その服、きれい」
ミナクが、戸口から少しだけ身を乗り出して言った。
リィズは自分のドレスを見た。
裾は破れ、土がつき、岩で擦れている。
紫の布はところどころ白く傷んでいた。
「もう、きれいじゃない」
「でも、色がきれい」
ミナクは、当たり前のことのように言った。
それから寝台のメルティナをもう一度見た。
「白い人、昨日より息してる」
リィズは、すぐには返せなかった。
ミナクの声は幼かった。けれど、その目は、傷ついた人間が運び込まれることに慣れた村の子どもの目をしていた。
この村では、痛みは隠されていない。
薬草を干す。
湯を沸かす。
布を替える。
呼吸を見る。
誰かの顔色が昨日より悪いか、昨日より戻っているかを、子どもまで知っている。
リィズは、そういう場所を知らなかった。
「……うん。昨日より、息してる」
そう答えると、ミナクは少しだけ笑った。
「よかった」
それだけ言って、戸口から走っていった。
リィズはしばらく黙っていた。
ハシュカは器を寝台の脇に置いた。
「この村では、破れていても色は見る」
「変な村」
「そうだね」
ハシュカは否定しなかった。
「変だから残ってる」
外で、山羊の鈴が鳴った。
りん。
りん。
昨日の夜より、少し明るい音に聞こえた。
リィズは椅子に座った。
メルティナの呼吸を見る。
砂時計は、まだ置かれている。
でも、今は夜ほど見つめなくてもよかった。
リィズは布を水に浸し、絞った。
額に置く。
メルティナのまぶたは動かない。
「メルティナ」
小さく呼ぶ。
返事はない。
「朝だよ」
言ってから、リィズは窓の外を見た。
洞窟には朝がなかった。
山には朝があった。
村にも朝がある。
でも、今のリィズにとって朝は、メルティナの胸が上がる場所だった。
その胸が、ゆっくり上がる。
下がる。
また、上がる。
リィズは息を吐いた。
ハシュカが粥を匙で混ぜた。
湯気が上がる。
米ではない。
麦でもない。
小さな粒を煮たものだった。薬草がほんの少し入っているらしく、青い匂いがした。
「起きたら、少しだけ」
「起きなかったら?」
「無理に食べさせない」
ハシュカは匙を置いた。
「命は、欲しがる時に受け取る。いらない時に詰め込むと、かえって遠のく」
リィズは粥を見た。
湯気はまっすぐ上がらない。
窓から入る風に流され、細く曲がる。
村の煙と同じだった。
「ネオストは」
言いかけて、止まった。
ハシュカがこちらを見る。
「ネオストは?」
リィズは少し迷った。
でも、言った。
「こういう煙も、嫌いなのかな」
ハシュカは窓の外を見た。
煙。
屋根。
曲がった柵。
水桶を運ぶ女。
山羊を追う老人。
転んで泣いた子どもを、別の子どもが笑っている。
ハシュカは静かに言った。
「嫌いというより、数えにくいんだろうね」
「数えにくい?」
「この家の煙は、今日は濃い。あの子は、昨日より泣いている。あの犬は、雨の前によく吠える。そういうものは、表に入れにくい」
リィズは窓の外を見た。
白い施設の廊下を思い出した。
同じ幅。
同じ光。
同じ足音。
そこでは、何も曲がっていなかった。
その代わり、何も匂わなかった。
「ここは、表に入らない?」
「入らないね」
ハシュカは少し笑った。
「だから、覚えておく人がいる」
リィズはハシュカを見た。
「ハシュカが?」
「私だけじゃない」
ハシュカは棚の薬草を整えた。
「村の者は、だいたい覚えてる。誰の咳が長いか。どの家の井戸が濁りやすいか。どの子が強がりか。どの老人が、薬を飲んだふりをするか」
リィズは少しだけ目を伏せた。
「私、メルティナのこと、知らないことが多い」
言ってから、胸の奥が痛くなった。
メルティナは、いつもそばにいた。
包帯を巻いた。
服を選んだ。
道を教えた。
食事を整えた。
壊れたものを直した。
傷を隠した。
それなのに、リィズは知らなかった。
メルティナがどれくらい痛かったのか。
どれくらい眠れなかったのか。
どれくらい、自分の前で平気な顔をしていたのか。
ハシュカは責めなかった。
「これから覚えればいい」
「間に合う?」
「間に合わせるんじゃない」
ハシュカは寝台のメルティナを見た。
「覚え続けるんだよ」
リィズは黙った。
外で、薪が割れる音がした。
からん、と乾いた音が山へ抜けていく。
メルティナの指が、ほんの少し動いた。
リィズはすぐに身を乗り出した。
「メルティナ?」
まぶたは開かない。
でも、唇がわずかに動いた。
声は出なかった。
ハシュカが近づく。
「水」
リィズは水を取った。
もう慌てなかった。
急いだ。
けれど、慌てなかった。
布を少し持ち上げ、メルティナの唇を湿らせる。
喉が動いた。
一度。
ハシュカが頷く。
「いい」
リィズは匙を見た。
「粥は?」
「まだ」
ハシュカは短く言った。
「水が先」
リィズは頷いた。
メルティナの唇に、もう一度だけ水を含ませる。
喉が動く。
それから、メルティナの眉が、ほんの少し寄った。
リィズは息を止めた。
「苦い?」
水は苦くないはずだった。
でも、メルティナの顔は、何かを嫌がるように見えた。
ハシュカが首を傾ける。
「生きてる顔だね」
「生きてる顔?」
「嫌がるのは、戻ってきている証拠」
リィズはその言葉を、ゆっくり受け取った。
嫌がる。
眉を寄せる。
喉を動かす。
それも、生きている形。
リィズはメルティナの顔を見た。
白い。
弱い。
でも、昨夜より少しだけ、ここに近い。
「おかえり」
声にしてから、早すぎたかもしれないと思った。
でも、取り消さなかった。
ハシュカは何も言わなかった。
窓の外では、煙が上がっている。
曲がりながら。
ほどけながら。
消えずに。
朝のクナト村は、まだ静かではなかった。
そのうるささの中で、メルティナの呼吸が続いていた。
リィズはそれを、嫌だと思わなかった。




