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不死の令嬢は死に方を忘れた  作者: わがままな饅頭


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プロローグ 二百年前の夜

 その夜、アーヴァイン家の屋敷は、静かに燃えていた。


 炎はまだ屋根には届いていない。だが厨房のあたりから上がる黒煙と、廊下に転がる使用人たちの骸を見れば、これが「事故」などではないことは、十七歳のリゼルにも分かった。


「お嬢様、こちらへ!」


 執事のドロテアが、リゼルの手を強く引いた。ドロテアの服にはすでに幾筋も血が滲んでいて、それが誰のものなのか、リゼルは怖くて聞けなかった。


「お父様は、お母様は――」


「今は、走ってください!」


 廊下の角を曲がった瞬間、リゼルは見てしまった。


 父の書斎の扉が開け放たれ、その中で、父が――アーヴァイン伯爵が、何者かに斬りつけられて倒れている姿を。傍らには、母が力なく座り込み、父の体を抱きしめていた。母の口からは、もう言葉にならない嗚咽だけが漏れていた。


「お父様!」


 叫んで駆け寄ろうとしたリゼルを、ドロテアが体ごと抱きかかえて止めた。


「なりません、お嬢様! 今、あちらに近づけば――」


「離して! お父様が、お母様が!」


「お嬢様だけでも、生き延びていただかなくては……!」


 ドロテアの声は、震えていた。二百年の付き合いの中で、リゼルが後にも先にも一度しか聞いたことのない、執事の泣きそうな声だった。


 書斎の奥、崩れた本棚の陰から、黒い外套を纏った人物が姿を現した。顔は見えない。ただ、その手に持つ杖の先端から漏れる紫色の光だけが、暗闇の中で不気味に揺れていた。


「――アーヴァインの当主。取引の時間だ」


 その声には、感情というものが一切感じられなかった。まるで、契約書を読み上げる書記官のような、平坦な響き。


「私が、代わりに」


 母が、震える声で立ち上がった。


「娘には、手を出さないで。お願い」


「取引は、既に始まっている。今更、対象を変えることはできない」


「なら、私が対価を払う。何でもいい、娘の代わりに」


 黒外套の人物は、しばし沈黙した後、静かに頷いた。


「――良かろう。ただし、対価は等価でなければならない。お前が差し出すもの次第で、娘に課される内容が変わる」


 母は、迷わなかった。


「私の『声』を。この子が私の声を、二度と思い出せなくなっても構わない。だから――」


「母上!」


 リゼルが叫んだ声は、もう母には届かなかったのかもしれない。母の口から、色を失うように言葉が消えていった。まるで、声そのものが吸い取られていくように。


 同じ頃、屋敷の別の場所では、五歳の弟が、乳母に抱えられて必死に逃げようとしていた。だが逃げ道は、あらかじめ塞がれていた。黒外套の人物の手先――顔の見えない、影のような追手たちに囲まれ、逃げ場を失っていた。


 弟の身代わりとなったのは、同じ年頃の孤児だった。屋敷に拾われ、まだ数ヶ月しか経っていなかったその子どもの名前を、リゼルは知らなかった。ただ、後に弟から聞かされた真実によれば、その一夜のうちに、弟の「姿」は何かに書き換えられ、身代わりの子どもが「アーヴァインの息子」として、代わりに命を落としたのだという。


 リゼルがそのすべての真実を知るのは、二百年も先のことだった。


 その夜、リゼルが知っていたのは、ただ一つ。


 ――婚約者のカイルが、屋敷の外で、家族を守ろうとして命を落としたということだけだった。


「カイル……」


 庭先に倒れたカイルの体に、リゼルは駆け寄った。ドロテアはもう、止めなかった。止める意味がないと、悟っていたのかもしれない。


 カイルの傷は、深すぎた。もう手の施しようがないことは、剣も医術も知らないリゼルにさえ分かった。


「リゼル……逃げて、くれ」


「嫌よ! 私、あなたと――」


「約束、しただろう。二人で、生きるって」


 カイルの手が、力なくリゼルの頬に触れた。その手が、地面に落ちるまでの短い時間が、リゼルにとって二百年経った今でも、最も鮮明に残っている記憶だった。


 屋敷の奥、崩れ落ちる炎の中に、古めかしい台座があった。伝承では「アーヴァインの秘宝」と呼ばれ、代々当主のみが触れることを許された、正体不明の遺物。


 黒外套の人物が去った後、リゼルは、ふらふらとその台座に近づいた。


「お嬢様、いけません!」


 ドロテアの制止も、もう耳に入らなかった。


 遺物に触れた瞬間、リゼルの脳裏に、声とも呼べない何かが流れ込んできた。


 ――何を望む。


 考えるまでもなかった。


 ――カイルを、返して。家族を、みんな。


 ――対価は。


 リゼルは、その時点では「対価」という言葉の本当の重さを、理解していなかった。


 ――何でもいい。私の全部でいい。


 光が、リゼルの体を包んだ。


 そして、遺物は――半分だけ、約束を守った。


 カイルは戻らなかった。家族も戻らなかった。ただ、リゼル自身が「死ねない体」に変えられた。それが、遺物がリゼルに返した、ひどく歪んだ形の「対価」だった。


 二百年後、リゼルはまだ知らない。


 あの夜、家族全員が差し出した「対価」の全貌も。


 弟が生きていたという事実も。


 そして、あの夜の「本当の首謀者」が、遠くない場所に、今もなお息をひそめていることも。


 物語は、二百二十一回の「死に損ない」を経て、ようやくその真実にたどり着く。

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