第十二話「禁忌の転送」
青い光が、セノアの足元から地面へ走った。
細い線だった。
けれど、その線が通った場所だけ、土の下で何かが目を覚ましたように鳴った。
リィズは杖を構えた。
包帯の下が熱い。
さっき魔物を吹き飛ばした熱が、まだ残っている。そこへまた魔法を流そうとすると、右腕の奥で黒いものが先に息をするようだった。
「お嬢様」
メルティナの声が低くなった。
「今は、撃たないでください」
「でも」
「私が前に出ます」
「だめ」
リィズの返事は早かった。
メルティナは振り返らなかった。
「必要です」
「それ、便利に使いすぎ」
「便利ですので」
セノアは表情を変えなかった。
水色の髪も、白い服も、風の中でほとんど揺れない。首元の金属の輪だけが、青く淡く光っている。
「排除手順、開始」
地面が割れた。
白い建物の前から、岩の棘が突き上がる。
一本ではなかった。
三本。
五本。
七本。
それぞれが違う角度で、リィズの立っている場所へ向かって伸びた。
メルティナが動いた。
リィズの手首を引く。
半歩。
さらに半歩。
岩の棘が、さっきまでリィズの胸があった場所を突き抜けた。
空気が裂ける。
土の匂いが遅れて来る。
「近い」
リィズが言った。
「はい」
「近すぎる」
「離れれば、次が読めません」
メルティナはすぐに体勢を戻した。
両手にはもうダガーがある。
小さな刃。
目の前で地面を割る青い魔法に比べると、あまりにも細い。
でも、メルティナの背中は揺れなかった。
セノアが右手を上げた。
青い線が地面を這う。
今度は横へ広がった。
「三〇二」
リィズが呼んだ。
セノアの動きが、ほんの一瞬止まった。
青い線が乱れる。
「セノア」
もう一度、呼ぶ。
その名前は、まだリィズのものではない。
それなのに、呼ばなければならない気がした。
セノアの青い瞳が、リィズを見た。
見ている。
今度は、本当に見た。
「三〇八号」
声が漏れた。
命令ではなかった。
機械のような声ではなかった。
ほんの一瞬だけ、人の声だった。
メルティナが息を止めた。
リィズも動けなかった。
次の瞬間、首元の金属輪が強く光った。
セノアの表情が消える。
「不正応答を修正」
青い線が、地面に深く沈んだ。
「排除手順、継続」
大地が鳴った。
今度の音は、さっきより低かった。
メルティナがリィズを押し出すように動いた。
「下がってください」
「メルティナ」
「早く」
リィズは一歩下がった。
その足元にも、青い線が来ていた。
気づくのが遅れた。
地面が割れる。
岩の棘が、真下から伸びた。
杖を上げるには遅い。
横へ跳ぶにも遅い。
その瞬間、メルティナが横からリィズの肩を押した。
強く。
リィズの身体が、草の上へ飛ばされる。
視界が傾いた。
倒れ込む直前、自分が立っていた場所から岩の棘が突き上がるのが見えた。
そこに、メルティナがいた。
リィズを押し出した手を、まだ戻せていなかった。
次の青い線が、メルティナの足元を走った。
「メルティナ」
声が間に合わなかった。
地面が破れた。
一本ではない。
腹を、脇腹を、肩の下を、細い岩の棘が貫いた。
黒いメイド服が、赤を吸って重くなる。
リィズは地面に倒れたまま、息を忘れた。
自分の身体には、どこにも棘が刺さっていない。
その意味が分かるまで、一拍かかった。
メルティナが、そこに残ったのだ。
「……メルティナ」
リィズの声は、自分のものではないみたいだった。
メルティナは立っていた。
いや、立っているように見えた。
腹を、脇腹を、肩の下を貫いた岩の棘が、彼女の身体をその場に留めていた。
黒いメイド服の裾から、血が落ちる。
一滴。
それから、もう一滴。
メルティナの赤い瞳が、ほんの少しだけリィズの方へ動いた。
「無事、ですか」
リィズは答えられなかった。
