↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/35

第十九話「夜の砂時計」

砂は、音を立てなかった。

灰色の粒が、細い首を通って落ちていく。

リィズはそれを見ていた。

砂が落ちきったら、額の布を替える。

熱が上がったら、ハシュカを呼ぶ。

呼吸が速くなったら、ハシュカを呼ぶ。

血が滲んだら、ハシュカを呼ぶ。

何度も、頭の中で繰り返した。

寝台の上で、メルティナは眠っていた。

眠っている、というより、深いところへ沈んでいるように見えた。

ハシュカの薬が効いているのだと言われた。

眠らせなければ、戻る力がなくなる。

その言葉を、リィズは何度も思い出した。

けれど、目を閉じたままのメルティナを見ると、胸の奥が冷えた。

「メルティナ」

小さく呼んだ。

返事はない。

リィズは、砂時計へ目を戻した。

部屋の中には、薬草の匂いがあった。

縫い終えた傷に当てた苦い草。

熱を下げるために煎じている葉。

水で濡らした布。

古い木の壁。

炉の中の火。

それらの匂いが、夜の空気に混ざっていた。

ハシュカは部屋の奥で、薬を煎じている。

火の前に膝をつき、時々、小さな匙で鍋を混ぜる。

その背中は静かだった。

急いでいるのに、慌てていない。

リィズは、その背中を見てから、自分の手を見た。

まだ震えている。

でも、水桶の場所は覚えた。

布の棚も覚えた。

薬草の匂いも、少しだけ分かるようになった。

砂が落ちきった。

リィズは布を取った。

水に浸す。

絞る。

強すぎないように。

弱すぎないように。

メルティナの額に置く。

熱い。

布の冷たさが、すぐに奪われていく。

「替えたよ」

返事はない。

でも、呼吸は続いている。

浅く。

細く。

少し速い。

リィズは砂時計を返した。

灰色の砂が、また落ち始めた。

外で、犬が一度鳴いた。

すぐに静かになる。

村の夜は、白い施設の夜と違った。

何かが止まっているのではない。

眠っているもの。

起きているもの。

火の中で崩れる薪。

壁の向こうを歩く足音。

遠くの小屋で、誰かが咳をする音。

山羊の鈴が、眠りの中で小さく鳴る音。

りん。

それから、風。

屋根の隙間を抜け、吊るされた薬草を揺らし、戸口の布を少しだけ膨らませる。

メルティナの呼吸も、その中にあった。

村の音に混じっていた。

リィズは、それを聞き逃さないように座っていた。

しばらくして、呼吸が速くなった。

最初は気のせいだと思った。

でも、違った。

胸元が浅く上下する間隔が、さっきより短い。

額の布も熱い。

リィズは立ち上がった。

椅子が少し鳴る。

「ハシュカ」

声が掠れた。

もう一度呼ぶ。

「ハシュカ」

ハシュカはすぐに振り返った。

「呼吸?」

「速い。熱も、上がった」

ハシュカは鍋から離れ、寝台へ来た。

メルティナの額に触れる。

脈を見る。

傷の布を見る。

「いい。呼んで正解」

その言葉で、リィズの膝から力が抜けそうになった。

けれど、座らなかった。

ハシュカが水桶を指さす。

「新しい布。二枚」

リィズは動いた。

水。

布。

絞る。

持っていく。

ハシュカは薬草を替えた。

メルティナの身体が、かすかに強張る。

声は出ない。

リィズは寝台の横に立ち、メルティナの胸元を見た。

上がる。

下がる。

また、上がる。

「呼んで」

ハシュカが言った。

リィズは頷いた。

「メルティナ」

メルティナのまつ毛が、少し震えた。

「ここにいるよ」

ハシュカが薬を当てる。

「村にいる。煙の村。ハシュカがいる」

自分で言って、少しだけ変だと思った。

でも、メルティナが戻る場所を探すなら、名前があった方がいい気がした。

「私もいる」

メルティナの呼吸が乱れる。

リィズは声を細くした。

「置いていかない」

ハシュカが短く言った。

「いい。そのまま」

リィズは続けた。

「洞窟、出たよ。山も見た。鳥も鳴いた。メルティナも、少しだけ空を見た」

本当に見たのかは分からない。

でも、そう言いたかった。

ハシュカの手が止まった。

「布」

リィズは渡した。

ハシュカが額の布を替える。

首筋にも冷たい布を当てる。

薬湯をほんの少し、唇に含ませる。

メルティナの喉が動いた。

一度。

