第十三話「転送の洞窟」
光の中で、リィズは落ちていた。
上も下も分からない。
メルティナを抱きしめている感覚だけがあった。
腕の中の身体は熱い。
濡れている。
血だと分かっているのに、見えなかった。灰色の光と紫の光が混ざり、視界の全部を薄く塗りつぶしていた。
「メルティナ」
声は出た。
でも、自分の耳に届く前に、どこかへ引き伸ばされていった。
遠くで、誰かが言った。
三〇八号。
リィズは目を開けた。
開けたつもりだった。
そこには、白い天井があった。
まっすぐな線。
白磁の壁。
透明な管。
光る液体。
音のない廊下。
小さな手が、冷たい台の上に置かれている。
自分の手だった。
いや、違う。
もっと小さい。
もっと軽い。
名前を呼ばれたことのない手。
「三〇八号、覚醒反応あり」
誰かの声がした。
女の声か、男の声か分からない。人の声なのに、温度がなかった。
リィズは起き上がろうとした。
身体が動かない。
腕に何かがつながっている。
胸にも。
首にも。
透明な管の向こうで、紫の光がゆっくり流れていた。
自分の中から出ているのか。
自分の中へ入っているのか。
分からなかった。
「三〇二号を呼べ」
別の声。
足音。
正確な足音だった。
一歩。
一歩。
一歩。
白い部屋の扉が開く。
そこに、水色の髪の少年が立っていた。
今見た青年より、ずっと幼い。
けれど、同じ目をしていた。
青い目。
感情の少ない目。
それでも、白い部屋の人間たちより、少しだけこちらを見ている目。
少年はリィズのそばに来た。
手を伸ばす。
冷たい手だと思った。
でも、触れた指先は冷たくなかった。
「起きない方がいい」
少年が言った。
「まだ、痛む」
リィズは口を動かした。
声は出なかった。
少年は少しだけ首を傾けた。
「名前はない」
そう言った。
「でも、ここでは三〇八号と呼ばれる」
リィズはその言葉の意味が分からなかった。
名前。
三〇八号。
痛み。
白い天井。
紫の光。
「怖い?」
少年が聞いた。
リィズは答えられなかった。
怖いという言葉を、まだちゃんと知らなかった。
少年は少しだけ黙った。
それから、自分の胸元を指さした。
「私は三〇二号」
青い光が、彼の手首の奥でかすかに光った。
「同じではない。でも、近い」
白い部屋の外で、誰かが言った。
「余計な会話は不要」
少年は振り返らなかった。
「眠って」
リィズの額に、少年の手が触れた。
「今は、眠っていた方がいい」
その声だけは、白い部屋の中で少しだけ違っていた。
命令ではなかった。
検査でもなかった。
たぶん、願いだった。
場面が変わる。
暗い部屋。
遠くで警報が鳴っている。
赤い光が、白い壁を染めている。
熱い。
誰かが叫んでいる。
紫の光が暴れている。
管が割れて、ガラス片が床に散った。
小さなリィズは泣いていなかった。
ただ、立っていた。
右腕が黒くなっている。
皮膚の奥で何かが焼けている。
その前に、三〇二号がいた。
水色の髪が乱れている。
白い服に血がついている。
「走れる?」
リィズは首を横に振った。
三〇二号は少しだけ目を伏せた。
それから、リィズを抱えた。
「なら、私が運ぶ」
遠くで、扉が閉じる音がした。
誰かが追ってくる。
三〇二号は走った。
白い廊下を。
まっすぐな廊下を。
ガラスの管の並ぶ部屋を抜け、冷たい階段を下り、誰も使っていない扉を開けた。
外の空気が入ってきた。
初めての匂いだった。
土。
草。
夜。
小さなリィズは目を開けた。
「外」
そう言った。
声が出た。
かすれていたけれど、声だった。
三〇二号は一瞬だけリィズを見た。
「そう」
「外って」
リィズは言葉を探した。
まだ、言葉をあまり持っていなかった。
それでも、言った。
「オシャ?」
三〇二号の足が止まりかけた。
ほんの少しだけ。
そして、彼は小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
「たぶん」
その瞬間、白い光が後ろから伸びた。
三〇二号の背中が跳ねる。
リィズを抱く腕が少し緩む。
でも、落とさなかった。
「行って」
「三〇二」
「行って」
彼はリィズを草の中へ押し出した。
「名前をもらって」
遠くで、誰かの声がした。
「三〇二号、反逆行為を確認」
リィズは草の上に倒れた。
右腕が熱い。
胸が苦しい。
三〇二号が白い光の方へ向き直る。
その首元に、何かがはめられるのが見えた。
金属の輪。
青い光。
少年の目から、少しずつ温度が消えていく。
「三〇二」
リィズが呼んだ。
少年は振り返らなかった。
いや、振り返ろうとした。
でも、できなかった。
白い光が世界を塗りつぶした。
リィズは叫んだ。
声は、光の中で消えた。
次に目を開けた時、音があった。
水の音だった。
ぽたり。
ぽたり。
どこかで水滴が落ちている。
冷たい石の匂い。
湿った空気。
暗い天井。
リィズは息を吸った。
喉が痛い。
胸が痛い。
右腕も熱い。
でも、最初に見たのはメルティナだった。
「メルティナ」
声が割れた。
洞窟だった。
岩の壁に、青白い苔が薄く光っている。床には古い円が刻まれていた。さっきメルティナが血で描いたものと似ている。けれど、こちらの方がずっと大きく、ずっと古かった。
転送の洞窟。
メルティナが言っていた場所。
リィズはその円の中央に倒れていた。
腕の中に、メルティナがいた。
黒いメイド服は血で重くなっている。