「何、言ってるの」
声が震えた。
メルティナの唇が、わずかに動いた。
笑おうとしたのかもしれない。
でも、形にはならなかった。
「よかった」
セノアがさらに手を上げる。
「排除対象、継続」
リィズの中で、何かが切れた。
右腕が熱い。
包帯の下が焼ける。
熱い。
痛い。
でも、それよりも、目の前の赤が許せなかった。
メルティナの血。
自分を守るために流れた血。
リィズは立ち上がった。
杖を握る手が震えていた。
怖いからではない。
目の前で、メルティナが倒れることもできずにいる。
その光景が、リィズの中の何かを焼き切った。
「……どいて」
メルティナは首を動かそうとした。
動かなかった。
「撃っては」
声が細い。
「どいて」
「お嬢様」
「どいてって言ってるの」
右腕の包帯が、内側から黒く滲んだ。
紫のリボンが震える。
リィズはセノアを見た。
もう、青い瞳も白い服も見ていなかった。
メルティナを貫いているものだけを見ていた。
「私のメルティナに」
紫の光が、杖の先に集まる。
「何してるの」
光が放たれた。
直線ではなかった。
さっきの魔物を消した光とは違う。
今度は、前方の世界そのものが押し潰された。
白い建物が砕ける。
地面がめくれる。
セノアの足元が崩れる。
その後ろの丘が裂ける。
さらに奥の山肌が、紫の光に削られた。
音はなかった。
最初は。
世界が一瞬、無音になった。
それから遅れて、轟音が戻ってきた。
土砂が落ちる。
岩が崩れる。
白い壁の破片が空へ跳ねる。
セノアの姿は、土と岩の向こうへ飲まれていった。
青い光が一度だけ瞬いた。
すぐに見えなくなった。
リィズは息をしていなかった。
杖を握ったまま、立っていた。
右腕が燃えるように熱い。
包帯の下で何かが広がった。
でも、そんなことはどうでもよかった。
「メルティナ」
リィズは振り返った。
メルティナは、まだ棘に貫かれたままだった。
倒れていない。
倒れられない。
岩の棘が、彼女の身体をそこに縫い止めている。
「待ってて」
リィズは駆け寄った。
「今、壊すから」
「だめ、です」
メルティナの声は細かった。
「壊したら、傷が」
「でも」
「動けば、もっと」
言葉が途中で切れた。
メルティナの喉が小さく鳴る。
血が、また落ちる。
「じゃあ、どうすればいいの」
リィズの声が裏返った。
「ねえ、何すればいいの」
メルティナは答えなかった。
答えないまま、右手だけを少し動かした。
指先が、地面に触れる。
棘に貫かれたまま。
立たされたまま。
その指が、血で濡れた土をなぞった。
淡い光が生まれた。
治癒の光ではない。
もっと古い。
もっと冷たい。
灰色の線だった。
「メルティナ?」
「……離れないで、ください」
「何してるの」
「逃げます」
「逃げる?」
「ここに、いては、だめです」
遠くで、岩が崩れる音がした。
土砂の向こうで、青い光がかすかに揺れた。
セノアは死んでいない。
リィズにも分かった。
あれだけ壊したのに。
まだ、どこかで動いている。
メルティナの指が、震えながら地面をなぞる。
円。
その内側に、いくつもの記号。
リィズには読めない。
メルティナにも、全部は読めていないはずだった。
でも、彼女の指は迷わなかった。
血と灰色の光が混じって、地面に古い模様を作っていく。
「それ、何」
「転送の……魔法陣です」
「転送?」
「過去の遺物です」
メルティナは息を吸った。
吸っただけで、身体が震えた。
岩の棘が彼女を支えている。
支えているのに、傷口から血が流れ続ける。
「昔、父と旅をした時に、見ました」
「喋らないで」
「聞いてください」
メルティナの声が、ほんの少しだけ強くなった。
リィズは黙った。
「洞窟に、同じ魔法陣がありました」
「洞窟?」
