こんなにも幸せなのに
結婚して一か月が過ぎた頃には、私はすっかりヴァルモン侯爵家での暮らしに慣れていた。
朝はアドリアンと一緒に食事を取り、彼が執務へ向かうのを見送る。午前中は侯爵夫人として帳簿に目を通したり、使用人たちと屋敷のことを相談したりして、午後になると時折、彼の執務室へお茶を届ける。
最初の頃は、夫の仕事を邪魔してしまうのではないかと遠慮していた。一度など、アドリアンが朝から忙しそうだったので侍女にお茶を託したところ、その日の夕食で彼から少し残念そうに尋ねられたことがある。
「今日は来なかったね」
「お忙しいかと思いまして」
「忙しかったよ」
「でしたら、やはりお邪魔しなくて正解だったのでは?」
そう答えると、アドリアンはナイフを置き、まるで私の方こそ分かっていないと言いたげに目を細めた。
「忙しかったけれど、それでも君には来てほしかったんだ」
あまりにも自然に言われてしまい、私は返す言葉を失った。
それ以来、よほど立て込んでいる日でなければ、私は自分でお茶を運ぶようにしている。
今日もそうだった。
執務室の扉を叩くと、中から落ち着いた声で返事が聞こえる。
「どうぞ」
「失礼いたします」
部屋へ入ると、アドリアンは大量の書類に囲まれていた。机の上には処理を待つ書類が何段にも積み上がり、いつもは涼しげな目元にも、今日はわずかに疲労の色が滲んでいる。
それなのに私の姿を見つけた瞬間、その表情は目に見えて柔らかくなった。
「クラリス」
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう。ちょうど休もうと思っていたところだ」
本当だろうか、と少し疑ってしまう。
彼の右手にはまだペンが握られたままで、机の中央には途中まで目を通したらしい報告書が開かれている。少なくとも、私が来なければもうしばらく仕事を続けていたようにしか見えなかった。
「少し、お疲れなのではありませんか?」
「そう見える?」
「ええ。いつもより目元が少し」
私はソファの前に茶器を整えながら答えた。
アドリアンは素直に立ち上がると、なぜか私の向かいではなく隣へ腰を下ろす。
「それでは、少し甘えさせてもらおうかな」
「私にできることでしたら」
「それなら、手を貸してくれる?」
差し出された手へ、自分の手を重ねる。
もう、こうして彼に触れるだけで慌てることはなくなった。
私たちの魔力は、触れ合うたびに以前より自然と馴染んでいく。私の月の魔力が彼の中に宿る強大な火を穏やかに整え、それに応えるように、アドリアンの温かな魔力がこちらへ返ってくる。
魔力の循環でしかないはずなのに、その心地よさはいつの間にか、彼の手そのものの温かさと区別がつかなくなっていた。
「やはり、君に触れていると楽になる」
「でしたら、もっと早くお呼びくださればよかったのに」
「それを許してしまうと、仕事のたびに君を呼びたくなりそうだからね」
「それくらいでしたら構いませんよ」
「本当に?」
「もちろんです」
何気なく答えただけなのに、アドリアンは少しだけ目を細めた。
「それはなかなか危険な許可だな」
「何がですか?」
「そんなことを言われたら、本当に毎日呼びつけてしまうかもしれない」
冗談めいた声音だったが、重ねた手を包む指先には、ほんの少しだけ力がこもっていた。
「それほど月属性の効果が大きいのですか?」
「魔力への効果なら、確かに大きいよ」
「魔力への?」
「それ以外にも、君が来ると気分がいい」
アドリアンはなんでもないことのように言った。
「今日は来るだろうかと思いながら仕事をしている自分に気づくくらいにはね」
まただ。
この人は、こういうことをあまりにも平然と言う。
以前なら、きっと妻を安心させるための言葉なのだと受け流していただろう。けれど最近は、そのたびに胸の奥へ小さな熱が残るようになってしまった。
「旦那様は、本当に……」
「本当に?」
「いえ、なんでもありません」
「途中でやめられると、余計に気になるのだけれど」
楽しそうに言われ、私は誤魔化すように紅茶へ手を伸ばした。