腹。
脇腹。
肩の下。
棘はもうない。
けれど、棘があった場所から血が流れ続けていた。
「メルティナ」
返事はない。
リィズは身体を起こした。
メルティナの頭が腕の中で揺れる。
その小さな揺れが怖かった。
「起きて」
返事はない。
「ねえ、起きて」
リィズはメルティナの傷に手を当てた。
血が指の間からあふれた。
温かい。
嫌になるほど、温かい。
「どうすればいいの」
洞窟に声が響いた。
誰も答えない。
水滴の音だけが返ってくる。
ぽたり。
ぽたり。
リィズは手に力を入れた。
傷を押さえる。
血が止まらない。
「止まって」
止まらない。
「止まってよ」
止まらない。
リィズは魔法を使おうとした。
紫の光が、指先に集まりかけた。
でも、それは壊すための光だった。
傷を塞ぐ光ではない。
血を止める光ではない。
命を戻す光ではない。
リィズは息を止めた。
自分の魔法が、何の役にも立たないことが分かった。
山を削れる。
建物を壊せる。
魔物を消せる。
でも、メルティナの血を止められない。
「なんで」
声が震えた。
「なんで私、回復魔法やらなかったの」
城で、メルティナが何度か言ったことがある。
基礎だけでも覚えてください。
リィズは笑って逃げた。
だってメルティナがいるから。
メルティナが治せるから。
私は壊す方が得意だから。
その全部が、洞窟の冷たい空気の中で戻ってきた。
「ごめん」
リィズはメルティナの傷を押さえた。
「ごめん。ごめん、メルティナ」
メルティナのまぶたが、少しだけ動いた。
リィズは息を止めた。
「メルティナ」
赤い瞳が、ほんの少しだけ開いた。
焦点は合っていない。
それでも、リィズの方を探していた。
「……お嬢、様」
「いる。ここにいる」
「血は」
「止まらない」
正直に言ってしまってから、リィズは唇を噛んだ。
「ごめん。止めたいのに、止め方が分からない」
メルティナの手が、わずかに動いた。
自分の腹に触れようとして、途中で落ちた。
リィズがその手を取った。
「だめ、動かないで」
「布を」
「布?」
「強く、押さえてください」
「うん」
リィズは荷物を探った。
手が震えて、布を取り出すだけで時間がかかった。
メルティナが目だけで場所を示す。
薬瓶。
針。
糸。
止血用の布。
リィズは言われるままに動いた。
言われなければ、何も分からなかった。
「ここ?」
「少し、上」
「こう?」
「もっと、強く」
「痛いでしょ」
「痛い、です」
「じゃあ」
「でも、強く」
リィズは布を押さえた。
メルティナの身体が小さく震える。
リィズの手も震える。
「ごめん」
「謝らないで、ください」
「無理」
「では、あとで」
「あとでならいいの?」
「はい」
メルティナの声は細い。
でも、少しだけメルティナだった。
リィズは泣きそうになった。
まだ泣かなかった。
泣いたら手の力が緩みそうだった。
メルティナは震える指で、自分の傷に淡い光を当てた。
いつもの治癒ではなかった。
深い傷を塞ぐ光ではない。
ただ、血の流れを少し遅くするだけ。
切れたものを、無理やりほどけないように結んでいるだけ。
「これで」
メルティナが息を吐いた。
「少し、持ちます」
「治ってない」
「はい」
「治してよ」
「今は、無理です」
その言葉が、洞窟の中で冷たく落ちた。
リィズはメルティナの手を握った。
「死なないで」
メルティナは返事をしなかった。
目を閉じる。
リィズの心臓が止まりかけた。
「メルティナ」
「……眠るだけです」
「ほんと?」
「はい」
「ほんとに?」
「はい」
「嘘だったら怒る」
「怒って、ください」
「起きたらね」
「はい」
メルティナの手から、力が抜けていった。
でも、完全には離れなかった。
指先が、リィズの袖に触れている。
それだけで、リィズは息をした。
洞窟の奥で、水滴が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
リィズはメルティナの傷を押さえたまま、身動きできなかった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
外が昼なのか夜なのかも分からない。
転送の洞窟には、空がなかった。
ただ、青白い苔の光と、古い魔法陣の薄い線だけがあった。
リィズは眠らなかった。
眠れなかった。
目を閉じると、白い部屋が見えた。
水色の髪の少年。
三〇二号。
名前をもらって。
金属の輪。
その全部が、戻ってくる。
「セノア」
リィズは小さく言った。
水音に混じって、名前だけが洞窟に残った。
メルティナは眠っている。
呼吸は浅い。
でも、ある。
リィズはその呼吸を数えた。
一つ。
二つ。
三つ。
数えながら、リィズは初めて思った。
自分は、知らないことが多すぎる。
自分の腕のことも。
セノアのことも。
ネオストのことも。
そして、メルティナがどれだけ自分の代わりに知っていたのかも。
ぽたり。
水滴が落ちる。
リィズはメルティナの手を握った。
「私、覚える」
誰に向けた言葉か分からなかった。
メルティナにか。
セノアにか。
昔の自分にか。
「回復魔法も。ネオストのことも。三〇二のことも」
洞窟は答えなかった。
それでも、リィズは続けた。
「だから、起きて」
メルティナの指が、ほんの少しだけ動いた気がした。
気のせいかもしれない。
でも、リィズはそれを信じることにした。




