第十六話「境界山地」
低い風の音を、リィズは覚えていた。
水場へ向かう道ではない。
細い裂け目でもない。
もっと奥。
洞窟の底を、ゆっくり空気が抜けていくような音。
リィズはメルティナの額の布を替えた。
熱はまだある。
けれど、さっきより呼吸は乱れていない。
傷の布も確かめる。
血は滲んでいる。
流れてはいない。
今なら、少しだけ場所を変えられるかもしれない。
動かさなければ、このまま洞窟の中にいることになる。
動かせば、傷が開くかもしれない。
どちらも怖かった。
リィズはメルティナの手に触れた。
「出口、行くよ」
返事はなかった。
けれど、指先がほんの少しだけ動いた。
リィズはそれを、返事にした。
メルティナの身体を起こす。
そのわずかな動きに、彼女の呼吸が浅くなった。
リィズはすぐに止まった。
「ごめん」
メルティナのまぶたが少し震える。
リィズは唇を噛み、メルティナの肩と背に布を回した。
抱えるというより、崩れないように支える。
腕の中の身体は、思ったより重かった。
以前のメルティナは、同じ身長でも、自分で立つ重さを持っていた。静かに姿勢を保ち、支えられることを拒むような芯があった。
今は、その芯が抜けている。
肩に預けられた重さが、そのままリィズの腕へ沈んできた。
リィズはその重さを、考えないようにした。
「ゆっくり行く」
声に出してから、歩き始めた。
洞窟の奥へ。
水の音が遠ざかる。
青白い苔の光も薄くなる。
メルティナの足は、ほとんど床を踏んでいなかった。時々、靴先が石に触れる。そのたびに、リィズは止まり、呼吸を聞いた。
一つ。
二つ。
三つ。
まだある。
また進む。
低い風の音が近づいてきた。
岩の奥を抜ける、暗い息のような音。
リィズは、前に覚えた目印を探した。
鳥のくちばしみたいに尖った石。
その下の、白い筋。
足元の、丸いくぼみが三つ。
あった。
リィズはそこに膝をついた。
低い裂け目が、暗く開いている。
その奥で、淡い光が揺れていた。
リィズ一人なら、すぐに通れただろう。
でも、メルティナがいる。
傷がある。
布がずれるだけでも、血が出るかもしれない。
リィズは杖を横に置いた。
まず、自分が裂け目に身体を入れる。
肩が岩に擦れた。
紫のドレスが引っかかる。
布の裂ける小さな音がした。
それでも進んだ。
奥には、人ひとりが膝をつけるくらいの空間があった。
リィズは振り返り、メルティナの身体を少しずつ引き寄せた。
「痛かったら」
言いかけて、やめた。
言えない。
だから、リィズが見るしかない。
眉が動くか。
呼吸が速くなるか。
指が震えるか。
メルティナの身体が岩に触れないよう、リィズは自分の腕を間に入れた。
岩肌が腕を擦る。
痛い。
でも、メルティナの傷に触れるよりはいい。
少しずつ。
本当に少しずつ。
裂け目を抜けた。
リィズはそこで一度、動きを止めた。
メルティナの呼吸を聞く。
浅い。
けれど、続いている。
「あと少し」
自分に言った。
奥の空間は、思っていたより広かった。
天井は低いが、横へ長く続いている。壁には、古い溝がいくつも走っていた。水ではない。光でもない。何かを流していた跡のようだった。
その先に、外の光が見えた。
白い施設の光ではなかった。
洞窟の苔の光でもない。
冷たい、朝の光だった。
リィズはメルティナを支え直し、最後の岩を越えた。
最初に頬へ当たったのは、風だった。
湿った洞窟の空気ではない。
草と岩と、遠くの水を含んだ風。
リィズは目を細めた。
空があった。
洞窟の出口は、山の高い場所に開いていた。
すぐ下には、深い谷が落ちている。
谷底には細い川が光り、木々の梢が風に揺れていた。森は一色ではなかった。濃い緑。乾いた緑。灰色がかった葉。岩に張りついた白い苔。そのすべてが、朝の光の中で少しずつ違う色を持っていた。
遠くには、白い線のような山並みがある。
さらにその向こうに、うすく曇った空。
ネオストの白ではなかった。
汚れも、揺れも、影もある白だった。
リィズは息を吸った。
空気が胸に入る。
痛いくらい冷たい。
「外……」
声が、風にほどけた。
メルティナはリィズの肩に体重を預けたまま、ほとんど目を開けていなかった。
それでも、赤い瞳が少しだけ動いた。
谷を見たのか。
空を見たのか。
リィズには分からなかった。
「ここ、どこ?」
メルティナの唇が、かすかに動いた。
声は遅れて出た。
「……境界、山地」
「境界?」
「父が……そう、呼んでいました」
言い終えたあと、メルティナの呼吸が浅く乱れた。
リィズは、すぐにそれ以上聞くのをやめた。
境界山地。
その名前だけが、風の中に残った。
ネオストの中心ではない。
けれど、遠く離れた場所でもない。
白い国の匂いが薄れ、古い山と谷の匂いが戻ってくる場所。
リィズはそう感じた。
洞窟の出口のすぐ下に、細い岩棚があった。
人が二人座れるくらいの幅しかない。
その先は、急な斜面になっている。
木の根が岩にしがみつき、低い草が風に倒れていた。
リィズはメルティナを岩陰まで運んだ。
運んだ、というより、重さに引かれながら少しずつ移した。
肩。
背。
膝。
布。
傷。
一つずつ確かめる。
メルティナを岩に預けた時、リィズの腕は震えていた。
メルティナの顔は、洞窟の中で見るよりさらに白く見えた。
「メルティナ」
返事はない。
リィズはすぐに額へ触れた。
熱い。
でも、呼吸はある。
リィズは荷物から布を出し、風が直接当たらないようにメルティナの肩へかけた。
谷から風が吹き上げる。
メルティナの髪が、ほんの少し乱れた。
完璧にまとめられていたはずの髪から、細い灰色の毛束が頬にかかった。
リィズはそれをそっと避けた。
「出たよ」
小さく言った。
「洞窟、出たよ」
メルティナのまぶたが、少しだけ震えた。
リィズは谷を見た。
下りなければならない。
水も探さなければならない。
休む場所もいる。
追手が来るかもしれない。
ネオストがこの遺構を知っているかもしれない。
考えることは、いくらでもあった。
でも、今はメルティナが息をしている。
外の風の中で。
洞窟の湿った暗さではなく、空の下で。
リィズはメルティナの横に座った。
杖を膝に置く。
谷の方を見る。
遠くで鳥が鳴いた。
一度だけ。
その声は、白い施設にも、洞窟にもなかった。
リィズはその音を聞いた。
メルティナの呼吸を聞いた。
谷を渡る風を聞いた。
三つの音が、別々にそこにあった。
世界は、まだ整えられていない。
そのことが、今は少しだけ頼もしかった。
リィズはメルティナの手を握った。
「ここで休む」
返事はなかった。
でも、指先がほんの少しだけ返ってきた。
リィズはその小さな力を逃がさないように、静かに握り返した。




