第十四話「一割の朝」
洞窟には朝がなかった。
それでも、時間は過ぎていた。
リィズはそれを、空になった薬瓶の数と、赤くなった布の枚数で知った。
メルティナは眠っている。
眠っている、ということにしていた。
呼吸はある。
熱もある。
指先は、ときどきほんの少し動く。
けれど、目はほとんど開かない。
リィズは布を替えた。
メルティナに教えられた通り、傷の少し上を押さえる。強すぎるのか、弱すぎるのか、毎回分からなかった。
布の下で、メルティナの身体がかすかに震えた。
「痛い?」
返事はない。
リィズは唇を噛んだ。
言えないのだ。
痛くても。
寒くても。
苦しくても。
今のメルティナには、言葉にする力がほとんど残っていない。
「ごめん」
小さく言ってから、リィズは首を横に振った。
謝っても、血は止まらない。
水が足りなくなっていた。
薬を薄めるにも、布を洗うにも、メルティナの唇を湿らせるにも、水がいる。
洞窟の奥で、水滴の音はしていた。
ぽたり。
ぽたり。
けれど、それがどこから落ちているのかは分からない。
リィズはメルティナの手を、そっと布の上に戻した。
「行ってくる」
返事はない。
少し待った。
「すぐ戻る」
それでも、返事はなかった。
リィズは杖を持った。
右腕は熱を持っていた。
包帯の下で、黒い聖痕がゆっくり脈打っている気がした。
でも、魔法は使わない。
使ったら、また何かが進む。
何かを壊す。
今、壊していいものはなかった。
「水を探すだけ」
自分に言った。
「壊さない。撃たない。触らない。迷わない」
少し歩いてから、言い直した。
「……迷わないようにする」
洞窟の奥は暗かった。
青白い苔が、岩の表面に薄く光っている。足元には古い魔法陣の線が続いていた。転送のための円だけではない。洞窟そのものが、何か大きな仕組みの中にあるようだった。
壁には、細い溝が彫られていた。
まっすぐではない。
曲がり、交わり、途切れ、また始まる。文字にも見えるし、水路にも見える。
指でなぞりたくなった。
リィズは手を引っ込めた。
「触らない」
小さく言った。
知らないものには触らない。
メルティナなら、そう言う。
少し進むと、足元が濡れた。
水の音が近くなる。
ぽたり。
ぽたり。
その音を追って、リィズは岩の壁沿いに歩いた。
洞窟は奥で広がっていた。
天井は高い。
ところどころで、細い光が落ちている。外の光ではなかった。岩の奥から染み出すような、淡い光だった。青でも白でもない。少しだけ緑を含んでいる。
水は、壁の割れ目から落ちていた。
細い流れだった。
けれど、ちゃんと流れている。
リィズは息を吐いた。
「水、あった」
声は洞窟の中で小さく返った。
革袋を出し、水を受ける。
手が震えて、最初はこぼした。
「落ち着け」
自分に言う。
革袋を両手で押さえ、もう一度水を受ける。
今度は入った。
少しずつ。
こぼさないように。
革袋が重くなるまで、リィズは動かなかった。
布も洗った。
冷たい水だった。指先が痛くなるほど冷たい。
赤くなった布を水に浸すと、血がゆっくりほどけていった。
その色を見て、リィズは目をそらした。
そらしてから、また見た。
見なければいけないと思った。
水場のそばに、古い金属片が落ちていた。
錆びている。
でも、完全には崩れていない。細長い板のような形で、表面に浅い傷がある。
リィズは近づいた。
触らない。
見るだけ。
傷は、文字ではなかった。
三本の斜め線。
その下に、小さな丸。
さらに横へ、短い線が一本。
どこかで見た気がした。
メルティナの荷物にあったダガーの鞘。
そこに、似た傷があった。
「……メルティナのお父さん?」
声が洞窟に吸い込まれた。
確かめようはない。
でも、そう思った。
ここへ来たことがある。
メルティナはそう言っていた。
父と旅した時に。
絶対に使うなと言われた場所。
リィズは金属片を見た。
触らなかった。
代わりに、その形を目に焼きつけた。
戻ったら、聞く。
メルティナが目を開けたら。
言葉を返せるようになったら。
水を持って戻ろうとして、リィズは足を止めた。
風が来た。
洞窟の奥からではない。
横から。
右手の岩壁の奥に、細い裂け目があった。
人が一人、身体を横にすれば通れそうな幅。
そこから、薄い風が入っている。
リィズは裂け目を覗いた。
暗い。
でも、奥の方に光がある。
遠い。
出口かもしれない。
声を出しかけて、やめた。
今は叫ばない。
メルティナが眠っている。
リィズは裂け目に肩を入れてみた。
狭い。
ドレスの布が岩に引っかかる。杖も邪魔だった。なんとか入れそうではある。けれど、メルティナを抱えて通れる広さではなかった。
リィズは唇を噛んだ。
出口はある。
たぶん。
でも、今は使えない。