そんな私の横で、アドリアンが立ち上がろうとして、わずかに眉間を押さえる。
「やはり、お疲れでしょう?」
「少しね。今日は数字を見る仕事が多くて、さすがに目が疲れたらしい」
「無理をなさってはいけません」
「君にそう言われると、休まなければならない気分になるな」
私は彼を見上げ、それから自分でもよく分からないまま立ち上がった。
「そのまま座っていてください」
「どうするんだい?」
「少しだけ」
背後へ回り、そっと黒髪へ触れる。
いつも整えられている髪は、指を入れてみると思っていたより柔らかかった。月の魔力も少しだけ流し込むように意識すると、アドリアンの肩から目に見えて力が抜ける。
「……クラリス」
「はい?」
呼ばれて手を止めると、彼は少しだけ振り返った。
いつもの穏やかな顔ではあるものの、金色の瞳には隠しきれない喜びが浮かんでいる。
「今のを、もう一度してもらっても?」
「これですか?」
もう一度、髪をゆっくり撫でる。
「そう。それがいい」
「気持ちいいですか?」
「魔力もね」
「も?」
聞き返すと、アドリアンは声を立てずに笑った。
「妻に頭を撫でてもらうというのは、思っていた以上に幸せなものらしい」
「……少し子供みたいです」
「そうかな」
「ほんの少しだけ」
「それなら、君の前でくらいはそんな男でも構わないだろう?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
この人は外ではいつも完璧だ。
若くして侯爵家を率い、王国でも指折りの魔術師として知られ、社交の場では誰に対しても隙がない。女性たちからどれほど熱い視線を向けられても、優雅に受け流してしまう。
そんな人が、私の前では少しだけ肩の力を抜いてくれる。
それを嬉しいと思う気持ちは、もう月属性の妻として役に立てたから、という理由だけでは説明できなかった。
数日後、私たちは侯爵家が長年支援している孤児院を訪れた。
春には古くなった校舎を建て替える予定があり、その準備状況を確認するためだったのだが、到着した途端に子供たちが一斉にこちらへ駆けてきた。
「奥様!」
「まあ、待って。そんなに急いだら転びますよ」
勢いのまま飛びついてきそうな子供たちに合わせてしゃがみ込むと、たちまち周囲に小さな輪ができた。
「おくさま、これ見て!」
「お花?」
「うん!」
小さな手から差し出された白い花を受け取る。
「とても綺麗ですね。私にくださるの?」
「うん!」
「ありがとう。大切にしますね」
笑いながら顔を上げると、少し離れたところでアドリアンがこちらを見ていた。
口元にはいつもの穏やかな微笑みが浮かんでいる。
けれど、その眼差しはひどく優しくて、なぜか見つめ返すのが少し恥ずかしくなった。
「どうされました?」
「いや。君は本当に子供に好かれるんだなと思ってね」
「そうでしょうか」
「これだけ囲まれていては、否定できないだろう?」
彼がこちらへ歩いてくると、一人の男の子が今度はアドリアンの裾を引っ張った。
「こうしゃくさま、おくさまとあかちゃんいるの?」
「こら!」
少し離れていた先生が青ざめて駆け寄ってくる。
「申し訳ございません、侯爵様!」
「構わないよ」
アドリアンは気にした様子もなく、子供へ視線を落とした。
「まだいないんだ」
「じゃあ、いつ?」
「それは私にも分からないな」
そこで彼が、ゆっくり私を見る。
その表情だけで、何を言い出すのかなんとなく予想できてしまった。
「ただ、君との子なら、さぞ可愛いだろうとは思っているよ」
「……またそのお話ですか」
「何度でもするとも。私は楽しみにしているからね」
「子供たちの前で仰ることでは……」
「聞かれて困るような話でもないだろう?」
本当に、この人は平然としている。
こちらばかりが恥ずかしくなるのが悔しくて、私は少しだけ反撃してみることにした。
「女の子でしたら、やはり私に似てほしいのですか?」
「そうだね」
「では、男の子なら?」
「それも君に似てほしいな」
「旦那様に似なくてもよろしいのですか?」
少し意地悪のつもりだった。
けれどアドリアンは考える素振りすら見せず、まるで当たり前のことのように微笑んだ。
