政略結婚だと思っていたのは、私だけでした
その夜、私はほとんど眠れなかった。
目を閉じるたび、王立魔術院の研究官から告げられた言葉が何度も蘇る。私とアドリアンの魔力同調率は極めて高く、その相性の良さが、かえって受胎を難しくする可能性があるという。
子供を授かれないと決まったわけではない。
それでも、一般的な夫婦に比べれば可能性は低い。
その事実だけでも十分に苦しいはずなのに、私の胸をもっと強く締めつけていたのは、その先にある未来だった。
もし私が子供を産めないのなら、アドリアンには別の女性が必要になる。
ヴァルモン侯爵家は、代々強力な火属性魔術師を輩出してきた名門だ。爵位も領地も、その血に宿る魔術資質も、次代へ繋いでいかなければならない。
ましてアドリアン自身は、王国でも屈指の火属性魔術師である。
その血を残すことは、侯爵として当然の責務なのだろう。
そう考えるたびに、幼い頃から母に教え込まれてきた言葉が、まるで昨日聞いたばかりのように鮮明に蘇った。
貴族の娘は、愛されるために結婚するのではない。
夫を支え、家を守り、血を残す。
必要であれば、別の夫人を迎えることも受け入れなければならない。
父には、母以外にも二人の夫人がいた。
母は一度としてそれを責めず、むしろ父が家を存続させる責任を果たしている証なのだと、幼い私に何度も聞かせていた。
だから私も、同じようにできると思っていた。
結婚するまでは。
アドリアンを好きになるまでは。
「……嫌だわ」
静かな寝室に、自分の声が落ちる。
もしアドリアンが別の女性へ手を差し伸べたら。
その女性のために椅子を引き、髪へ触れ、綺麗だと笑ったら。
私にしてくれたように名前を呼び、朝食を共にして、庭を歩き、将来の話をしたら。
そしていつか、その人との間に生まれた子供を抱き上げて、幸せそうに笑ったら。
想像するだけで、胸の奥が押し潰されそうになった。
私はいつの間に、こんなにも欲張りになってしまったのだろう。
最初はただ、侯爵夫人として役目を果たせればそれでいいと思っていた。
月属性として彼の魔力を支え、侯爵家に必要とされる子供を産み、妻として恥ずかしくない振る舞いをする。
それだけで十分だと信じていた。
今は違う。
朝になればアドリアンに会いたい。
一緒に食事をしたい。
午後になれば執務室へお茶を運びたいし、夜になれば今日あったことを話したい。
名前を呼んでほしい。
私だけを見てほしい。
この人に、愛されたい。
そこまで考えた瞬間、胸の奥に隠していたものへ、自分で触れてしまったような気がした。
私は、アドリアンを愛している。
それを認めてしまえば、何もかも簡単だった。
簡単で、だからこそ苦しかった。
愛しているから離したくない。
けれど、愛しているからこそ、私の我儘で彼の未来を狭めてはいけない。
長い夜のあいだ何度考え直しても、最後には同じ結論へ戻ってしまった。
◇
翌朝、いつものように食堂へ向かうと、アドリアンはすでに席についていた。
私の姿を見た瞬間、金色の瞳が柔らかく細められる。
「おはよう、クラリス。……あまり眠れなかったようだね」
「分かりますか?」
「毎朝君の顔を見ているからね。そのくらいは分かるようになったよ」
そう言って、いつものように席を立ち、私のために椅子を引いてくれる。
「食欲はある?」
「少しなら」
「それなら無理はしないこと。昨日もほとんど夕食を取れていなかったし、果物だけでも口にしておこう」
「ありがとうございます」
こんな時まで、彼は優しい。
だから余計に、言いたくなくなる。
けれど、言わなければならない。
「アドリアン」
二人きりなので、名前で呼ぶ。
それだけで彼の目元が少し嬉しそうに緩む。
私はその表情を見ただけで、決意が揺らぎそうになった。
「お話があります」
私の声音から何かを察したのだろう。
アドリアンはカップを置き、先ほどまでの柔らかな雰囲気を静かに引き締めた。
「聞こう」
