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第十話「黒い聖痕」

関所の向こうへは、すぐには進まなかった。

メルティナは、門の内側で足を止めた。

「今日は、ここで夜を越します」

リィズは門の向こうを見た。

明るいのに、そこだけ少し色が薄く見える場所。

「行かないの?」

「今から越えるには遅すぎます」

「まだ明るいよ」

「明るいうちに、戻れる場所で休むべきです」

リィズは少しだけ口を尖らせた。

でも、右腕が重かった。

昨夜の獣につけられた傷は塞がっている。血も出ていない。傷跡も残っていない。

それなのに、腕の奥で別のものが起きている感じがした。

日が落ちる頃、二人は低い壁の内側に火を作った。

屋根の落ちた詰所には入らなかった。

門の脇なら、風を少しだけ避けられる。背後に壁があり、前には関所の向こうが見える。

火は小さかった。

赤い炎が、石と朽ちた木の影を揺らしている。錆びた金具が、風のたびに小さく鳴った。昼よりも近い音だった。けれど、鳴り終わるまでに、やはり少しだけ遅れがあった。

リィズは火を見ていた。

右手は、自然と包帯の上に置かれている。

メルティナがそれを見た。

「お嬢様」

「うん」

「包帯を」

リィズは少しだけ口を尖らせた。

「今?」

「はい」

「ご飯のあとじゃだめ?」

「だめです」

「即答」

「後回しにする内容ではありません」

リィズは右腕を見た。

紫の包帯。

結び目の細いリボン。

風で少し揺れている。

「……分かった」

リィズは火のそばに座り直した。

メルティナは膝をつき、リィズの右腕を取った。指先は冷たくない。けれど、動きには迷いがなかった。

リボンをほどく。

包帯をほどく。

一巻きずつ、白い肌が見えていく。

そして、黒が現れた。

右肩から二の腕にかけて、黒い痕が広がっていた。

火傷の跡にも見えた。墨を流し込んだようにも見えた。けれど、ただの傷ではない。皮膚の奥から黒くなっている。細い枝のような線が、腕の内側へ向かって伸びていた。

リィズはそれを見た。

「また濃くなった?」

「少し」

「少しって、どのくらい?」

「昨日よりは」

「昨日よりは、って言われるとちょっと嫌だね」

「嘘を言うよりは」

「それはそう」

メルティナは小瓶を取り出した。

透明な液体が入っている。蓋を開けると、かすかに薬草の匂いがした。城の医務室の匂いに少し似ている。でも、もっと薄く、もっと冷たい匂いだった。

「しみます」

「それ、先に言うやつ?」

「言わない方がよかったですか」

「言って」

「では、しみます」

「やっぱり嫌」

メルティナは返事をせず、布に薬を含ませた。

それを黒い痕に当てる。

リィズの肩が跳ねた。

「っ……」

「動かないでください」

「しみる」

「言いました」

「言われても、しみるものはしみる」

「はい」

淡い光が、メルティナの指先から滲んだ。

傷を塞いだ時の光より、ずっと細い。強い光ではない。糸のように薄く、黒い痕の縁をなぞっていく。

リィズはそれを見ていた。

この処置は、何度も受けている。

城でも。

旅に出てからも。

けれど、外で見ると、少し違った。

火の光の中で見る黒い痕は、城の白い寝台で見た時よりも、ずっと生き物みたいだった。

「これ、ほんとに消えるかな」

メルティナの手は止まらなかった。

「消します」

「メルティナが?」

「はい」

「聖地に行けば、もっとちゃんと消えるんだよね」

「その可能性があります」

「可能性」

「はい」

リィズは火を見た。

「お父様は、メルティナがいれば大丈夫って言った」

「陛下は、そうおっしゃいました」

「じゃあ大丈夫だね」

メルティナは答えなかった。

薬を含ませた布を替える。

淡い光が、また黒い痕の縁に沿って流れた。

アークライアの城は、よく壊れていた。

リィズのせいだけではない。

雨漏りもした。厨房の煙突も詰まった。王の執務室の扉は、昔から少し斜めだった。

