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第十一話「白い標識」

朝になっても、関所跡の向こうは色が薄かった。

夜のせいではなかった。

太陽は出ている。雲も少ない。草原には光が落ちている。それなのに、門の向こうだけ、何かを一枚抜かれたように見えた。

「行けますか」

メルティナが言った。

「行く」

返事は早かった。

二人は門の跡を抜けた。

錆びた金具が、背中で小さく鳴った。

すぐには止まらなかった。

リィズは振り返らなかった。

草の丈は高かった。

膝まではない。けれど、足元を隠すには十分だった。踏むたびに、草が靴の横を撫でる。

道はなかった。

かつて道だったものは、ところどころに残っている。土の色。草の倒れ方。半分埋もれた木杭。折れた標柱。そういうものを、メルティナは一つずつ拾うように進んだ。

「メルティナ」

「はい」

「道じゃないね」

「はい」

「でも、進んでる」

「方角は合っています」

「方角だけで進むの、怖いね」

「はい」

「メルティナも?」

メルティナは、折れた標柱の先を見た。

「……少しは」

リィズは少し笑った。

その笑いは、すぐ風に消えた。

音が遠い。

鳥の声は聞こえない。虫の音もない。草は揺れているのに、擦れる音が薄い。

ただ、完全な無音ではなかった。

自分の靴が土を踏む音。

メルティナの服の裾が草に触れる音。

包帯のリボンが、風に小さく震える音。

それらだけが近かった。

その時、草の奥で何かが動いた。

音はなかった。

でも、草の倒れ方が変わった。

メルティナの手が、リィズの袖に触れた。

「お嬢様」

「うん」

黒い影が飛び出した。

昨夜の獣より小さい。

けれど速かった。

四本の脚が地面を蹴り、黄色い目だけが光っている。

メルティナが前に出ようとした。

その前に、リィズが杖を上げた。

「大丈夫」

紫の光が咲いた。

次の瞬間、草原に一本の道ができた。

リィズの前から、はるか先まで。

草が消えていた。

黒い獣も、音も、影も、その直線の中には残っていなかった。土は浅く削られ、細い谷のように遠くまで続いている。数百メートル先の丘の斜面まで、紫の光が通った跡だけがまっすぐ抜けていた。