リィズ一人なら出られる。
メルティナは無理だ。
そのことが分かるだけで、胸の奥が冷えた。
「一人では出ない」
はっきり言った。
洞窟に、自分の声が返ってきた。
出ない。
出ない。
リィズは裂け目から身体を戻した。
水袋を持ち直す。
戻らなければ。
メルティナのところへ。
帰り道は、来た時より長く感じた。
同じ洞窟のはずなのに、岩の形が違って見える。青白い苔の光も、さっきより少ない気がする。
リィズは足を止めた。
右にも、左にも、似たような岩の通路がある。
「……どっち?」
小さく言う。
メルティナなら、足元を見るのだろう。
草の倒れ方。
土の硬さ。
影の遅れ。
でも、ここには草がない。
リィズは息を吸った。
水の音。
自分の足音。
洞窟の奥の風。
それから。
メルティナの呼吸。
聞こえるはずがない。
そんな遠くから、聞こえるはずがない。
でも、リィズは耳を澄ませた。
水滴の音の向こうに、何か細い音がある気がした。
本当に音なのか、自分の願いなのか、分からない。
それでも、そちらへ進んだ。
しばらく歩くと、見覚えのある魔法陣の線が見えた。
血の跡。
自分の足跡。
メルティナのいる場所。
リィズは走りかけて、すぐに止まった。
水がこぼれる。
「走らない」
また自分に言う。
「こぼすな」
歩いた。
できるだけ速く。
でも、こぼさないように。
メルティナは、同じ場所にいた。
動いていない。
リィズは水袋を置き、すぐに膝をついた。
「戻ったよ」
返事はない。
「水、見つけた」
返事はない。
「出口も、たぶん見つけた。でも狭い。メルティナは通れない。だから、まだ出ない」
言いながら、布を替える。
洗った布は冷たい。
メルティナの肌に触れると、まぶたがほんの少しだけ震えた。
リィズは息を止めた。
「冷たい?」
返事はない。
でも、指先が少しだけ動いた。
リィズはその指を見た。
「冷たいんだね」
そういうことにした。
水を少しだけ唇に含ませる。
こぼさないように。
少しずつ。
メルティナの喉が、かすかに動いた。
リィズは泣きそうになった。
泣かなかった。
「飲めた」
小さく言った。
「メルティナ、飲めたよ」
その時、メルティナの目がほんの少し開いた。
赤い瞳が、薄くリィズを見た。
焦点は合っていない。
それでも、そこにリィズが映っていた。
「……お嬢、様」
「いる」
リィズはすぐに答えた。
「ここにいる」
メルティナの唇が、わずかに動いた。
声にはならなかった。
リィズは顔を近づける。
「喋らなくていい」
メルティナの目が少しだけ動いた。
水袋。
それから、洞窟の奥。
リィズは気づいた。
「水、見つけた。出口も、たぶん。でも、まだ出ない」
メルティナは瞬きをした。
一度だけ。
それが、返事のようだった。
「正しい?」
リィズは聞いた。
メルティナはすぐには動かなかった。
ほんの少しだけ間があって、指先がリィズの袖を弱く掴んだ。
リィズはうつむいた。
涙が一滴落ちた。
メルティナの傷には落とさないように、横へ。
「分かった」
リィズは新しい布を押さえた。
「まだ出ない。もう少し、ここにいる」
メルティナの目が閉じていく。
リィズは慌てなかった。
呼吸はある。
浅い。
細い。
でも、ある。
洞窟の奥で、水滴が落ちた。
ぽたり。
ぽたり。
リィズはその音に合わせるように、メルティナの呼吸を数えた。
一つ。
二つ。
三つ。
途中で分からなくなって、また最初から数えた。
その日から、リィズは洞窟を少しずつ覚えた。
水場までの道。
出口の裂け目。
滑る岩。
青白い苔が濃い場所。
メルティナの父が残したかもしれない印。
何度も往復した。
一度で運べる水は少なかった。
布を洗うのも下手だった。
薬の量も毎回迷った。
それでも、少しずつできるようになった。
メルティナはほとんど眠っていた。
目を開けても、言葉はほとんど出ない。
リィズは言葉を待たなくなった。
まぶたの動き。
指先の震え。
呼吸の速さ。
唇の乾き。
リィズは、その小さな変化を一つずつ見るようになった。
三度目に水を持って戻った時、リィズは水場で濡らした布をメルティナの額に置いた。
メルティナの眉が、ほんの少しだけ緩んだ。
「冷たい?」
返事はない。
でも、苦しそうな呼吸が少しだけ浅くなくなった。
リィズはそれを信じた。
火は作らなかった。
煙がどこへ流れるか分からない。
入口の裂け目は狭い。
風の向きも変わる。
リィズは火を見たかった。
明かりがほしかった。
あたたかいものがほしかった。
でも、作らなかった。
洞窟には朝がない。
それでも、リィズは思った。
たぶん、朝はこういうものなのだと。
何かが明るくなることではなく。
まだ生きていると、何度も確かめることなのだと。