「私には、君の血を引いた子というだけで十分可愛い気がしてならないよ」
胸の奥が急に熱くなる。
冗談でも、社交辞令でもない。
少なくとも今の私には、そう聞こえた。
「……そんなことを言われますと」
「うん?」
「本当に、期待してしまいます」
口にしてから、自分でも驚いた。
アドリアンもわずかに目を見開いたが、私が慌てて言葉を継ぐより先に、柔らかな笑みを浮かべる。
「それなら、一緒に期待しよう」
その言葉を聞いた瞬間、初めて私は、この人との子供を本当に見てみたいと思った。
女の子なら、彼の金色の瞳がいい。
男の子なら、アドリアンのように穏やかに笑う人になってほしい。
以前なら、きっと魔術資質や侯爵家の跡継ぎとしての能力ばかり考えていただろう。けれど今は、そんなことより先に、この人との間に生まれた子供なら、ただそれだけで愛しいに違いないと思ってしまう。
それはきっと、政略結婚の妻として抱くべき期待とは少し違う。
そう気づくと怖くなり、私は胸の奥に生まれた小さな願いを、それ以上深く考えないようにした。
けれど、私の気持ちはもう、結婚したばかりの頃と同じ場所にはなかった。
そのことをはっきりと思い知らされたのは、それから一週間ほど経った日のことである。
王都へ買い物に出た帰り、私たちは付き合いのある貴族の邸宅へ立ち寄った。
そこで、以前の夜会でも見かけた伯爵令嬢と再会した。
淡い金髪に青い瞳を持つ、とても美しい女性だった。華やかな笑顔と洗練された物腰は、社交界で育った貴族令嬢そのもので、誰が見てもアドリアンの隣に立って不自然ではない。
「ヴァルモン侯爵様、お久しぶりですわ」
「ええ。先日の夜会以来ですね」
「ご結婚されてから、ますますお会いできなくなりました」
「家に帰る理由が増えましたので」
アドリアンはいつものように、ごく自然に答えた。
令嬢は一瞬だけ困ったように笑う。
私はその横で、何も言わずに二人のやり取りを眺めていた。
以前の私なら、こんな場面で何かを感じることはなかったはずだ。
夫が美しい女性と話すのは社交の一環で、侯爵という立場なら当然のこと。むしろ妻である私が嫉妬を見せる方が、みっともないとさえ思っていた。
それなのに、今日は胸の奥がざわついて仕方がない。
彼女がアドリアンへ向ける視線が気になる。
以前から好意を持っていたのではないかと考えてしまう。
そして何より、もし私との政略結婚がなければ、アドリアンはこういう女性を選んでいたのではないかという想像が、胸の奥へ細い棘のように刺さった。
帰りの馬車では、自分でも分かるほど口数が少なくなった。
向かいに座っていたアドリアンが、しばらくして静かに口を開く。
「今日は随分静かだね」
「そうでしょうか」
「ああ。疲れた?」
「少しだけ」
笑ってみせたものの、どうやら誤魔化しきれなかったらしい。
アドリアンは私の顔をしばらく見つめたあと、わずかに目を細めた。
「私が、彼女と話していたから?」
心臓が大きく跳ねる。
「……まさか」
「それなら、少し残念だな」
「え?」
思わず顔を上げる。
アドリアンは穏やかに笑っていた。
「少しくらい、妬いてもらえたのかと思った」
「旦那様、そのようなことを聞くものではありません」
「そうかな」
「私は旦那様の交友関係に口を出すつもりはございません」
そう答えた瞬間、自分でも驚くほど胸が痛んだ。
正しいことを言ったはずなのに、その言葉が自分の気持ちとは正反対だったからだ。
アドリアンは、そのわずかな揺れを見逃さなかったらしい。
「クラリス」
「はい」
「私は、君に口を出されても嫌ではないよ」
「……え?」
「むしろ君が私を独占したいと思ってくれるなら、それは随分嬉しいことだ」
からかっているようには聞こえなかった。
ただ静かに、本心を伝えているようだった。
「ですが、そんなことを言えば、旦那様を窮屈にしてしまいます」
「君は私の妻だろう?」
「そうですけれど」
「なら、少しくらい我儘を言ってもいい。私は君に、いつでも完璧な侯爵夫人でいてほしいわけではないんだよ」
アドリアンが身を乗り出し、私の手を取る。
