第十九話「夜の砂時計」
砂は、音を立てなかった。
灰色の粒が、細い首を通って落ちていく。
リィズはそれを見ていた。
砂が落ちきったら、額の布を替える。
熱が上がったら、ハシュカを呼ぶ。
呼吸が速くなったら、ハシュカを呼ぶ。
血が滲んだら、ハシュカを呼ぶ。
何度も、頭の中で繰り返した。
寝台の上で、メルティナは眠っていた。
眠っている、というより、深いところへ沈んでいるように見えた。
ハシュカの薬が効いているのだと言われた。
眠らせなければ、戻る力がなくなる。
その言葉を、リィズは何度も思い出した。
けれど、目を閉じたままのメルティナを見ると、胸の奥が冷えた。
「メルティナ」
小さく呼んだ。
返事はない。
リィズは、砂時計へ目を戻した。
部屋の中には、薬草の匂いがあった。
縫い終えた傷に当てた苦い草。
熱を下げるために煎じている葉。
水で濡らした布。
古い木の壁。
炉の中の火。
それらの匂いが、夜の空気に混ざっていた。
ハシュカは部屋の奥で、薬を煎じている。
火の前に膝をつき、時々、小さな匙で鍋を混ぜる。
その背中は静かだった。
急いでいるのに、慌てていない。
リィズは、その背中を見てから、自分の手を見た。
まだ震えている。
でも、水桶の場所は覚えた。
布の棚も覚えた。
薬草の匂いも、少しだけ分かるようになった。
砂が落ちきった。
リィズは布を取った。
水に浸す。
絞る。
強すぎないように。
弱すぎないように。
メルティナの額に置く。
熱い。
布の冷たさが、すぐに奪われていく。
「替えたよ」
返事はない。
でも、呼吸は続いている。
浅く。
細く。
少し速い。
リィズは砂時計を返した。
灰色の砂が、また落ち始めた。
外で、犬が一度鳴いた。
すぐに静かになる。
村の夜は、白い施設の夜と違った。
何かが止まっているのではない。
眠っているもの。
起きているもの。
火の中で崩れる薪。
壁の向こうを歩く足音。
遠くの小屋で、誰かが咳をする音。
山羊の鈴が、眠りの中で小さく鳴る音。
りん。
それから、風。
屋根の隙間を抜け、吊るされた薬草を揺らし、戸口の布を少しだけ膨らませる。
メルティナの呼吸も、その中にあった。
村の音に混じっていた。
リィズは、それを聞き逃さないように座っていた。
しばらくして、呼吸が速くなった。
最初は気のせいだと思った。
でも、違った。
胸元が浅く上下する間隔が、さっきより短い。
額の布も熱い。
リィズは立ち上がった。
椅子が少し鳴る。
「ハシュカ」
声が掠れた。
もう一度呼ぶ。
「ハシュカ」
ハシュカはすぐに振り返った。
「呼吸?」
「速い。熱も、上がった」
ハシュカは鍋から離れ、寝台へ来た。
メルティナの額に触れる。
脈を見る。
傷の布を見る。
「いい。呼んで正解」
その言葉で、リィズの膝から力が抜けそうになった。
けれど、座らなかった。
ハシュカが水桶を指さす。
「新しい布。二枚」
リィズは動いた。
水。
布。
絞る。
持っていく。
ハシュカは薬草を替えた。
メルティナの身体が、かすかに強張る。
声は出ない。
リィズは寝台の横に立ち、メルティナの胸元を見た。
上がる。
下がる。
また、上がる。
「呼んで」
ハシュカが言った。
リィズは頷いた。
「メルティナ」
メルティナのまつ毛が、少し震えた。
「ここにいるよ」
ハシュカが薬を当てる。
「村にいる。煙の村。ハシュカがいる」
自分で言って、少しだけ変だと思った。
でも、メルティナが戻る場所を探すなら、名前があった方がいい気がした。
「私もいる」
メルティナの呼吸が乱れる。
リィズは声を細くした。
「置いていかない」
ハシュカが短く言った。
「いい。そのまま」
リィズは続けた。
「洞窟、出たよ。山も見た。鳥も鳴いた。メルティナも、少しだけ空を見た」
本当に見たのかは分からない。
でも、そう言いたかった。
ハシュカの手が止まった。
「布」
リィズは渡した。
ハシュカが額の布を替える。
首筋にも冷たい布を当てる。
薬湯をほんの少し、唇に含ませる。
メルティナの喉が動いた。
一度。
それから、もう一度。