音は、遅れて来た。

低い轟きが地面の下から戻り、風が横へ押し返される。消えた草の縁だけが、遅れて震えた。

リィズは杖を下ろした。

「今度は間に合った」

声は明るかった。

メルティナは、草原に刻まれた細い空白を見た。

それから、リィズの右腕を見た。

包帯の結び目が、少しだけ震えている。

「お嬢様」

「うん?」

「腕は」

「平気」

リィズは右腕を軽く振った。

「ちょっと熱いだけ」

「熱い?」

「うん。包帯の下が、少し」

メルティナの目が細くなった。

リィズは気づかず、紫の光が抜けた先を見ていた。

「でも、昨日みたいに切られるよりいいでしょ」

「……はい」

「またやっちゃったかな」

「かなり」

「でも、助かった」

「はい」

メルティナはそれ以上言わなかった。

ただ、リィズの右腕をもう一度見た。

包帯の下にあるものを、見えないまま測るように。

二人は、削られた草原を避けて進んだ。

紫の光が通った跡は、しばらく横に残っていた。

草の中にある、まっすぐすぎる空白。

自然の中に、あんな直線はない。

リィズは少しだけ振り返った。

「すごいね」

「はい」

「私の魔法」

「はい」

「便利だね」

メルティナはすぐには答えなかった。

「便利で済ませないでください」

「メルティナも言うんだ、それ」

「言います」

リィズは笑った。

メルティナは笑わなかった。

しばらくすると、草原の中に白いものが見えた。

石ではなかった。

木でもなかった。

細い板のようなものが、地面に刺さっている。

白い。

周りの草や土から浮いて見えるほど、白かった。

リィズは足を止めた。

「何あれ」

「標識のようです」

メルティナの声が少し低くなった。

近づくにつれて、形がはっきりした。

高さはリィズの胸ほど。表面は滑らかで、汚れがほとんどない。角はまっすぐで、欠けてもいない。そこに細い文字が刻まれていた。

古い関所の木札とは違う。

風雨に削れた文字ではない。

最初から、人の手で冷たく整えられた文字だった。

リィズは読もうとした。

けれど、読めなかった。

「何て書いてあるの?」

メルティナは標識を見た。

触らなかった。

「ネオスト語です」

リィズは顔を上げた。

「ネオスト」

昨夜、火の前で聞いた名前だった。

北東にある、白く整った国。

秩序と平和を掲げる国。

「ここ、もうネオストなの?」

「国境としては、まだアークライア側です」

「でも、ネオストの標識がある」

「はい」

「変じゃない?」

「変です」

メルティナは周囲を見た。

草原。

薄い道。

風のないような風。

白い標識。

「読める?」

リィズが聞いた。

「少しなら」

「何て?」

「この先、調律区域。無許可の感情活動を制限する」

リィズは眉を寄せた。

「感情活動?」

「そのように書かれています」

「感情って、活動なの?」

「普通は、違います」

「だよね」

リィズは白い標識を見た。

滑らかで、冷たそうだった。

そこだけ、草原に生えているのではなく、草原を間違いとして訂正しているように見えた。

「オシャじゃないね」

「はい」

メルティナはすぐに同意した。

リィズは少しだけ驚いた。

「早い」

「はい」

「メルティナも、これはオシャじゃないと思う?」

「はい」

「否定しないじゃなくて、はいなんだ」

「はい」

リィズは標識から目を離した。

「じゃあ行こう」

「はい」

二人は白い標識を避けて進んだ。

背中に、標識の白さが残った。

見ていないのに、まだそこにあると分かる。

少し進むと、草の中に別の白いものが落ちていた。

欠片だった。

陶器のようにも、骨のようにも見えた。薄く、滑らかで、割れ口まで均一だった。

リィズはしゃがもうとした。

「触らないでください」

メルティナが言った。

「分かってる」

リィズは手を引いた。

「でも、これもネオスト?」

「おそらく」

「陶器?」

「白磁に近い素材だと思います。建材か、器具の一部かもしれません」

「白いものばっかりだね」

「はい」

「汚れないのかな」

「汚れを許さない作りなのかもしれません」

リィズは少し嫌な顔をした。

「それ、疲れそう」

「はい」

「アークライアなら、すぐ泥つくね」

「つきますね」

「お父様の執務室の扉も斜めだし」

「かなり斜めです」

「直さないのかな」

「何度か直しました」

「また斜めになった?」

「はい」

リィズは笑った。

笑ったあとで、白い欠片を見た。

欠片は笑わなかった。

当たり前なのに、そう思った。

昼前、地面が変わった。

草の間に、白い線が現れた。

細い線だった。地面に埋め込まれている。まっすぐ伸び、途中で直角に曲がっていた。

自然のものではない。

「道?」

リィズが言った。

「いえ」

メルティナは白い線を見た。

「区画線です」

「区画線?」

「土地を分ける線です」

「こんな草原に?」

「はい」

リィズは足元を見た。

草原の中に、白い直線がいくつも走っている。