誰かが文句を言い、誰かが笑い、誰かが布を当て、翌日か、その次の日に修理された。

完璧な城ではなかった。

でも、そこにいる人間を、城ごと外へ押し出すような場所でもなかった。

アークライアという国そのものが、少しそうだった。

王の人柄が、そのまま国の壁や廊下や食堂に染みている。雑で、抜けていて、時々信じられないくらい大ざっぱで、それでも誰かが困れば、近くにいる誰かが手を出した。

アイオライト大陸の西にある、小さくはないけれど、完璧でもない国。

リィズは、その国が嫌いではなかった。

右腕を初めて見られた時も、そうだった。

医師たちは顔を青くした。

侍女の何人かは目を伏せた。

カイルム王だけが、いつものように椅子へ深く座っていた。

少し困った顔をして、それから言った。

「まあ、腕が黒いくらいで、お前がお前じゃなくなるわけじゃない」

その言葉を、リィズは覚えている。

腕の黒さより、その時の父の顔を覚えている。

怖がっていなかった。

悲しそうでもなかった。

ただ、そこにいるリィズを、そのまま見ていた。

「メルティナ」

「はい」

「アークライアって、雑だよね」

メルティナの指が、ほんの少し止まった。

「急ですね」

「思い出した」

「否定はしません」

「お父様も雑」

「それは、かなり」

リィズは少し笑った。

「でも、嫌いじゃない」

「はい」

「この腕を見ても、誰も追い出さなかった」

「はい」

「怖がった人はいたけど」

「はい」

「それでも、私の部屋はそのままだった。食事も出た。メルティナも来た」

メルティナは黒い痕に触れていた。

「場所は関係ありません」

「前にも言ってたね」

「はい」

「メルティナは、いつから私の腕を巻いてるんだっけ」

「お嬢様が、ご自分で包帯をほどくようになった頃からです」

「私、そんなことした?」

「何度も」

「……してそう」

「はい」

リィズは少し考えた。

自分では覚えていない。

でも、包帯の下が気になって、勝手にほどいたことはありそうだった。

怖がったというより、たぶん退屈だったのだと思う。

「最初、嫌じゃなかった?」

「何がですか」

「これ」

リィズは右腕を少しだけ上げた。

黒い痕が、火の光を受けて鈍く見えた。

「みんな、ちょっと変な顔してたから」

メルティナはリィズの腕を戻した。

「動かないでください」

「はい」

「嫌ではありませんでした」

「ほんと?」

「はい」

「なんで?」

メルティナは少しだけ黙った。

火が鳴った。

「お嬢様が、怯えていませんでしたので」

「私?」

「はい」

「怯えてなかった?」

「はい。むしろ、退屈そうでした」

「それは、ありそう」

「ありました」

リィズは少し笑った。

「メルティナも、変だね」

「よく言われます」

「誰に?」

「お嬢様に」

「私だけ?」

「はい」

リィズは笑った。

その時、黒い痕が小さく脈打った。

リィズの笑いが止まった。

火の音が遠くなる。

ほんの一瞬。

白い床が見えた。

磨かれた床。

白磁の壁。

ガラスの管。

まっすぐ続く廊下。

冷たい光。

誰かの声。

「三〇八号、反応上昇」

リィズは息を吸った。

目の前には火があった。

関所跡の夜。

メルティナの手。

右腕の黒い痕。

「お嬢様」

メルティナの声が近くにあった。

「今、何か見えましたか」

リィズはゆっくり瞬きをした。

「……白い場所」

メルティナの指が止まった。

「白い場所?」

「床が、すごく白かった。壁も。あと、ガラスみたいなのがあって」

「ほかには」

「声がした」

「何と」

リィズは眉を寄せた。

思い出そうとすると、頭の奥が冷たくなる。

「三百……なんとか」

メルティナは何も言わなかった。

「数字だった。名前じゃなくて」

火が小さく鳴った。

リィズは右腕を見た。

黒い痕は、さっきより少しだけ濃く見えた。

「私、あそこにいたことある?」

メルティナは包帯を取った。

新しい包帯だった。

「今は、処置を先にします」

「メルティナ」