それから、もう一度。

ハシュカは小さく息を吐いた。

「飲めた」

リィズはその言葉を聞いて、ようやく自分も息をしていなかったことに気づいた。

「このまま見て」

ハシュカは言った。

「速くなったら、また呼ぶ。遅すぎても呼ぶ」

「遅すぎても」

「うん」

ハシュカは、やさしい顔のまま言った。

「命は、急ぐ時と、止まりたがる時がある」

リィズは頷いた。

砂時計を返す。

砂が落ちる。

また、夜が始まる。

何度も布を替えた。

何度も水を絞った。

何度も呼吸を数えた。

途中で、数字が分からなくなった。

一つ。

二つ。

三つ。

また一つ。

二つ。

砂時計の砂が落ちるたび、リィズはメルティナの胸元を見た。

上がる。

下がる。

また、上がる。

その動きが小さすぎて、何度も見失いそうになった。

そのたびに、リィズは息を止めた。

メルティナの胸がもう一度上がるまで。

夜の深いところで、ハシュカが薬を替えた。

部屋の火が小さくなる。

外の音も少なくなる。

犬も鳴かない。

山羊の鈴も止まった。

風だけが、屋根の上を通っていく。

その静けさの中で、メルティナの呼吸が一度、深く乱れた。

リィズはすぐに立った。

「ハシュカ」

ハシュカは眠っていなかった。

椅子に腰かけたまま、目を閉じていただけだった。

すぐに来た。

「血は?」

「分からない」

「見る」

布を少し開く。

リィズは息を止めた。

ハシュカは傷を見て、首を横に振らなかった。

それだけで、少しだけ救われた。

「少し滲んだ。止める」

ハシュカは薬草を替え、強く押さえた。

メルティナの指が跳ねる。

リィズはその手を握りそうになって、止めた。

ハシュカが目だけで合図した。

「肩」

リィズはメルティナの肩を押さえた。

「強くしすぎない」

「うん」

「でも、逃がさない」

リィズは頷いた。

メルティナの身体が、細く震える。

リィズの腕にも、その震えが伝わる。

「メルティナ」

声が震えた。

「ここ。ここにいて」

ハシュカが押さえている布に、赤が広がる。

少し。

それ以上は広がらない。

ハシュカの指は動かない。

ただ、待っている。

血が止まるのを。

呼吸が戻るのを。

夜が通り過ぎるのを。

リィズも待った。

何も壊せない。

何も撃てない。

何も急がせられない。

ただ、肩を押さえ、呼び、息を見ていた。

やがて、メルティナの震えが少しずつ弱くなった。

呼吸が戻る。

浅いけれど、戻る。

ハシュカは布を替えた。

「よし」

その一言だけだった。

リィズは、そこで初めて涙が出そうになった。

でも、まだ泣かなかった。

泣くのは、あと。

そう言われていた。

砂時計の砂が落ちる。

返す。

また落ちる。

返す。

何度目か分からなくなった頃、窓の外の黒が、少しだけ薄くなった。

夜がまだ残っている。

でも、その奥に別の色が混ざり始めていた。

灰色。

青。

薄い白。

村のどこかで、鶏が鳴いた。

まだ早いと文句を言うような声だった。

ハシュカはメルティナの呼吸を聞いた。

長く。

静かに。

額に触れ、首筋に触れ、傷の布を見た。

それから、リィズを見た。

「越えたよ」

リィズは、何を越えたのか分からなかった。

山なのか。

夜なのか。

死に近い場所なのか。

けれど、メルティナの呼吸は、さっきより少し深かった。

ほんの少し。

それでも、違った。

リィズはメルティナの指先を見た。

朝の布の上で、指がわずかに動いた。

リィズはその指に、そっと触れた。

「メルティナ」

返事はない。

でも、指先は逃げなかった。

ハシュカは窓を少し開けた。

朝の冷たい空気が、部屋に入ってくる。

薬草の匂い。

煙の匂い。

濡れた布の匂い。

その中に、外の土の匂いが混じった。

村の煙が、また細く上がり始めている。

まっすぐではない。

風に曲がりながら、朝の中へほどけていく。

リィズは砂時計を見た。

灰色の砂は、もう落ちきっていた。

今は返さなかった。

メルティナの呼吸を見た。

一つ。

二つ。

三つ。

朝は、洞窟の中にはなかった。

でも、ここにはあった。

窓の外ではなく。

メルティナの胸が、もう一度上がったところに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。