↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/35

第十五話「父の印」

洞窟には、音が残る。

水滴の音。

布を絞る音。

リィズの靴底が、湿った石を踏む音。

そして、メルティナの呼吸。

そのどれもが小さかった。

けれど、リィズはもう、その小ささを聞き逃さなくなっていた。

水場までの道を、三度往復した。

最初は迷った。

二度目は、岩の形を覚えた。

三度目は、青白い苔の濃さで曲がる場所が分かった。

右側の壁に、縦に割れた岩がある。

そこを過ぎると、足元が少し濡れる。

水の音が近くなる。

そこから七歩。

壁の裂け目から、水が落ちている。

リィズは革袋を置き、布を洗った。

冷たい水に指を入れると、爪の奥まで痛くなる。

赤い色が、布からほどけて流れていく。

その色は、水の中で少し薄まり、岩のくぼみに溜まってから、細い筋になって奥へ消えた。

リィズはそれを最後まで見た。

目をそらさなかった。

水場のそばには、あの金属片があった。

錆びた細い板。

三本の斜め線。

小さな丸。

短い横線。

リィズは、今日も触らなかった。

ただ、見る。

見るだけにした。

メルティナに聞かなければならない。

けれど、今のメルティナに長く話させるわけにはいかない。

リィズは濡れた布を絞った。

強く絞ると、手首が痛んだ。

水が岩に落ちる。

ぽた。

ぽた。

洞窟の水音に、自分の作った音が混じる。

その一瞬だけ、洞窟が少し広くなった気がした。

水を汲み、布を抱えて戻る。

通路の途中で、リィズは立ち止まった。

出口かもしれない裂け目から、また風が来ていた。

細い風だった。

冷たい。

けれど、洞窟の中の湿った空気とは違う。

外の匂いが、ほんの少し混じっている。

草の匂い。

石の上で乾いた日差しの匂い。

リィズは裂け目を見た。

奥に光がある。

前よりも、少しだけはっきり見えた。

でも、そこへ行くためには、身体を横にしなければならない。

メルティナは通れない。

抱えても無理だ。

支えても無理だ。

今は、まだ無理だ。

リィズは水袋を持ち直した。

「まだ」

誰に向けた言葉でもなかった。

でも、声に出すと、少しだけ足が動いた。

戻ると、メルティナは目を閉じていた。

同じ姿勢だった。

黒いメイド服の腹と脇腹には、厚く布が巻かれている。肩の下にも、別の布が当てられていた。

洞窟の青白い光の中で、その顔は白かった。

肌が白いのではない。

血の気が遠い。

リィズは膝をついた。

「戻ったよ」

返事はない。

リィズは濡らした布を、メルティナの額に置いた。

まぶたが、ほんの少し震える。

「水、持ってきた」

メルティナの唇に、少しずつ水を含ませる。

喉が動いた。

一度。

リィズは、ようやく息を吐いた。

「飲めた」

小さく言って、布を替える。

古い布を外すと、傷の周りの肌が冷えていた。

けれど、深いところには熱がある。

リィズには、それが良い熱なのか、悪い熱なのか分からなかった。

「メルティナ」

呼ぶ。

赤い瞳が、薄く開いた。

焦点はすぐには合わない。

リィズは待った。

今は、急かさない。

メルティナの目が、少しずつリィズを見つける。

「聞きたいことがある」

メルティナの唇が動いた。

声は出なかった。

リィズは首を横に振った。

「喋れたらでいい」

一度、間を置く。

水滴の音が落ちる。

ぽたり。

「水場のそばに、金属の板があった。錆びてる。細長くて、傷がある」

メルティナの目が、ほんの少しだけ動いた。

「三本の斜め線。その下に、小さな丸。横に短い線」

リィズは言いながら、指先で宙に形を描いた。

三本。

丸。

短い線。

メルティナの呼吸が、少しだけ乱れた。

リィズはすぐに手を止めた。

「ごめん。今じゃなくていい」

メルティナの指が動いた。

弱く。

けれど、止めるためではなかった。

言え、というように見えた。

リィズは声を落とした。

「ダガーの鞘にあった傷と、似てた」

メルティナは目を閉じた。

長い沈黙だった。

眠ったのかと思った。

けれど、唇が少しだけ開いた。

「……父の」

声は、ほとんど息だった。

リィズは身を寄せた。

「うん」

「部隊の……印、です」

それだけ言うと、メルティナの眉がかすかに寄った。

痛みか。

記憶か。

その両方かもしれなかった。

リィズはそれ以上、聞かなかった。

父の部隊。

傭兵。

この洞窟。

絶対に使うなと言われた魔法陣。

ばらばらだったものが、少しだけ線になった。

でも、その線を今、引ききってはいけない。

メルティナは息をするだけで、身体の内側をこすられているように見えた。

「触ってない」

リィズは言った。

メルティナの目が、また少しだけ開く。

「見るだけにした」

メルティナの指が、リィズの袖に触れた。

弱い。

でも、確かに触れた。

リィズはその指先に、自分の指をそっと添えた。

