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第十八話「ハシュカ」

水は、冷たかった。

リィズは桶の前で手を洗った。

指の間に、乾いた血が残っている。爪の端にも、赤黒いものが入り込んでいた。水に浸すと、ゆっくりほどけていく。

洗っても、洗っても、まだ残っている気がした。

「そこまででいい」

ハシュカの声がした。

リィズは振り返った。

ハシュカは寝台の横に立ち、メルティナの傷を見ていた。淡い茶色の髪が、肩のあたりで少しほどけている。柔らかい顔をしているのに、手元だけは別の人のように正確だった。

布を外す。

血を拭う。

傷の縁を見る。

熱を見る。

迷わない。

「布」

ハシュカが言った。

リィズは棚から布を取った。

白い布ではなかった。

何度も洗われた、薄い生成りの布だった。端が少しほつれている。けれど、きちんと畳まれていた。

「ここに置いて」

リィズは言われた場所に置いた。

「次、針」

木の箱の中に、細い針が並んでいた。

リィズの手が止まる。

「怖い?」

ハシュカは手元を見たまま聞いた。

リィズは答えなかった。

「怖くていい。落とさなければ」

リィズは針を取った。

小さな金属が、指先で冷たく光る。

ハシュカは薬草を潰した。

石の器の中で、緑と黒の間みたいな色になっていく。苦い匂いが部屋に広がった。煙の匂い、古い木の匂い、濡れた布の匂い。その全部の上に、薬草の匂いが乗る。

メルティナの呼吸が乱れた。

リィズは寝台へ近づいた。

「メルティナ」

返事はない。

ハシュカが短く言った。

「呼び続けて」

「え?」

「戻る場所がある方がいい」

リィズはメルティナの顔を見た。

白い。

唇も、薄い。

でも、息はある。

「メルティナ」

リィズは呼んだ。

「ここにいるよ」

ハシュカが傷に薬草を当てた。

メルティナの身体が、細く跳ねた。

リィズの喉が詰まる。

「押さえて」

ハシュカが言った。

リィズは動けなかった。

「リィズ」

名前を呼ばれて、ようやく手が動いた。

メルティナの肩を押さえる。

強すぎないように。

でも、動かないように。

どちらも難しかった。

「息を見て」

ハシュカは言った。

「この子の顔じゃない。息を見る」

リィズはメルティナの胸元を見た。

浅く上がる。

下がる。

また、上がる。

それだけを追う。

ハシュカは針を取った。

縫う。

リィズは見ていた。

見ていなければならなかった。

針が皮膚を通るたび、メルティナの指がわずかに曲がる。

声は出ない。

出せない。

リィズはその指に触れたかった。

けれど、手を離せなかった。

肩を押さえる。

呼び続ける。

息を見る。

「メルティナ」

浅い息。

「メルティナ」

針。

布。

薬草。

血。

「ここにいる」

ハシュカは何も慰めなかった。

大丈夫とも言わなかった。

助かるとも言わなかった。

ただ、手を動かし続けた。

そのことが、いちばん信じられた。

外で、犬が一度吠えた。

すぐに誰かが静かにさせた。

村の音が、壁の向こうにあった。

鶏の羽音。

薪を割る音。

子どもが泣きかけて、誰かに抱かれる音。

遠くで鈴が鳴る。

りん。

りん。

その全部が、部屋の中へ少しずつ染み込んでくる。

白い施設にはなかった音。

メルティナの痛みを消してはくれない。

でも、ここが死ぬための場所ではないと、音が言っている気がした。

「熱が高い」

ハシュカが言った。

「腹の傷は塞ぐ。脇腹も止める。でも、この熱は今夜が山だね」

「山?」

リィズは聞いた。

ハシュカは少しだけリィズを見た。

「越えられるかどうかの場所」

リィズは唇を結んだ。

山は、さっき下りてきたはずだった。

まだあった。

メルティナの身体の中に。

ハシュカは新しい布を当てた。

「水」

リィズは桶から水を取る。

「違う。飲ませる水。少し」

リィズは慌てて水袋を持った。

