第十五話「父の印」
洞窟には、音が残る。
水滴の音。
布を絞る音。
リィズの靴底が、湿った石を踏む音。
そして、メルティナの呼吸。
そのどれもが小さかった。
けれど、リィズはもう、その小ささを聞き逃さなくなっていた。
水場までの道を、三度往復した。
最初は迷った。
二度目は、岩の形を覚えた。
三度目は、青白い苔の濃さで曲がる場所が分かった。
右側の壁に、縦に割れた岩がある。
そこを過ぎると、足元が少し濡れる。
水の音が近くなる。
そこから七歩。
壁の裂け目から、水が落ちている。
リィズは革袋を置き、布を洗った。
冷たい水に指を入れると、爪の奥まで痛くなる。
赤い色が、布からほどけて流れていく。
その色は、水の中で少し薄まり、岩のくぼみに溜まってから、細い筋になって奥へ消えた。
リィズはそれを最後まで見た。
目をそらさなかった。
水場のそばには、あの金属片があった。
錆びた細い板。
三本の斜め線。
小さな丸。
短い横線。
リィズは、今日も触らなかった。
ただ、見る。
見るだけにした。
メルティナに聞かなければならない。
けれど、今のメルティナに長く話させるわけにはいかない。
リィズは濡れた布を絞った。
強く絞ると、手首が痛んだ。
水が岩に落ちる。
ぽた。
ぽた。
洞窟の水音に、自分の作った音が混じる。
その一瞬だけ、洞窟が少し広くなった気がした。
水を汲み、布を抱えて戻る。
通路の途中で、リィズは立ち止まった。
出口かもしれない裂け目から、また風が来ていた。
細い風だった。
冷たい。
けれど、洞窟の中の湿った空気とは違う。
外の匂いが、ほんの少し混じっている。
草の匂い。
石の上で乾いた日差しの匂い。
リィズは裂け目を見た。
奥に光がある。
前よりも、少しだけはっきり見えた。
でも、そこへ行くためには、身体を横にしなければならない。
メルティナは通れない。
抱えても無理だ。
支えても無理だ。
今は、まだ無理だ。
リィズは水袋を持ち直した。
「まだ」
誰に向けた言葉でもなかった。
でも、声に出すと、少しだけ足が動いた。
戻ると、メルティナは目を閉じていた。
同じ姿勢だった。
黒いメイド服の腹と脇腹には、厚く布が巻かれている。肩の下にも、別の布が当てられていた。
洞窟の青白い光の中で、その顔は白かった。
肌が白いのではない。
血の気が遠い。
リィズは膝をついた。
「戻ったよ」
返事はない。
リィズは濡らした布を、メルティナの額に置いた。
まぶたが、ほんの少し震える。
「水、持ってきた」
メルティナの唇に、少しずつ水を含ませる。
喉が動いた。
一度。
リィズは、ようやく息を吐いた。
「飲めた」
小さく言って、布を替える。
古い布を外すと、傷の周りの肌が冷えていた。
けれど、深いところには熱がある。
リィズには、それが良い熱なのか、悪い熱なのか分からなかった。
「メルティナ」
呼ぶ。
赤い瞳が、薄く開いた。
焦点はすぐには合わない。
リィズは待った。
今は、急かさない。
メルティナの目が、少しずつリィズを見つける。
「聞きたいことがある」
メルティナの唇が動いた。
声は出なかった。
リィズは首を横に振った。
「喋れたらでいい」
一度、間を置く。
水滴の音が落ちる。
ぽたり。
「水場のそばに、金属の板があった。錆びてる。細長くて、傷がある」
メルティナの目が、ほんの少しだけ動いた。
「三本の斜め線。その下に、小さな丸。横に短い線」
リィズは言いながら、指先で宙に形を描いた。
三本。
丸。
短い線。
メルティナの呼吸が、少しだけ乱れた。
リィズはすぐに手を止めた。
「ごめん。今じゃなくていい」
メルティナの指が動いた。
弱く。
けれど、止めるためではなかった。
言え、というように見えた。
リィズは声を落とした。
「ダガーの鞘にあった傷と、似てた」
メルティナは目を閉じた。
長い沈黙だった。
眠ったのかと思った。
けれど、唇が少しだけ開いた。
「……父の」
声は、ほとんど息だった。
リィズは身を寄せた。
「うん」
「部隊の……印、です」
それだけ言うと、メルティナの眉がかすかに寄った。
痛みか。
記憶か。
その両方かもしれなかった。
リィズはそれ以上、聞かなかった。
父の部隊。
傭兵。
この洞窟。
絶対に使うなと言われた魔法陣。
ばらばらだったものが、少しだけ線になった。
でも、その線を今、引ききってはいけない。
メルティナは息をするだけで、身体の内側をこすられているように見えた。
「触ってない」
リィズは言った。
メルティナの目が、また少しだけ開く。
「見るだけにした」
メルティナの指が、リィズの袖に触れた。
弱い。
でも、確かに触れた。
リィズはその指先に、自分の指をそっと添えた。
「置いてきた」
メルティナは、かすかに頷いたように見えた。