「置いてきた」

メルティナは、かすかに頷いたように見えた。

違うかもしれない。

でも、リィズはそう受け取った。

「ここにあるべきもの?」

小さく聞いた。

メルティナは答えなかった。

答えられなかった。

リィズはそれでいいと思った。

「分かった。持っていかない」

メルティナの目が閉じる。

リィズは布の位置を直した。

また、呼吸を数えた。

一つ。

二つ。

三つ。

七つまで数えたところで、分からなくなった。

もう一度、一つから数える。

洞窟の奥で、水が落ちる。

ぽたり。

ぽたり。

その音の間に、メルティナの呼吸がある。

リィズはその隙間を聞いていた。

夜か昼か分からない時間が、何度か過ぎた。

リィズは水場へ行き、戻る。

布を洗い、戻る。

出口の裂け目を見る。

戻る。

金属片を見る。

触らずに戻る。

その繰り返しの中で、洞窟の形が少しずつ身体に入ってきた。

どの岩が滑るか。

どの苔が濡れているか。

どの曲がり角で風が消えるか。

どの場所で、音が少しだけ遠くなるか。

メルティナなら、もっと早く覚えただろう。

そう思うたび、リィズは少しだけ唇を噛んだ。

でも、今は比べても仕方がない。

メルティナは動けない。

なら、自分が覚えるしかない。

ある時、水場から戻る途中で、リィズは足を止めた。

裂け目の向こうの光が、前より薄くなっていた。

外が夜になったのかもしれない。

洞窟には朝がない。

でも、外にはある。

朝も、昼も、夜も。

それが遠い。

ほんの少しの岩の向こうにあるのに、今は届かない。

リィズは裂け目に手を触れそうになった。

触らなかった。

代わりに、岩肌に耳を近づけた。

風の音がした。

細い。

笛のような音だった。

息を吹き込まれた穴のように、洞窟の隙間が鳴っている。

リィズはしばらく聞いていた。

その音を覚える。

戻る時の目印にするために。

いつかメルティナを連れて出るために。

戻ると、メルティナの呼吸が少し速かった。

リィズは水袋を置き、急いで膝をつく。

「メルティナ」

返事はない。

額に触れる。

熱い。

さっきより熱い。

リィズの胸が冷えた。

「どうすればいい」

声が漏れた。

洞窟は答えない。

リィズは荷物を探る。

薬瓶。

布。

針。

細い糸。

何に使うのか分からないものもある。

メルティナなら分かる。

でも、メルティナは目を開けない。

リィズは薬瓶を手に取った。

前に使ったものと同じ匂いがする。

苦い草の匂い。

少しだけ水で薄める。

薄めすぎたかもしれない。

濃すぎるかもしれない。

分からない。

それでも、何もしないよりはよかった。

リィズは布に薬を含ませ、メルティナの傷の周りに当てた。

メルティナの身体が、細く震えた。

「ごめん」

また言ってしまった。

言ってから、リィズは歯を食いしばった。

謝る声より、手を動かす。

布を押さえる。

額を冷やす。

唇を湿らせる。

呼吸を見る。

待つ。

水滴が落ちる。

ぽたり。

ぽたり。

ぽたり。

長い時間のあと、メルティナの呼吸が少しだけ落ち着いた。

リィズはその場に座り込んだ。

手が震えていた。

水でも、寒さでもない。

怖かった。

メルティナが、このまま息をしなくなることが。

その怖さは、魔物よりも、セノアよりも、白い施設よりも、ずっと静かだった。

静かすぎて、逃げる場所がなかった。

リィズはメルティナの手を取った。

「まだだよ」

小さく言った。

「まだ、出てない」

メルティナの指は動かない。

「外、見せるから」

返事はない。

「さっきの裂け目じゃない出口を探す。メルティナも通れるところ。ちゃんと見つける」

洞窟の奥で、風の音がした。

リィズは顔を上げた。

水場とは違う方向。

裂け目とも違う。

もっと奥。

音が、抜けている場所がある。

リィズは立ち上がりかけて、やめた。

今は行かない。

メルティナの呼吸が、まだ不安定だった。

行くなら、次に水を替えてから。

額の熱が少し下がってから。

その順番を、リィズは自分で決めた。

少し前なら、すぐに走り出していたかもしれない。

光が見えたら、そちらへ行った。

音がしたら、確かめた。

でも今は、動かなかった。

リィズはメルティナの横に座り直した。

濡れた布を額に置き直す。

水袋の口を閉める。

使った薬瓶を横へ倒れないように置く。

小さなことばかりだった。

けれど、その小さなことを間違えれば、メルティナの朝が消える。

リィズは膝を抱えなかった。

杖にもたれなかった。

ただ、メルティナの呼吸を見ていた。

ぽたり。

水が落ちる。

そのあとに、浅い息が続く。

また、水が落ちる。

また、息が続く。

洞窟には朝がない。

それでも、リィズは待った。

次の朝ではなく。

次の呼吸を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。