第六章 東翼の青年
王宮に忍び込むのは、実のところ二百年ぶり二度目だった。
一度目は十七歳の時、婚約者だったカイルにこっそり会いに行くためだった。あの頃は塀を越えるだけで胸が高鳴ったものだが、今は違う。塀を越えながら、リゼルは真剣に考えていた。
(この高さから落ちたら、何回目の死に方になるかしら)
「お嬢様、塀の上で数えるのはやめてください。衛兵に見つかります」
ドロテアが小声で咎める。二人は夜闇に紛れ、王宮の裏庭に降り立った。
庭園を抜ける道すがら、リゼルは王宮の壮麗さに、少しだけ懐かしさを覚えた。二百年前、婚約者の実家であるこの国の重臣筋を通じて、リゼルも何度かこの庭園を訪れたことがあった。あの頃と変わらぬ薔薇の茂み、変わらぬ噴水の音――だが、その中を歩く自分は、もう別人のようだった。
「東翼は、あちらです」
ドロテアが指し示す方向、賓客をもてなす一角の窓に、灯りが漏れていた。
窓に忍び寄り、中を覗き込む。
そこにいたのは――少年、いや、青年と呼ぶべき年頃の男だった。銀髪に、リゼルとよく似た深い緑の瞳。机に向かい、何かの書類に目を通している。その顔立ちには、覚えがあった。
(弟に、似ている)
二百年前、まだ五歳だった弟のことを思い出す。あの子も生きていれば、こんな顔になっていただろうか。いや――馬鹿な。あり得ない。弟は目の前で殺された。リゼル自身がその亡骸を抱いた。
だが、父の手紙にあった一文が、頭をよぎる。
(――もしお前の弟が、万一の際に助かる道があるのなら)
窓を開けようとした瞬間、リゼルの首筋に冷たい刃が当てられた。
「侵入者にしては、随分と物思いに耽っていますね」
背後に立っていたのは、先ほど窓越しに見た青年その人だった。いつの間に背後を取られたのか、リゼルには分からなかった。二百年生きても衰えぬ剣の腕を持つ相手ということだ。
「殺してくれるの? だったら好都合」
「随分と物騒な返事ですね。普通の令嬢は、悲鳴の一つも上げるものですよ」
「あいにく、普通の令嬢は二百十八回も死に損なったりしないの」
青年の瞳が、わずかに揺れた。
「――アーヴァインの、生き残り」
「知ってるの?」
「知っているも何も」
青年は刃を下ろし、初めて笑った。その笑い方が、記憶の中の弟の笑い方と、あまりにも重なった。
「姉上に会えるとは思いませんでした」
時が止まった、というのは、こういう瞬間を言うのだろう。
「……嘘。あなたは死んだ。私が、この目で――」
「亡骸を見た、でしょう? ですが姉上、あの日殺されたのは僕ではありません。僕の身代わりに殺された、名も無き孤児です」
「なぜ、そんな」
「僕を生かすために、姉上以外の家族全員が、それを選んだからです」
青年――弟を名乗る男は、リゼルの目を真っ直ぐに見た。
「姉上が『死ねない体』にされた理由も、僕は知っています。魔導師と取引をしたのは姉上一人ではない。あの日、家族全員が、何かを対価に差し出していた」
「――知ってるわ、それは。父の記録を、読んだから」
弟の目が、驚きに見開かれた。
「地下書庫まで、辿り着かれたのですか」
「ええ。お父様が、あなたのことも書き残していた。『弟が助かる道があるなら、最優先にしてほしい』と」
「――父上らしい」
弟の声に、初めて、隠しきれない感情の揺れが見えた。
「姉上。積もる話は、山ほどあります。ですがまず、確かめさせてください」
弟は懐から小瓶を取り出した。中には紫色の液体が揺れている。
「これは?」
「一つ、確かめさせてください。姉上が本当に『死ねない』のか」
「なぜ、確かめる必要が」
「――理由は、後ほど。今は、信じてほしいとしか言えません」
リゼルは、少し考えた後、頷いた。
「いいわ。二百十九回目にしましょう」
小瓶の蓋が開けられ、中身がリゼルの口に流し込まれる。喉が焼けるような感覚とともに、視界が暗転していく。
(毒――これで二百十九回目、ね)
意識を失う直前、リゼルは、弟の顔に浮かんだ、複雑な表情を見た。それは、単なる好奇心や実験の結果を待つ顔ではなかった。何かを、恐れているような――そんな顔だった。