違うかもしれない。
でも、リィズはそう受け取った。
「ここにあるべきもの?」
小さく聞いた。
メルティナは答えなかった。
答えられなかった。
リィズはそれでいいと思った。
「分かった。持っていかない」
メルティナの目が閉じる。
リィズは布の位置を直した。
また、呼吸を数えた。
一つ。
二つ。
三つ。
七つまで数えたところで、分からなくなった。
もう一度、一つから数える。
洞窟の奥で、水が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
その音の間に、メルティナの呼吸がある。
リィズはその隙間を聞いていた。
夜か昼か分からない時間が、何度か過ぎた。
リィズは水場へ行き、戻る。
布を洗い、戻る。
出口の裂け目を見る。
戻る。
金属片を見る。
触らずに戻る。
その繰り返しの中で、洞窟の形が少しずつ身体に入ってきた。
どの岩が滑るか。
どの苔が濡れているか。
どの曲がり角で風が消えるか。
どの場所で、音が少しだけ遠くなるか。
メルティナなら、もっと早く覚えただろう。
そう思うたび、リィズは少しだけ唇を噛んだ。
でも、今は比べても仕方がない。
メルティナは動けない。
なら、自分が覚えるしかない。
ある時、水場から戻る途中で、リィズは足を止めた。
裂け目の向こうの光が、前より薄くなっていた。
外が夜になったのかもしれない。
洞窟には朝がない。
でも、外にはある。
朝も、昼も、夜も。
それが遠い。
ほんの少しの岩の向こうにあるのに、今は届かない。
リィズは裂け目に手を触れそうになった。
触らなかった。
代わりに、岩肌に耳を近づけた。
風の音がした。
細い。
笛のような音だった。
息を吹き込まれた穴のように、洞窟の隙間が鳴っている。
リィズはしばらく聞いていた。
その音を覚える。
戻る時の目印にするために。
いつかメルティナを連れて出るために。
戻ると、メルティナの呼吸が少し速かった。
リィズは水袋を置き、急いで膝をつく。
「メルティナ」
返事はない。
額に触れる。
熱い。
さっきより熱い。
リィズの胸が冷えた。
「どうすればいい」
声が漏れた。
洞窟は答えない。
リィズは荷物を探る。
薬瓶。
布。
針。
細い糸。
何に使うのか分からないものもある。
メルティナなら分かる。
でも、メルティナは目を開けない。
リィズは薬瓶を手に取った。
前に使ったものと同じ匂いがする。
苦い草の匂い。
少しだけ水で薄める。
薄めすぎたかもしれない。
濃すぎるかもしれない。
分からない。
それでも、何もしないよりはよかった。
リィズは布に薬を含ませ、メルティナの傷の周りに当てた。
メルティナの身体が、細く震えた。
「ごめん」
また言ってしまった。
言ってから、リィズは歯を食いしばった。
謝る声より、手を動かす。
布を押さえる。
額を冷やす。
唇を湿らせる。
呼吸を見る。
待つ。
水滴が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
長い時間のあと、メルティナの呼吸が少しだけ落ち着いた。
リィズはその場に座り込んだ。
手が震えていた。
水でも、寒さでもない。
怖かった。
メルティナが、このまま息をしなくなることが。
その怖さは、魔物よりも、セノアよりも、白い施設よりも、ずっと静かだった。
静かすぎて、逃げる場所がなかった。
リィズはメルティナの手を取った。
「まだだよ」
小さく言った。
「まだ、出てない」
メルティナの指は動かない。
「外、見せるから」
返事はない。
「さっきの裂け目じゃない出口を探す。メルティナも通れるところ。ちゃんと見つける」
洞窟の奥で、風の音がした。
リィズは顔を上げた。
水場とは違う方向。
裂け目とも違う。
もっと奥。
音が、抜けている場所がある。
リィズは立ち上がりかけて、やめた。
今は行かない。
メルティナの呼吸が、まだ不安定だった。
行くなら、次に水を替えてから。
額の熱が少し下がってから。
その順番を、リィズは自分で決めた。
少し前なら、すぐに走り出していたかもしれない。
光が見えたら、そちらへ行った。
音がしたら、確かめた。
でも今は、動かなかった。
リィズはメルティナの横に座り直した。
濡れた布を額に置き直す。
水袋の口を閉める。
使った薬瓶を横へ倒れないように置く。
小さなことばかりだった。
けれど、その小さなことを間違えれば、メルティナの朝が消える。
リィズは膝を抱えなかった。
杖にもたれなかった。
ただ、メルティナの呼吸を見ていた。
ぽたり。
水が落ちる。
そのあとに、浅い息が続く。
また、水が落ちる。
また、息が続く。
洞窟には朝がない。
それでも、リィズは待った。
次の朝ではなく。
次の呼吸を。




