第十章 目覚めない、ということ
目を覚ますまでに、三日かかった。
これは異常事態だった。今までどんな死に方をしても、リゼルの意識が途切れるのは長くて数分。傷が深ければ深いほど早く再生するのが、この呪われた体の唯一の「良心」だったはずだ。
弟とレオンの話を聞き終えたリゼルは、あらためて、自分の体に起きたその異変について、二人に問いかけた。
「三日も目覚めなかったこと――あなたたちには、心当たりがあるのね」
弟は、重い口を開いた。
「姉上。二百年前、僕たちの家族が魔導師と交わした取引には、続きがあります」
「対価の話ね。聞かせて」
「父上は『家の記憶』を、母上は『家の声』を、僕は『家の姿』を、それぞれ対価に差し出しました。そして姉上は――」
「『死ぬ権利』」
「いいえ」
弟は首を振った。
「姉上が対価に差し出したのは、『死ぬ権利』ではありません。それは魔導師がそう説明しただけの、いわば方便です。本当に姉上が差し出したのは――『家族の記憶が消えていく速度』でした」
リゼルの体が、凍りついた。
「どういう、こと」
「父の記憶も、母の記憶も、僕の記憶も、少しずつこの世界から薄れていっています。姉上が生きている限り、その速度は緩やかに保たれる。……ですが」
弟の目に、涙が滲んだ。
「姉上が『死のうとする』たびに――つまり、体を極限まで壊し、再生させるたびに、記憶の消失速度は逆に加速するのです。二百十九回、姉上が死のうとしてきたその全てが、家族の記憶を――僕らが生きていた証を、少しずつ消してきた」
「――それは、私の一族だけの現象では、ないのです」
レオンが、静かに口を挟んだ。
「私の一族にも、似たような『代償の加速』があります。私が今、王都に留まらず遠出をすれば、一族の記憶と技術は、通常よりも早く失われていく。恐らく、契約全体に共通するルールなのでしょう」
「ルール……」
「魔導師本人はすでにこの世におらず、契約という『仕組み』だけが、独立して機能し続けている。だからこそ、契約を結んだ本人の意図とは無関係に、こうした残酷な副作用が、淡々と積み重なっていくのです」
リゼルは、自分の手を見つめた。二百十九回、様々な方法で傷つけてきた手。
(私は、家族を救うために死のうとしていたんじゃない。家族の記憶を、この手で消し続けていたの?)
「なら――」
声が震えた。
「なら私は、何のために二百年、生きてきたの」
「姉上」
弟がリゼルの手を握った。冷たい、けれど確かに脈打つ体温だった。
「終わらせる方法は、あります。ただし――」
「ただし?」
「今度こそ、正真正銘の『死』を、姉上自身が選ばなければならない。もう死に方を試すための死ではなく、全てを受け入れた上での、最後の一度を」
リゼルは、しばし沈黙した後、意外なほど落ち着いた声で尋ねた。
「レオン。あなたの一族の呪いは、私が『正真正銘の死』を選べば、解けるの?」
「――恐らくは。若君の話が正しければ、姉君に紐づいた契約が清算されれば、連鎖的に、全ての『対価』が解消されるはずです」
「なら、私が死ねば、みんな救われる」
「ですが」
弟が、慌てて口を挟んだ。
「姉上。まだ、そう単純な話ではないかもしれません。ヴォルガンが目論む『契約の完成』――あれが実行されれば、単なる清算ではなく、まったく別の、恐ろしい結末になる可能性があります」
「別の結末、とは」
「詳しいことは、まだ分かりません。ですが、あの男の口ぶりからすると――契約を『清算』するのではなく、『成就』させようとしている節がある。もしそうなれば、姉上の死は、僕らを救うどころか、ヴォルガンの目的のための、最後の供物にされてしまうかもしれません」
窓の外で、雨が降り始めていた。
リゼルは、静かに目を閉じた。二百年間、数えてきた死のすべてが、実は誰かを傷つけ続けていたという事実。そして今、自分の「正しい死」ですら、悪用されかねないという新たな脅威。
「――だったら、なおさら」
「姉上?」
「なおさら、ヴォルガンより先に、真実を突き止めなくちゃ。私の死が、誰かを救うための死になるように」
リゼルは、寝台から静かに立ち上がった。
「レオン。他に、契約に苦しんでいる人たちがいるなら、会わせて。一人でも多くの真実を、集めたい」
「承知いたしました」
「弟。宰相府の動き、詳しく教えて。私たちが、後手に回らないために」
「はい」
三人は、雨音の響く部屋の中で、静かに、しかし確かな決意を固めていった。