ハシュカは小さく息を吐いた。
「飲めた」
リィズはその言葉を聞いて、ようやく自分も息をしていなかったことに気づいた。
「このまま見て」
ハシュカは言った。
「速くなったら、また呼ぶ。遅すぎても呼ぶ」
「遅すぎても」
「うん」
ハシュカは、やさしい顔のまま言った。
「命は、急ぐ時と、止まりたがる時がある」
リィズは頷いた。
砂時計を返す。
砂が落ちる。
また、夜が始まる。
何度も布を替えた。
何度も水を絞った。
何度も呼吸を数えた。
途中で、数字が分からなくなった。
一つ。
二つ。
三つ。
また一つ。
二つ。
砂時計の砂が落ちるたび、リィズはメルティナの胸元を見た。
上がる。
下がる。
また、上がる。
その動きが小さすぎて、何度も見失いそうになった。
そのたびに、リィズは息を止めた。
メルティナの胸がもう一度上がるまで。
夜の深いところで、ハシュカが薬を替えた。
部屋の火が小さくなる。
外の音も少なくなる。
犬も鳴かない。
山羊の鈴も止まった。
風だけが、屋根の上を通っていく。
その静けさの中で、メルティナの呼吸が一度、深く乱れた。
リィズはすぐに立った。
「ハシュカ」
ハシュカは眠っていなかった。
椅子に腰かけたまま、目を閉じていただけだった。
すぐに来た。
「血は?」
「分からない」
「見る」
布を少し開く。
リィズは息を止めた。
ハシュカは傷を見て、首を横に振らなかった。
それだけで、少しだけ救われた。
「少し滲んだ。止める」
ハシュカは薬草を替え、強く押さえた。
メルティナの指が跳ねる。
リィズはその手を握りそうになって、止めた。
ハシュカが目だけで合図した。
「肩」
リィズはメルティナの肩を押さえた。
「強くしすぎない」
「うん」
「でも、逃がさない」
リィズは頷いた。
メルティナの身体が、細く震える。
リィズの腕にも、その震えが伝わる。
「メルティナ」
声が震えた。
「ここ。ここにいて」
ハシュカが押さえている布に、赤が広がる。
少し。
それ以上は広がらない。
ハシュカの指は動かない。
ただ、待っている。
血が止まるのを。
呼吸が戻るのを。
夜が通り過ぎるのを。
リィズも待った。
何も壊せない。
何も撃てない。
何も急がせられない。
ただ、肩を押さえ、呼び、息を見ていた。
やがて、メルティナの震えが少しずつ弱くなった。
呼吸が戻る。
浅いけれど、戻る。
ハシュカは布を替えた。
「よし」
その一言だけだった。
リィズは、そこで初めて涙が出そうになった。
でも、まだ泣かなかった。
泣くのは、あと。
そう言われていた。
砂時計の砂が落ちる。
返す。
また落ちる。
返す。
何度目か分からなくなった頃、窓の外の黒が、少しだけ薄くなった。
夜がまだ残っている。
でも、その奥に別の色が混ざり始めていた。
灰色。
青。
薄い白。
村のどこかで、鶏が鳴いた。
まだ早いと文句を言うような声だった。
ハシュカはメルティナの呼吸を聞いた。
長く。
静かに。
額に触れ、首筋に触れ、傷の布を見た。
それから、リィズを見た。
「越えたよ」
リィズは、何を越えたのか分からなかった。
山なのか。
夜なのか。
死に近い場所なのか。
けれど、メルティナの呼吸は、さっきより少し深かった。
ほんの少し。
それでも、違った。
リィズはメルティナの指先を見た。
朝の布の上で、指がわずかに動いた。
リィズはその指に、そっと触れた。
「メルティナ」
返事はない。
でも、指先は逃げなかった。
ハシュカは窓を少し開けた。
朝の冷たい空気が、部屋に入ってくる。
薬草の匂い。
煙の匂い。
濡れた布の匂い。
その中に、外の土の匂いが混じった。
村の煙が、また細く上がり始めている。
まっすぐではない。
風に曲がりながら、朝の中へほどけていく。
リィズは砂時計を見た。
灰色の砂は、もう落ちきっていた。
今は返さなかった。
メルティナの呼吸を見た。
一つ。
二つ。
三つ。
朝は、洞窟の中にはなかった。
でも、ここにはあった。
窓の外ではなく。
メルティナの胸が、もう一度上がったところに。