「昨日の検査についてです」
「ああ」
膝の上で両手を握り締める。
一晩かけて決めたことなのに、いざ口にしようとすると喉が塞がる。
それでも私は、どうにか言葉にした。
「第二夫人を、お迎えください」
食堂から音が消えたように感じた。
アドリアンはすぐには何も言わなかった。
驚きも怒りも、表情にはほとんど出ない。
ただ、金色の瞳だけが静かに私を見つめている。
その沈黙の方が、よほど怖かった。
「クラリス」
やがて彼は、いつもと変わらない穏やかな声で私の名を呼んだ。
「今の言葉は、聞かなかったことにしてあげる。だから、もう一度よく考えてから話してくれるかい?」
「考えました」
「そうか」
「一晩中」
そこで初めて、アドリアンの眉がわずかに寄った。
「それは困ったな。君が眠れなかった理由が、私に別の妻を勧めるためだったとは思わなかった」
「ですが、必要なことです」
「では、その理由を聞かせてもらおう」
「ヴァルモン家には跡継ぎが必要です。私は、その役目を果たせないかもしれません。でしたら、きちんとお子様を授かれる方を――」
「待って」
アドリアンが静かに言葉を遮った。
声を荒らげたわけではない。
けれど、そこにはこれまで感じたことのない強さがあった。
「君が子供を授かりにくい可能性がある。そのことと、私が別の女性を妻に迎えることが、私の中ではまだ一つも繋がっていない」
「でも、侯爵家を存続させなければなりません」
「方法なら他にもあるよ。親族から後継者を立ててもいいし、養子を迎えてもいい。それに、昨日の話は絶対に授からないというものでもなかっただろう?」
「そうですけれど……」
「なら、どうして君はそこまで急いで、私に別の妻を用意しようとするんだい?」
答えられなかった。
アドリアンはしばらく私を見つめたあと、少しだけ声音を和らげた。
「誰かに言われたのか?」
「いいえ」
「お母上?」
「母は何も知りません」
「では、これは君自身の希望なのかな」
胸が痛んだ。
何を聞かれているのか分かっている。
それでも答えたくなくて、私は視線を落とした。
「君自身が、私に別の女性を妻として迎えてほしいと思っているのかと聞いている」
逃げ道を塞ぐような言い方ではなかった。
むしろ、私の気持ちを確かめようとしてくれている。
だからこそ、嘘をつけなかった。
「……嫌です」
声が震えた。
「本当は、とても嫌です」
口にしてしまえば、もう止められなかった。
「あなたが他の女性と結婚するなんて嫌です。私にしてくださったように、その方へ手を差し伸べるのも、綺麗だと仰るのも、朝食を一緒に召し上がるのも嫌です。その方との間にお子様が生まれれば、アドリアンはきっと大切になさるでしょう。それを私が笑って見ているなんて、とてもできません」
言葉にするたび、自分がどれほど彼を好きになっていたのかを思い知らされる。
「でも、それ以上に、私があなたの未来を奪うのは嫌なのです」
「クラリス」
「私は月属性だから、あなたの妻に選ばれたのでしょう?」
その瞬間、彼の表情が初めて大きく変わった。
「……何?」
「あなたの魔力を支えて、ヴァルモン家に優れた魔術資質を持つ子供を残すために。だからこそ、私たちの婚姻はこれほど望まれたのでしょう?」
アドリアンは何も言わない。
私はその沈黙を肯定だと思い、さらに言葉を重ねた。
「なのに私は、その一番大切な役目さえ果たせないかもしれない。それならせめて、私が邪魔をしてはいけないと――」
「待って、クラリス」
今度は、明らかに余裕のない声だった。
怒鳴られたわけではない。
けれど、いつもどんな時でも穏やかな彼から、その柔らかな余裕が一瞬だけ消えた。
「一つ確認させてほしい」
「はい」
「君は今までずっと、私が月属性の妻を必要としていたから、君と結婚したと思っていたのか?」
「……違うのですか?」
アドリアンはしばらく私を見つめていた。
やがて目を閉じ、額へ指を当てて深く息を吐く。
「なるほど」