触れた瞬間、いつものように互いの魔力が穏やかに混じり合った。
「……旦那様は、お優しすぎます」
「君には、そうありたいんだ」
「どうしてですか?」
「それはもう、何度も答えているつもりなのだけれど」
「私は、まだ分かりません」
「そうだろうね」
アドリアンは困ったように、けれどどこか楽しそうに笑う。
「だからこそ、急がずに分かってもらおうと思っている」
「何をです?」
「君が私にとって、どれほど特別な女性なのかを」
こんなことを言われるたびに、胸の奥が揺れる。
期待してはいけないと分かっているのに、彼の言葉を一つずつ拾い集めて、そこに別の意味を探したくなってしまう。
「もし、私が……」
気づけば、言葉が零れていた。
「もし私が、旦那様に他の女性を選んでほしくないと言ったら、どうなさいますか?」
言ってしまった。
母なら、きっと叱るだろう。
立派な妻は夫を縛るようなことをしてはいけないと、幼い頃から何度も教えられてきた。
けれどアドリアンは怒るどころか、ほんの一瞬だけ驚いたあと、ゆっくりと目元を和らげた。
「それは願ってもない話だな」
「……嫌ではないのですか?」
「なぜ嫌なんだい」
「窮屈ではありませんか?」
「全く」
迷いのない返事だった。
「むしろ安心してほしい。私は今のところ、君以外の女性を選ぶ予定はないよ」
「今のところ?」
反射的に聞き返してしまう。
アドリアンが目を細めた。
「そこに食いつくんだね」
「……意地悪です」
「すまない。少し嬉しくて、つい」
笑いながら、彼は私の手の甲へ口づける。
「訂正しよう。今後も予定はないよ」
その一言だけで、苦しかった胸の奥が少しだけ軽くなる。
私はもう、彼の言葉に安心してしまうほど、この人を好きになっているらしい。
それが嬉しくて、同時に怖かった。
こんなにも優しくされて、こんなにも大切にされることに慣れてしまったら、もしそれを失った時、私は以前の自分へ戻れるのだろうか。
「クラリス」
呼ばれて顔を上げる。
アドリアンはまだ私の手を握っている。
私は迷った末、その手をそっと握り返した。
その小さな行動に、彼の目元が嬉しそうに緩む。
そんな顔をされると、ますます手を離せなくなった。
それから数日後。
王立魔術院から、私たちの魔力に関する正式な検査結果が届いた。
結婚後、月属性と火属性の同調率を詳しく調べるため、私たちは何度か魔術院の検査を受けていた。その最終報告を、担当の研究官がわざわざ侯爵邸まで届けに来たのである。
応接室には、私とアドリアン、それから白衣姿の研究官が向かい合って座っていた。
「結論から申し上げますと、お二人の魔力同調率は事前予測を遥かに上回っております」
「それは良い結果ということですか?」
私が尋ねると、研究官は頷いた。
「はい。少なくとも魔術師としては、極めて理想的な組み合わせです。侯爵様の火属性は、奥様の月属性によって大幅に安定しております。また、接触時の増幅率についても、通常の月属性保持者と比較して非常に高い数値が出ています」
隣に座るアドリアンが、穏やかに微笑む。
「それは私自身も実感しているよ」
私はその言葉を聞きながら、少しだけ嬉しくなった。
今ではもう、月属性として彼の役に立つことだけが自分の価値だとは思っていない。
それでも、自分の持つ力でこの人を支えられているという事実は素直に嬉しかった。
「では、将来の子供についても、やはり高い魔術適性が期待できるのでしょうか」
何気なく尋ねたつもりだった。
けれど、その瞬間。
研究官の表情が、ほんのわずかに曇った。
見逃してしまいそうな変化だったが、先ほどまでの喜ばしい報告とは明らかに空気が違う。
「……その点について、一つご説明しなければならないことがございます」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
アドリアンも同じものを感じたのか、笑みを消して研究官を見る。
「何か問題が?」
「はい」
研究官は手元の資料を確認しながら、慎重に言葉を選んでいた。
「お二人の同調率は、確かに非常に高い。ですが、我々の予想を超えて高すぎるのです」
