第二章 村の子どもと、生きる理由の芽生え
王宮へ向かう決意をしたその夜、リゼルは珍しく、すぐには行動に移さなかった。
「お嬢様にしては、慎重ですね」
「まさか。王宮に忍び込むには、それなりの準備がいるでしょう。それに――」
リゼルは、窓の外に見える村の灯りを見つめた。
「もう少しだけ、この村での時間を、大事にしたいの」
その言葉に、ドロテアは何も返さなかった。ただ、その沈黙は、これまでの呆れたようなものとは、少し違う響きを持っていた。
翌朝、リゼルはミラの家を訪ねた。
ミラの祖母――村では「グレイス婆さん」と呼ばれる老女は、二百年前のアーヴァイン家をわずかに覚えている、数少ない存在だった。もっとも、当時はまだ幼く、記憶はおぼろげだという。
「リゼルお嬢さん、また来てくれたのかい」
「ミラに、育て方を教わりに来たの。この間もらった種、うまく育たなくて」
グレイス婆さんは、豆の種を渡しながら、いつものように目を細めた。
「本当に、変わらないねえ、あんたは」
その言葉に、リゼルは苦笑した。「変わらない」というのは、この村では、ある種の暗黙の了解になっていた。村人たちは皆、リゼルが普通の人間ではないことを、薄々察している。だが誰も、それを口にはしない。ただ静かに、受け入れている。
「あたしがまだミラくらいの歳だった頃さ」
グレイス婆さんが、豆を植える手を止めずに続けた。
「祖母から聞いた話がある。アーヴァインの家が燃えた夜、生き残ったお嬢様が一人だけいたって。その方が、今もこの土地のどこかで、静かに暮らしているんじゃないかって」
「……噂、なのね」
「噂さ。でもね、リゼルお嬢さん。もしその噂が本当だったとしても、この村の人間は、誰もそれを王都に告げ口したりしないよ。あんたがこの土地を、二百年、静かに見守ってくれてたことくらい、みんな分かってるからね」
リゼルは、何も言えなかった。ただ、胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じていた。
(見守っていた、なんて大層なものじゃない。私はただ、死ぬ場所を探して、彷徨っていただけなのに)
そう思う一方で、グレイス婆さんの言葉が、じわじわとリゼルの中に染み込んでいくのも、確かだった。
昼過ぎ、リゼルはミラと二人で、村外れの丘に腰を下ろしていた。ミラは、もらった本の続きを、興奮気味に語っている。
「それでね、主人公が、竜の谷を越えるところがすっごく格好良くて!」
「へえ、どんな風に?」
「言葉じゃ説明できないから、姉さまも早く読んでよ!」
ミラの無邪気な笑顔を見ていると、リゼルは不思議な感覚に襲われた。二百年間、数えきれないほどの人々と出会い、そして数えきれないほどの人々を見送ってきた。ミラもいずれ、年老いて、リゼルより先にこの世を去るだろう。それは、避けようのない事実だった。
「姉さま、どうしたの? 難しい顔してる」
「ううん、何でもない」
「――ねえ、姉さま」
ミラが、不意に真剣な顔になった。
「姉さまって、時々、すごく遠くを見てるみたいな顔するよね。私たちには見えない、何か別のものを見てるみたいな」
リゼルは、少し驚いた。子どもの観察眼というのは、時に大人よりもずっと鋭い。
「見えるわよ、色々と」
「教えてくれないの?」
「いつか、教えられる日が来たら、教えるわ」
「約束だよ」
ミラは小指を差し出した。指切りという、この国の子どもたちの間で流行っている習慣だった。リゼルは、少し戸惑いながらも、その小さな指に自分の指を絡めた。
「約束」
その瞬間、リゼルの脳裏に、二百年前の記憶が蘇った。カイルと交わした、同じような指切り。あの頃の約束は、果たされることなく終わった。
(今度こそ、果たせる約束を、一つくらい持てたら――)
そう思った自分に、リゼルは少し驚いた。二百年間、リゼルの心の中心にあったのは、いつも「死」と「終わり」だった。だが今、初めて「約束を守る」という、生きることを前提にした願いが、心の片隅に芽生えていた。
夕方、村の広場では、収穫祭の準備が始まっていた。
「今年も収穫祭、来てくれるでしょう、リゼルお嬢さん?」
村長が、リゼルに声をかけた。
「ええ、もちろん」
「毎年、あんたが来てくれると、村の連中も安心するんだよ。何と言うか――『アーヴァインの土地は、まだ見守られている』って、そう思えるからね」
村長の言葉にも、グレイス婆さんと同じ響きがあった。リゼル自身は気づいていなかったが、この二百年の間に、リゼルは知らず知らずのうちに、この土地の「守り神」のような存在になっていた。死なない体で彷徨い続ける姿は、村人たちの目には、まるで土地に宿る精霊のように映っていたのかもしれない。
その夜、屋敷の廃墟に戻ったリゼルは、ドロテアに問いかけた。
「ドロテア。私、この二百年、無駄に過ごしてきたわけじゃなかったのかしら」
「今更、何をおっしゃいます」
「今更よ。だって私、ずっと『死に方』のことばかり考えてた。でも今日、色んな人と話して思ったの。私が生きてきたこの時間、ちゃんと誰かの記憶に、何かを残していたのかもしれないって」
ドロテアは、静かに頷いた。
「お嬢様。私はこの二百年、ずっとお側でお仕えしてきました。その中で、一つだけ確信していることがあります」
「何?」
「お嬢様が死のうとするたび、この村の誰かが、必ず心配していました。表には出さずとも、皆、お嬢様の身を案じていた。――それは、決して無駄な二百年ではなかった、ということの証だと思います」
リゼルは、窓の外の、収穫祭の準備で賑わう村の灯りを見つめた。
「王宮に行くのは、明日にしましょう」
「心境の変化ですか」
「ええ。行く前に、もう一晩だけ、この村の灯りを、ちゃんと覚えておきたいの」




