第十七話「山の煙」
リィズは、谷を見ていた。
洞窟の出口から少し下りた岩棚に、メルティナを横たえている。
岩陰は浅く、風を完全には防げない。それでも、洞窟の中よりはましだった。湿った冷たさではなく、山の冷たさだった。
谷の底では、細い川が光っている。
そこまで下りれば、水がある。
けれど、メルティナをそこまで運べるとは思えなかった。
リィズは岩棚の縁に膝をついた。
木々の梢が、下で揺れている。
風が吹くたび、緑の面が少しだけ沈む。鳥が一羽、谷の向こうへ渡った。羽の影が、岩肌を短く走って消えた。
その奥に、煙があった。
最初は、雲の切れ端かと思った。
けれど違う。
森の中から、細く上がっている。
まっすぐではない。
風に曲がりながら、消えそうになり、また少し濃くなる。
焚き火の煙だった。
リィズは息を止めた。
人がいる。
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。
同時に、冷たくもなった。
ネオストかもしれない。
追手かもしれない。
でも、白い施設の煙なら、あんなふうには曲がらない気がした。
もっとまっすぐで、もっと無駄がなくて、もっと静かに空を汚す。
あの煙は違う。
小さく揺れている。
生活の匂いがする。
リィズはメルティナのところへ戻った。
「煙がある」
メルティナのまぶたは閉じたままだった。
「森の奥。人がいるかもしれない」
返事はない。
リィズは布を直し、額に触れた。
熱い。
まだ熱い。
「行くよ」
言ってから、少しだけ声が震えた。
「ここにいたら、治らない」
メルティナの指先が、ほんの少し動いた。
リィズはすぐにその手を取った。
「煙、見える?」
メルティナの目が、薄く開いた。
焦点は定まらない。
それでも、谷の方へ目だけが動いた。
唇がかすかに開く。
「……人の」
リィズは顔を近づけた。
「うん」
「煙……です」
言い終えると、メルティナの目はまた閉じた。
リィズは頷いた。
「分かった」
荷物をまとめる。
水袋。
薬瓶。
布。
杖。
持てるものは少ない。
持たなければならないものは多い。
リィズはメルティナの身体を起こした。
重い。
肩に預けられた重さが、そのまま腕へ沈んでくる。
メルティナの呼吸が乱れる。
リィズは止まった。
待つ。
浅い息が、少しだけ整う。
また動く。
岩棚から下りる道は、道とは呼べなかった。
岩の割れ目に草が生え、木の根が足元を横切っている。土は乾いているところと、湿っているところが混ざっていた。踏むたびに、小石が谷へ落ちる。
ころ。
ころ。
遅れて、下の岩に当たる音がした。
リィズはその音を聞くたび、足を止めた。
落ちたのが石でよかった。
メルティナではなくてよかった。
そう思いながら、また一歩下りる。
森が近づいてくる。
風の匂いが変わる。
岩の匂いに、葉の匂いが混じる。湿った土の匂い。古い枝の匂い。遠くで燃えている薪の匂い。
煙は、木々の間から見えたり、消えたりした。
白く細い。
近づいているのか、遠ざかっているのか分からない。
メルティナの足が、石に触れた。
小さく息が漏れる。
リィズはすぐに止まった。
「ごめん」
謝ってから、首を横に振る。
今は、謝るより支える。
メルティナの身体を抱え直す。
肩の布がずれていないか見る。
腹の布が濡れていないか見る。
呼吸を見る。
進む。
それを繰り返した。
森に入る頃には、リィズの腕は感覚が薄くなっていた。
抱えているのか、支えているのか、自分でも分からなかった。
足も震えている。
でも、煙は近い。
もう、薪の匂いがはっきりした。
その時、木の向こうで何かが鳴った。
小さな鈴の音だった。
りん。
りん。
山羊か、荷につけた鈴か。
リィズは顔を上げた。
木々の間に、低い石垣が見えた。
まっすぐではない。
積み直され、崩れ、また積まれた石垣。
その向こうに、屋根があった。
黒ずんだ木の屋根。
煙突ではなく、屋根の隙間から煙が上がっている。