「高すぎる?」
「月属性にはごく稀に、非常に強大な魔力を持つ相手と過剰な同調を起こす例があります」
嫌な予感がした。
先ほどまで、こんなにも良い結果だと思っていたはずなのに。
「それが、何か?」
「通常、受胎に際しては母体側の魔力が胎児を保護します。しかし奥様の場合、侯爵様の火属性魔力に強く反応しすぎる可能性が高いと考えられます」
研究官は一度言葉を切った。
「その影響によって、妊娠そのものが成立しにくくなる可能性があります」
一瞬、意味が理解できなかった。
「……成立、しにくい?」
自分の声なのに、ひどく遠く聞こえる。
「はい」
「それは、どの程度なのでしょう」
「現時点で断定はできません。ただ、一般的なご夫婦と比較した場合、授かる可能性はかなり低くなると考えられます」
隣でアドリアンが何かを尋ねていた。
どの程度の確率なのか。
治療や魔術的な調整によって改善できる可能性はあるのか。
彼はいつものように冷静に、必要な情報を一つずつ確認している。
けれど、その声が私の耳にはうまく届かなかった。
頭の中では、たった一つの言葉だけが何度も繰り返されていた。
子供を、授かりにくい。
私は月属性だった。
その力によって、近しい者の魔力を強化し、次の世代には高い魔術適性をもたらす。
だからこそ、貴族社会では価値があると教えられてきた。
ヴァルモン家に嫁いだのも、そのためだと思っていた。
アドリアンとの間に、優秀な子供を残すため。
そう信じていた。
なのに。
私自身が、子供を授かれないかもしれない。
「クラリス」
アドリアンの声で、ようやく我に返った。
気づけば彼が心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「顔色が悪い」
「……大丈夫です」
「大丈夫には見えないよ」
「本当に、平気です」
笑わなければ。
侯爵夫人として、きちんとしていなければならない。
そう思うのに、頬がうまく動いてくれなかった。
つい数日前まで、私は考えていたのだ。
アドリアンとの子供なら、どんな子になるだろう。
女の子なら、彼の金色の瞳がいい。
男の子なら、彼のように穏やかに笑う人になってほしい。
いつの間にか、そんな未来を本気で思い描いていた。
けれど、その未来は最初から当然に与えられているものではなかったのだ。
胸の奥で、ずっと昔に聞いた母の言葉が蘇る。
『あなたは月の娘です』
『血を残し、夫を支える。それが妻の務めですよ』
『もし第一夫人が役目を果たせないのであれば、夫が別の女性を迎えることを妨げてはいけません』
何度も聞いた言葉だった。
幼い頃から、当たり前のこととして教え込まれてきた。
そうだ。
私は分かっていたはずなのだ。
自分が侯爵家に必要とされる役割を果たすために嫁いだのだと、ずっとそう信じてきた。
そして、その役割を果たせないのなら。
アドリアンには、別の女性が必要になる。
私より美しくて、彼に相応しくて、そして彼の子供をきちんと産める女性が。
「クラリス?」
心配そうに覗き込む金色の瞳を見た瞬間、胸が潰れそうになった。
嫌だと思った。
そんな未来は、どうしようもなく嫌だった。
この人が他の女性へ手を差し伸べるところを見たくない。私にしてくれたように、その女性のために椅子を引き、髪へ触れ、綺麗だと笑う姿など想像したくもない。
その人との間に生まれた子供を抱いて、幸せそうに笑うところなんて、きっと耐えられない。
私はもう、以前のように「それが貴族の妻の役目だから」と笑って受け入れられる女ではなくなっていた。
それでも。
私が嫌だからという理由だけで、アドリアンの未来を縛ることもできない。
愛しているからこそ、この人から侯爵としての未来を奪ってはいけないのだと、幼い頃から染み込んだ価値観が私を責め立てる。
私は膝の上で、そっと拳を握った。
逃げられない。
いつか来るかもしれないと思いながら、考えないようにしていた瞬間が、とうとう現実になってしまった。
アドリアンを愛してしまった今になって。
――ああ。
ついに、その時が来てしまったのだ。