「はい」

「知ってるの?」

メルティナはリィズを見た。

ルビーレッドの瞳が、火の色を映していた。

「すべては知りません」

「少しは?」

「少しは」

「それ、いつか教えてくれる?」

メルティナは包帯を巻き始めた。

一巻き。

もう一巻き。

黒い痕が、少しずつ隠れていく。

「必要になれば」

「今は?」

「まだです」

「また、まだ」

「はい」

「秘密が多いね」

「否定はしません」

リィズは口を尖らせた。

けれど、それ以上は聞かなかった。

メルティナの手が、いつもよりほんの少しだけ遅い気がしたからだ。

包帯が巻き終わる。

結び目を作る。

細いリボンを結び直す。

いつもと同じ位置。

いつもと同じ形。

黒い痕は、また見えなくなった。

リィズは右腕を軽く動かした。

重さは少しだけ残っている。

「消えたみたいに見えるね」

「見えるだけです」

「現実的」

「必要ですので」

リィズは火を見た。

白い床。

ガラス。

数字で呼ぶ声。

まだ頭の奥に残っている。

「アイオライト大陸って、広いんだよね」

「はい」

「アークライアの外には、あんな白い場所もあるのかな」

メルティナは少しだけ目を伏せた。

「あります」

「どこ?」

「北東に、ネオストという国があります」

リィズはその名前を、口の中で転がした。

「ネオスト」

「秩序と平和を掲げる国です」

「いい国?」

メルティナはすぐには答えなかった。

「そう言われています」

「メルティナは?」

「私は、行ったことがありません」

「じゃあ分からない?」

「はい」

メルティナは火を見た。

「ただ、白く、整った国だと聞いています」

「オシャ?」

「お嬢様の言うオシャとは、少し違うと思います」

「そうなんだ」

リィズは少し残念そうに言った。

「白くて整ってるのに?」

「はい」

「変なの」

「はい」

風が吹いた。

関所の金具が、また鳴った。

遅れて止まる。

リィズは右腕を胸に近づけた。

包帯の下の黒い痕は、もう見えない。

でも、ある。

見えないだけで。

「メルティナ」

「はい」

「私、死ぬのかな」

メルティナは顔を上げた。

リィズは火を見ていた。

声はいつもより軽かった。

軽くしようとしている声だった。

「この黒いの、命のカウントダウンなんでしょ」

「誰から聞きましたか」

「お父様と医師が話してた。昔」

「……そうですか」

「でも、私がこんなので死ぬわけないよね」

リィズは笑った。

少しだけ、いつもの笑い方だった。

「だって、まだ断界にも行ってないし。ネオストも見てないし。メルティナとお風呂も入りたいし」

「最後の優先順位が高いですね」

「大事だよ」

「否定はしません」

リィズは笑った。

メルティナも、ほんの少しだけ目を伏せた。

「死なせません」

声は小さかった。

リィズは聞き逃しかけた。

「え?」

「お嬢様を、死なせません」

メルティナは右腕の包帯に触れた。

指先は、そこに黒い痕があることを知っている。

「そのために、私はここにいます」

リィズはメルティナを見た。

「お父様に頼まれたから?」

「それもあります」

「それも?」

メルティナは手を離した。

「私が、そう決めました」

火が揺れた。

リィズは少しだけ黙った。

それから、いつものように笑おうとして、少し失敗した。

「じゃあ、大丈夫だね」

「はい」

「メルティナが決めたなら」

「はい」

関所跡の夜は、静かだった。

けれど、完全な静けさではなかった。

火が鳴る。

風が鳴る。

錆びた金具が鳴る。

少し遅れて止まる。

リィズはその音を聞きながら、右腕を抱えるようにして座っていた。

包帯の下で、黒い聖痕は見えない。

それでも、その夜から、リィズは初めて少しだけ信じた。

自分の中にあるものが、本当に自分をどこかへ連れていこうとしているのかもしれない、と。

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