犬が吠えた。
一度。
それから、もう一度。
リィズは立ち止まった。
村だ。
そう思った瞬間、膝が折れそうになった。
でも、倒れなかった。
メルティナを抱えたまま、倒れるわけにはいかない。
犬の声に、人影が動いた。
石垣の向こうから、誰かがこちらを見る。
一人。
二人。
薪を抱えた男。
布を頭に巻いた女。
小さな子どもが、女の後ろに隠れる。
リィズは声を出そうとした。
喉が乾いていた。
言葉が出ない。
村人たちは、最初リィズの服を見た。
紫のドレス。
破れた裾。
傷だらけの腕。
それから、リィズに支えられているメルティナを見た。
黒いメイド服。
白い顔。
血の滲んだ布。
薪を抱えた男の顔色が変わった。
「ハシュカを呼べ」
誰かが言った。
その名前だけが、リィズの耳に残った。
ハシュカ。
薬草でも、針でも、祈りでもあるような名前。
人が近づいてくる。
リィズはメルティナを離さなかった。
離してしまえば、何かが終わってしまう気がした。
布を頭に巻いた女が、手を伸ばした。
「こっちへ」
リィズは動けなかった。
足が、もう動かない。
女は声を荒げなかった。
もう一度、短く言った。
「中へ」
その言葉で、リィズの身体が少しだけ動いた。
石垣の内側へ入る。
土の道。
曲がった柵。
吊るされた薬草。
水桶。
鶏の羽音。
煙。
犬の低いうなり。
どれも整っていない。
どれも生きていた。
家の戸が開いた。
中から、女が出てきた。
三十代ほどに見えた。
淡い茶色の髪を、ゆるく後ろでまとめている。袖は肘までまくられていた。柔らかい顔をしていたが、リィズではなく、メルティナの傷を見た瞬間、その目だけが静かに変わった。
大きな胸の前で、薬草の匂いがする布袋が揺れていた。
女はすぐに近づいた。
「寝台へ」
声は穏やかだった。
でも、誰かに尋ねる声ではなかった。
村人が動く。
戸が押さえられる。
布が運ばれる。
水桶が置かれる。
リィズはメルティナを抱えたまま、家の中へ入った。
薬草の匂いがした。
煙の匂いもした。
水で濡らした布の匂い。
古い木の匂い。
リィズは寝台の前で、ようやく膝をついた。
腕から、メルティナの重さが少しずつ離れていく。
それが怖かった。
女が、リィズの手に触れた。
「大丈夫。落とさない」
その声が、思っていたより近かった。
リィズは女を見た。
女はリィズではなく、メルティナを見ていた。
「ゆっくり。背中から」
リィズは頷いた。
メルティナを寝台へ預ける。
布の上に、メルティナの身体が沈む。
女はすぐに傷の布へ手をかけた。
指が迷わない。
けれど、乱暴ではなかった。
布を外す。
血を見る。
傷の深さを見る。
呼吸を見る。
額に触れる。
まぶたを指で少し上げる。
リィズは立ったまま、何もできなかった。
女が短く言った。
「ハシュカ」
リィズは息を止めた。
「私の名」
ハシュカは薬草の袋を開いた。
「あなたは?」
リィズは答えようとした。
アークライアの王女。
リィズ。
ネオストの実験体。
三〇八号。
そのどれを言えばいいのか、分からなかった。
寝台の上で、メルティナの呼吸が細く鳴った。
リィズは両手を握った。
「リィズ」
それだけ言った。
ハシュカは一度だけ頷いた。
「リィズ。泣くのは、あと」
薬草の束がほどかれる。
苦い匂いが、部屋に広がった。
「今は、この子を生かす手を貸して」
リィズはハシュカを見た。
王女として名乗ることも、命じることも、思いつかなかった。
ただ、喉の奥から声を出した。
「助けて」
声は、命令にならなかった。
ハシュカはリィズの方を見た。
柔らかい顔だった。
けれど、その目は揺れていなかった。
「助ける」
ハシュカは短く言った。
「だから、手を洗って。水はそこ。布は棚。熱が上がる前に縫うよ」
リィズは頷いた。
足は震えていた。
それでも、水桶の方へ動いた。
戸口で、山の風が鳴っている。
外では、煙がまだ細く上がっていた。




