第九章 対価を払ったもう一人
四日目の朝、リゼルはようやく目を覚ました。
目を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは、床に膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返す弟の姿だった。
「――弟?」
「姉上……! 目を、覚まされたのですね」
弟は、崩れるようにリゼルの寝台に縋りついた。瞳は、すでに緑色に戻っている。
「大丈夫? ずいぶん、辛そうだけれど」
「僕のことは、後で構いません。それより――お伝えしなければならないことが、山ほどあります」
その時、部屋の扉が、控えめに叩かれた。
「失礼します。――お加減はいかがですか」
入ってきたのは、見覚えのない、屈強な体格の男だった。両腕には、鍛冶仕事特有の火傷の痕が、いくつも残っている。
「あなたは」
「申し遅れました。レオンと申します。……もっとも、これは今の名前です。本当の家名は、別にあります」
レオンと名乗る男は、静かに跪いた。
「私の先祖は、二百年前、アーヴァイン家にお仕えしていた使用人の一人でした」
リゼルは、記憶を辿った。だが二百年前、まだ十七歳だったリゼルには、屋敷の使用人全員の顔を覚えているほどの余裕はなかった。
「ごめんなさい、覚えていないわ」
「無理もございません。私の先祖は、当時、まだ下働きの少年でした。ですが、あの夜――粛清の際に、先祖もまた、魔導師との取引に巻き込まれました」
「どういうこと?」
「先祖が対価に差し出したのは、『家の力』――正確には、アーヴァイン家に仕える一族が代々受け継いできた、特殊な鍛冶の技術でした」
弟が、補足するように口を開いた。
「レオンの一族は、アーヴァイン家専属の武具職人でした。その技術は、単なる鍛冶の腕前ではなく、魔力を込めた武具を作り出す、特殊な力だったそうです」
「その力を、対価に?」
「はい。先祖は、屋敷から逃げ延びる代わりに、一族の技術そのものを差し出すことを選びました。以来、私たちの血族は、代々『鍛冶の才を持たない鍛冶師の家系』として、生きてきました」
レオンは、自分の両手を見つめた。
「先祖代々、鍛冶を生業としながら、なぜか誰一人として、一人前の職人になれない。技術を学んでも学んでも、手が覚えない。それが、二百年間、私たちの一族に課せられた呪いでした」
「そんな……」
「ですが、それだけではありません」
レオンの声が、わずかに低くなった。
「対価を払った者の血族には、もう一つの『代償』が課せられます。――一族の誰かが、常に王都の近くに留まり続けなければならない、というものです。もし一族全員が王都から離れれば、契約違反とみなされ、残された記憶や技術が、完全に消滅してしまう」
「二百年間、逃げることも許されなかった、ということ?」
「その通りです」
リゼルは、言葉を失った。自分だけが、この呪いの重さを背負っていると、どこかで思い込んでいた。だが、レオンのような存在が、同じ二百年を、別の形の苦しみの中で過ごしてきたのだ。
「レオン。あなたは、なぜ王宮に?」
「弟君――アーヴァインの若君からの、密かな呼び出しです。若君は、この二百年、契約に苦しんできた者たちを、密かに探し出していました。私も、その一人として声をかけられました」
「他にも、対価を払った人が?」
「少なくとも、確認できているだけで数名。皆、それぞれの形で、二百年間、契約の重みを背負ってきました」
弟が、リゼルに向き直った。
「姉上。僕がこの二百年、王宮に近づき、宰相府の動きを探ってきたのは、単に自分の傀儡状態を利用されていただけではありません。同時に、契約に苦しむ人々を探し出し、いずれ来る『決着の時』に備えるためでもありました」
「決着の時……」
「ヴォルガンが目論む『契約の完成』を、阻止するためです。そのためには、姉上一人の力だけでなく、同じ契約に縛られた者たち全員の協力が、必要になります」
レオンが、深く頭を下げた。
「アーヴァインのお嬢様。私たちの二百年に、意味を持たせてくださるなら――どうか、私たちの力も、お使いください」
リゼルは、寝台から身を起こし、レオンの手を取った。
「ありがとう。一人だけの戦いだと思っていたけれど、そうじゃなかったのね」
「ええ。姉上は、決して一人ではありません」
弟が、静かに、しかし力強く言った。
「二百年かけて、僕たちは、ようやくここに辿り着いた。――今度こそ、終わらせましょう。あの夜から続く、全ての歪みを」