「転送の洞窟。父は、絶対に使うなと」
メルティナの指が、円の端をなぞる。
灰色の線がつながる。
「戻れるとは限らない。戻れても、同じ場所とは限らない。身体も、時間も、ずれるかもしれない。だから絶対に使うな、と」
「じゃあだめじゃん」
リィズの声が震えた。
「そんなの、だめじゃん」
「はい」
「はいじゃない」
「でも」
メルティナはリィズを見た。
赤い瞳が、火のように薄く揺れていた。
「ここでは、死にます」
リィズの喉が詰まった。
その言葉だけが、真っ直ぐ入ってきた。
ここでは、死ぬ。
メルティナが。
メルティナは、棘に貫かれたまま、指を動かし続けた。
一つ記号を書くたびに、血が落ちる。
一つ線がつながるたびに、彼女の顔から色が引いていく。
「やめて」
リィズが言った。
「私がやる」
「読めません」
「でも」
「お嬢様には、読めません」
「じゃあ覚える。今覚える」
「間に合いません」
「間に合わせる」
「お嬢様」
メルティナの声が、少しだけ厳しくなった。
「聞いてください」
リィズは口を閉じた。
涙は出ていなかった。
まだ。
涙を出している時間もなかった。
「私が合図をしたら、棘を壊してください」
「壊したら」
「倒れます」
「だめ」
「抱えてください」
「だめ」
「抱えてください」
同じ言葉だった。
でも、二度目は命令に近かった。
リィズは唇を噛んだ。
「……分かった」
「そのまま、円の中へ」
「うん」
「私から、手を離さないでください」
「離さない」
「何があっても」
「離さない」
魔法陣が、ほとんど完成していた。
灰色の円の中に、リィズの紫が少しずつ混じっていく。
包帯の下が焼けるように痛んだ。
「これ、私の魔法も使ってる?」
「少しだけ」
「勝手に?」
「はい」
「ひどい」
「申し訳ありません」
メルティナは、ほんの少しだけ目を細めた。
笑ったのかもしれない。
「でも、必要ですので」
リィズは泣きそうな顔で笑った。
「それ、便利に使いすぎ」
「はい」
遠くで、青い光が立ち上がった。
土砂の向こう。
崩れた岩の中から、セノアの輪郭が見えた。
白い服は破れている。
水色の髪に土がついている。
それでも、彼は立っていた。
首元の金属輪が、まだ青く光っている。
「排除手順、再開」
声が遠くから届いた。
メルティナの指が、最後の線を引いた。
灰色の円が閉じる。
空気が変わった。
風が、円の外へ押し出される。
草が伏せる。
「今です」
メルティナが言った。
リィズは杖を握った。
「ごめん」
それが誰への言葉なのか、自分でも分からなかった。
メルティナへか。
自分へか。
それとも、メルティナの身体を貫いている岩へか。
紫の光が、細く走った。
岩の棘が砕ける。
支えを失ったメルティナの身体が、前へ倒れた。
リィズは受け止めた。
間に合った。
けれど、重かった。
今まで抱きしめたメルティナとは違う。
力の抜けた身体。
血で濡れた服。
熱い。
嫌になるほど、温かい。
「メルティナ」
返事はなかった。
でも、彼女の指が、最後にリィズの袖を掴んだ。
リィズはメルティナを抱えたまま、魔法陣の中へ入った。
円の光が足元から立ち上がる。
灰色。
その中に紫。
遠くで、セノアがこちらを見ていた。
青い瞳。
見ているようで、見ていない目。
けれど、また一瞬だけ揺れた。
「三〇八号」
声が届いた気がした。
リィズはメルティナを抱きしめた。
「離さない」
魔法陣の光が強くなる。
関所も、白い建物も、崩れた山肌も、青い光も、全部が薄くなっていく。
リィズは目を閉じなかった。
閉じたら、メルティナが消えてしまう気がした。
血が止まらない。
止まらない。
止まらない。
「メルティナ」
返事はない。
でも、袖を掴む指だけが、まだそこにあった。
光が、二人を飲み込んだ。




