第八章 三日間の眠り、王宮の思惑
リゼルが眠り続けている間、王宮では、静かに、しかし確実に、事態が動いていた。
一日目の朝、宰相――名をヴォルガンという初老の男が、東翼を訪れた。
「首尾はいかがかな」
「――試薬は、投与しました」
弟は、宰相の前で、感情を押し殺した声で答えた。
「して、結果は」
「まだ、目を覚ましません」
ヴォルガンの目に、興味深そうな光が宿った。
「一日で目を覚まさないというのは、興味深いデータだ。通常の人間ならば、あの試薬の量で命を落としている。それが一日経っても目覚めないとは――再生と呼ぶべきか、それとも別の何かか」
「彼女を、実験の道具のように扱わないでいただきたい」
「これは異なことを言う。お前自身、彼女に試薬を盛った当人ではないか」
弟の拳が、固く握られた。
「――目的を、果たすためです」
「その通り。お前の目的も、私の目的も、根は同じところにある。忘れるな、お前がこうして人の姿を保っていられるのは、私の助力あってのことだ」
ヴォルガンは、机の上に置かれた古い書物を、指先で軽く叩いた。
「アーヴァインの生き残りが、自らこの王宮に足を運んでくれるとは、正直、望外の幸運だった。あとは、彼女の『契約』の全容さえ確認できれば――」
「それが確認できれば、あなたは何をするおつもりですか」
「決まっている。二百年前、道半ばで終わった『大いなる契約』を、完成させる」
弟の顔が、強張った。
「――家族全員の命を、対価に?」
「対価とは、そういうものだ。お前もいずれ、理解するだろう」
ヴォルガンは、静かに部屋を後にした。
二日目、第三王女エルフリーデが、独自の伝手を使って調査を進めていた。
「宰相府の古い記録に、こんなものが」
側近の一人が、埃を被った書類の束を差し出した。
「二百年前、アーヴァイン家粛清の実行部隊の指揮官――名前は伏せられていますが、その筆跡が、現在の宰相殿のものと、酷似しています」
「筆跡鑑定は?」
「非公式ながら、専門家に依頼済みです。九割方、同一人物と思われるとの見解でした」
「二百年前の人物が、今も生きている……?」
エルフリーデは、書類を睨みつけた。
「宰相府というのは、代々世襲の職。もしかすると、宰相殿自身ではなく――その血を引く一族の中に、何か特殊な『不老』の秘密が伝わっているのかもしれない」
「東翼の青年と、同じ類の?」
「かもしれない。だとすれば、東翼で起きている騒動は、単なるアーヴァイン家の因縁話では済まない。この王国の根幹に関わる、大きな秘密の一端かもしれないわ」
エルフリーデは、窓の外、東翼の方角を見つめた。
「侵入者――恐らく、アーヴァインの生き残り本人でしょうね。彼女が目を覚ましたら、私自ら会いに行きます」
「危険では」
「危険を承知で動かなければ、この国の歪みは、いつまでも正されないままよ」
三日目の夜、東翵の一室で、弟はリゼルの寝顔を見つめながら、独り言のように呟いていた。
「姉上。……僕は、間違えているのでしょうか」
答える者は、いなかった。ただ、窓の外の雨音だけが、部屋を満たしていた。
「ヴォルガンの言う『契約の完成』が何を意味するのか、僕には、薄々分かっています。姉上を――いえ、アーヴァインの血を引く者全員を、最終的な対価として捧げること。それが、二百年前に途切れた契約の、本当の終着点」
弟は、自分の手を見つめた。時折金色に染まるその瞳の奥に、自分自身のものではない何かが潜んでいることを、弟自身、痛いほど自覚していた。
「僕がこうして人の姿を保てているのも、ヴォルガンの――正確には、彼が受け継ぐ『契約管理者』としての力のおかげです。逆らえば、この体は、たちまち崩れ去るでしょう」
「だから、僕は姉上を裏切るような真似を、続けざるを得なかった。……でも」
弟は、リゼルの手に、そっと自分の手を重ねた。
「姉上が目を覚ましたら、僕は全てを話します。たとえ、この身がどうなろうとも」
その決意を固めた瞬間、弟の瞳が、大きく金色に染まった。まるで、その決意そのものを咎めるかのように。
「――――」
声にならない呻き声とともに、弟は床に膝をついた。体の中で、何かがせめぎ合っている。それは、二百年分の傀儡としての年月と、たった数日で芽生えた「姉を守りたい」という意志との、静かな、しかし激しい戦いだった。