まっすぐ。

直角。

まっすぐ。

また直角。

草の方が、その線を避けて生えているように見えた。

「気持ち悪い」

リィズが小さく言った。

「はい」

「草原なのに、部屋みたい」

「そうですね」

「誰がこんなことしたの」

「ネオストでしょう」

「なんのために?」

「整えるためだと思います」

「整える?」

「はい」

リィズは白い線を見た。

草を。

空を。

風を。

「整えなくていいものまで?」

メルティナは答えなかった。

二人は線を踏まないように歩いた。

理由はなかった。

ただ、踏みたくなかった。

やがて、前方に建物が見えた。

低い建物だった。

白い。

草原の中に、四角く置かれている。

壁は滑らかで、窓は細い。屋根は平ら。装飾はない。古びてはいるが、関所跡のように朽ちてはいなかった。

汚れていないわけではない。

ただ、汚れ方まで整って見えた。

「……あれ」

リィズが立ち止まった。

胸の奥が冷たくなった。

火の前で見えた白い床。

白磁の壁。

ガラスの管。

それと似ていた。

似ている気がした。

「メルティナ」

「はい」

「私、ああいうの、見たことあるかもしれない」

メルティナは建物を見た。

「近づきます。ただし、すぐには入りません」

「うん」

建物の前には、扉があった。

白い扉。

取っ手は金属だった。錆びていない。細く、冷たい形をしている。

扉の横に、青い線が一本入っていた。

リィズはその線を見た。

胸の奥が、また冷えた。

青。

どこかで見た色。

思い出そうとした瞬間、右腕が疼いた。

「っ」

リィズは腕を押さえた。

メルティナがすぐに近づく。

「お嬢様」

「大丈夫」

「大丈夫ではありません」

「青いの見たら、ちょっと」

「青い線ですか」

「うん」

リィズは扉の横の線を見た。

白い壁に、細く入った青。

「誰かの色みたいだった」

メルティナの顔が、ほんの少しだけ変わった。

「誰の?」

「分からない」

「名前は」

「名前じゃない気がする」

リィズは額に手を当てた。

「三〇二」

メルティナの呼吸が、わずかに止まった。

「今、何と?」

「分からない。数字が出た」

「三〇二、ですか」

「たぶん」

リィズは自分でも驚いていた。

知らないはずの数字が、口から出た。

青い線。

白い壁。

冷たい廊下。

誰かの手。

水色の髪。

「……誰?」

リィズが呟いた。

その時、建物の中で音がした。

かすかだった。

金属が、遠くで触れ合うような音。

メルティナはリィズの前に出た。

片手はもう、ダガーの柄に触れていた。

「下がってください」

「うん」

白い扉の向こうで、また音がした。

今度は、少し近かった。

そして、声がした。

低く、平らな声。

人の声なのに、感情がどこにも乗っていない。

「魔力反応を検出」

リィズは動けなかった。

扉の青い線が、淡く光った。

「識別色、紫」

メルティナがダガーを抜いた。

静かだった。

けれど、速かった。

「照合。個体識別、三〇八号」

リィズの息が止まった。

「三〇八……?」

白い扉の奥で、何かが歩いてくる。

足音は正確だった。

一歩。

一歩。

間隔が同じ。

速くも遅くもない。

人間の歩き方なのに、人間らしい揺れがなかった。

「排除対象、接近中」

リィズは杖を握った。

右腕が痛む。

でも、手は離さなかった。

「メルティナ」

「はい」

「これ、たぶん」

言葉が続かなかった。

扉が開いた。

白い光が、細く漏れた。

その中に、水色の髪が見えた。

青い瞳。

白い服。

首元に、金属の輪。

青年は、リィズを見た。

いや、見ているようで、見ていなかった。

あの北から逃げてきた男と同じ。

そこにいる相手を通り越して、別の命令を見ている目。

青年の口が動いた。

「個体識別、三〇二号」

声は、冷たく整っていた。

「現行任務、第一執行官セノア」

リィズは青年を見た。

「セノア」

その名前を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。

知っているはずがない。

知らない名前のはずだった。

それなのに、痛かった。

青年の青い瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。

けれど、すぐに消えた。

「排除対象の確認。個体識別三〇八号。通称、アークライア王女。随伴個体、灰色のメイド」

メルティナが低く構えた。

青年、セノアはリィズを見ていた。

見ているようで、見ていなかった。

「世界の静止を乱す感情のバグを消去します」

リィズは杖を握り直した。

包帯の下が熱い。

でも、それより胸の奥が痛かった。

「私、あなたを知ってるの?」

セノアは答えなかった。

足元に青い光が走った。

地面が、低く鳴った。

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