ハシュカは首を横に振った。

「慌てない。急ぐのと慌てるのは違う」

リィズの手が止まった。

ハシュカは、ほんの少しだけ表情を緩めた。

「急いで。慌てずに」

リィズは頷いた。

メルティナの唇に、水を少し含ませる。

喉が動く。

一度。

もう一度。

リィズは息を吐いた。

「飲めた」

「うん」

ハシュカは短く答えた。

「それは、いい」

その言葉だけで、リィズの胸が少しだけほどけた。

ハシュカはメルティナの右腕を見た。

包帯とアメジストのリボン。

その下にあるものまでは見えない。

でも、ハシュカの目がそこで止まった。

「この腕は?」

リィズの身体が固まった。

「怪我じゃない」

「そう」

ハシュカは、それ以上聞かなかった。

包帯に触れもしなかった。

ただ、メルティナの顔に視線を戻す。

「今は、こっちが先」

リィズは小さく頷いた。

聞かれなかったことに、ほっとした。

でも、少しだけ怖くもなった。

ハシュカは見ている。

聞かないだけだ。

縫合が終わる頃、部屋の外の光が少し変わっていた。

窓の縁に、夕方の色が入っている。

薄い橙色。

村の煙が、その光の中をゆっくり通っていた。

ハシュカは最後の布を巻いた。

「今夜は眠らせる」

「眠ったら、戻らないかもしれない」

リィズの声が出た。

ハシュカは手を止めなかった。

「眠らなければ、戻る力がなくなる」

リィズは何も言えなかった。

ハシュカは薬湯を小さな器に入れた。

「苦いよ」

そう言って、メルティナの唇に少しずつ含ませる。

メルティナの眉が、かすかに寄った。

リィズは身を乗り出した。

「苦いの、分かる?」

ハシュカが、少し笑った。

「分かるなら、まだ遠くへ行ってない」

その笑い方は柔らかかった。

でも、リィズを安心させるためだけのものではなかった。

薬湯を飲ませ終えると、ハシュカは布で手を拭いた。

「今夜、あなたもここにいる?」

リィズはすぐに頷いた。

「いる」

「なら、仕事がある」

「やる」

ハシュカは棚から小さな砂時計を取った。

中の砂は、灰色だった。

「これが落ちたら、額の布を替える。熱が上がったら私を呼ぶ。呼吸が速くなったら呼ぶ。血が滲んだら呼ぶ」

「全部、呼んでいいの?」

「全部」

ハシュカはリィズを見た。

「遠慮はいらない。命の前で遠慮する人は、あとで泣く」

リィズは砂時計を受け取った。

小さかった。

でも、重く感じた。

ハシュカは寝台の横に椅子を置いた。

「座って」

リィズは座った。

メルティナの手が、すぐ近くにある。

触れたい。

でも、今は布を乱してはいけない。

リィズは指先だけを、そっと添えた。

メルティナの指は熱かった。

けれど、そこにあった。

ハシュカは窓の方へ行き、外を見た。

村の煙が、まだ上がっている。

まっすぐではない。

風にほどけ、曲がり、薄くなり、また濃くなる。

ハシュカは言った。

「ここは境界の村」

リィズは顔を上げた。

「境界山地の、いちばん古い集落のひとつ。ネオストにも、他の国にも、きれいには入っていない」

「きれいには?」

「どこにも、ぴったり収まらないってこと」

ハシュカは振り返った。

「だから、生き残ってきた」

その言葉は、静かだった。

リィズはメルティナを見た。

ぴったり収まらないもの。

ネオストにとっての、感情のバグ。

アークライアにとっての、紫色の王女。

自分のことなのか。

この村のことなのか。

メルティナのことなのか。

まだ分からなかった。

砂時計の砂が、少しずつ落ちている。

リィズはそれを見た。

次に、メルティナの呼吸を見た。

外では、煙が揺れていた。

白くもなく。

まっすぐでもなく。

ただ、そこに暮らしがある形で。

リィズは小さく息を吸った。

今夜は、朝を待つのではない。

砂が落ちるたびに、メルティナをここへ戻す。

そのために、ここにいる。

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