第一章 崖と、二百十八回目
二百年という歳月は、人を大抵のことに慣れさせる。
リゼル・アーヴァインにとって、それは「死ぬこと」だった。より正確に言えば、「死のうとして、失敗すること」に。
「――一、二、三」
崖の下、岩に叩きつけられた体を仰向けに横たえながら、リゼルは律儀に数を数えていた。今のが何回目だったか、数え間違えないようにするための、二百年来の習慣だった。
骨が軋みながら繋がっていく。潰れた内臓が、まるで巻き戻しの魔法のように元の位置へと戻っていく。この不快な感覚には、二百年経っても慣れることがなかった。
「――今ので、二百十八回目、ね」
空を見上げながら、リゼルは呟いた。雲一つない秋晴れだった。こんな日に飛び降りるのは、少しもったいない気もしたが、死に方を試すのに天気を選んでいては、いつまで経っても終わらない。
「お嬢様」
崖の上から、聞き慣れた声が降ってきた。ドロテアが、いつもの仏頂面でこちらを見下ろしている。
「今日は崖でしたか。先週は川に飛び込んで、先々週は毒キノコを一籠食べて、その前は雷の落ちた木に抱きついて」
「数えなくていいわ。分かってる」
「分かっていて毎回死のうとするのが、私には理解できません」
リゼルはよろよろと立ち上がり、服についた泥と血を払った。傷はすでに塞がりかけている。もう痛みもほとんど感じない。
「ドロテア。あなた、私と付き合って二百年でしょう。いい加減、理解してくれてもいいと思うのだけれど」
「理解することと、賛成することは別ですので」
ドロテアが縄梯子を投げ落とす。リゼルはそれを掴み、崖を登り始めた。
「私を『死ねない体』にした奴が、必ずどこかに『解除の方法』を仕込んでいるはずなの。取引には、必ず抜け道がある」
「二百十七種類、試してなお見つからない抜け道を、まだ探すと」
「二百十八種類目を試すまでよ」
崖の上に登り切ると、目の前に広がるのは、見慣れた光景だった。アーヴァイン領――かつてリゼルの一族が治めていた土地は、二百年前の粛清の後、王家の直轄領として管理されてきた。屋敷は焼け落ちたままだったが、周辺の村々は、今もひっそりと人々の暮らしを続けている。
リゼルは、この土地を離れなかった。離れられなかった、と言うべきかもしれない。
「今日も、村に寄っていかれますか」
「ええ。ミラに、約束していた本を届けないと」
ミラというのは、村外れに住む少女の名だった。両親を早くに亡くし、祖母と二人で暮らしている。リゼルとは、三年前に偶然出会って以来の付き合いだった。
村への道すがら、ドロテアが不意に口を開いた。
「お嬢様。一つ、お伺いしてもよろしいですか」
「何」
「もし本当に『死ぬ方法』を見つけたとして――お嬢様は、本当にそれを実行なさるおつもりですか」
リゼルは、少し考えてから答えた。
「分からない。ただ、選べる状態でいたいの。今の私には、選ぶことすら許されていない。それが、一番苦しい」
「――なるほど」
ドロテアは、それ以上何も言わなかった。だがその横顔には、二百年連れ添ったリゼルにも読み取れない、何か複雑な影が差していた。
村に着くと、ミラが道の途中で待ち構えていた。
「リゼル姉さま!」
駆け寄ってくる少女の笑顔に、リゼルは思わず口元を緩めた。二百年の間に出会った、数えきれないほどの人々の中でも、ミラの存在は、リゼルにとって特別な温かさを持っていた。
「本、持ってきてくれた?」
「ええ、約束通り」
リゼルは荷物から一冊の本を取り出した。王都で見つけた、異国の冒険譚だった。ミラは目を輝かせて受け取り、その場でぱらぱらとページをめくり始めた。
「姉さま、また新しい傷、増えてる」
ミラが不意に、リゼルの首筋に残るかすかな傷跡に気づいた。崖から落ちた際の傷は、完全には消えきらず、うっすらと痕を残していた。
「痛くないの?」
「痛いわよ。でも、すぐ治るから平気」
「早く治るといいね」
その、なんの気なしの一言が、リゼルの胸の奥に、小さな棘のように刺さった。
(早く治るといい、じゃなくて――もう傷つかないでいて、と願われたことなんて、二百年、一度もなかったかもしれない)
村での用事を済ませ、夕暮れ時、リゼルとドロテアは屋敷の廃墟へと戻る道を歩いていた。
「ドロテア。今日、王都で妙な噂を聞いたと言っていたわね」
「ええ。――『アーヴァイン家の秘宝を継ぐ者』が、王宮に召し抱えられたと」
リゼルの足が、止まった。
「秘宝を継ぐ者……? アーヴァインの生き残りは、私だけのはずよ」
「ですから妙な噂だと申し上げております」
夕日が、廃墟となった屋敷の残骸を、赤く染めていた。二百年前、あの夜と同じ色の空だった。
「もし本当だとすれば――」
「私の家族を殺した犯人に、繋がるかもしれない」
リゼルの目の色が、変わった。二百十八回の死を経験してもなお消えなかった、たった一つの熱が、そこに宿っていた。
「決めた」
「まさか」
「王宮に忍び込んで、その『秘宝を継ぐ者』とやらに会いに行く」
「お嬢様のそれ、もはや死に方の実験ではなく、単なる無謀な行動の言い訳になっていませんか」
「同じことよ」
リゼルは、廃墟の前で立ち止まり、二百年ぶりに、少しだけ口の端を上げた。
「探しているものが『死に方』だろうと『真実』だろうと、私の足はどうせ前にしか進めない」