その声には、怒りよりも呆れと後悔が混じっていた。
「どうやら私は、自分で思っていた以上に失敗していたらしい」
「失敗?」
「急がずに君へ伝わればいいなどと、ずいぶん余裕ぶっていたことだよ」
彼は席を立つと、私の前まで歩いてきた。
そしてそのまま片膝をつき、椅子に座る私と視線の高さを合わせる。
その仕草だけで、胸が大きく鳴った。
「クラリス。よく聞いて」
「はい」
「私は、君が月属性だから君と結婚したわけではない」
意味が分からず、私は瞬きをした。
「ですが……」
「順番が逆なんだ」
「順番?」
「私は君と結婚したかった。だから、君と結婚するために使える理由を探した」
言葉の意味が理解できず、しばらく何も返せなかった。
「王立魔術院へ、私と君の魔術資質を調べるよう依頼したのも私だよ」
「アドリアンが?」
「ああ。君との婚姻を最初に申し込んだ時、君の父上に断られたからね」
「お父様が?」
「モンフォール伯爵には、君を別の家へ嫁がせる案がいくつかあったらしい。政治的には、そちらの方が魅力的だったのだろう」
そんな話は一度も聞いたことがない。
「それで……諦めたのですか?」
「まさか」
迷いのない返事だった。
アドリアンは、むしろ少し可笑しそうに笑う。
「君に関して、私はそれほど聞き分けのいい男ではないよ」
胸が跳ねる。
「ヴァルモン家とモンフォール家の交易条件を見直した。領地間の街道整備にも資金を出したし、両家が婚姻で結びつくことで得られる政治的利益も、伯爵が納得できるところまで積み上げた。それでも最後の一押しが足りなかったから、魔術資質を調べさせたんだ」
「そこまで……」
「そこで、君の月属性と私の火属性が極めて相性が良いという結果が出た。あれには私も随分助けられたよ」
アドリアンは穏やかに笑っている。
けれど、私の頭の中ではこれまで信じていたものが、一つずつ音を立てて崩れていた。
「では……私たちの魔術資質が合うから、私を選んだのではなくて?」
「違うよ」
「私を選んだ後で、その相性が分かった……?」
「ああ。君と結婚するための理由として使えると分かったんだ」
私は呆然と彼を見つめた。
「では、政略結婚は……」
「政略結婚ではある」
アドリアンの口元が、少しだけ悪戯っぽく上がる。
「君と結婚するために、私が作った政略だからね」
あまりにも想像していた話と違って、すぐには何も言えなかった。
「でも……どうして私なのですか?」
ようやく絞り出した疑問は、それだった。
「アドリアンなら、他にいくらでも選べたはずです」
「それも君はよく言うね」
「だって、本当にそうでしょう?」
公爵令嬢だっていた。
太陽属性の女性もいた。
国外の王族すら、彼との縁談を望んだと聞いている。
そんな人が、どうして私なのか。
「確かに縁談は多かったよ」
アドリアンは否定しなかった。
「公爵令嬢もいたし、国外からの話もあった。太陽属性の女性を紹介されたこともある」
「でしたら――」
「君がよかった」
静かな言葉だった。
けれど、それ以上の説明など必要ないと言うように、まっすぐだった。
「それだけだよ」
「そんな……」
「そんなに不思議かな?」
アドリアンの指が、私の手の甲を優しく撫でる。
「私が初めて君を見たのは、六年前だ」
「六年前?」
「王宮の春の祝宴。覚えていない?」
記憶を辿る。
父に連れられて、大きな祝宴へ出るようになった頃のことだ。
「その頃の私は、侯爵家を継いだばかりだった」
先代侯爵が急逝し、若かったアドリアンが突然家督を継いだ。
その話なら知っている。
「若造に侯爵家が維持できるのかと、随分好き勝手に言われていた時期でね。私へ近づいてくる人間の大半は、侯爵という肩書きか、火属性の魔力に興味があった」
彼は少し懐かしそうに目を細めた。
「君だけが違った」
「私?」
「庭で一人になっていた私に、君は『お疲れなのですね』と言った」
ぼんやりと、記憶が蘇る。
宴の途中。
人混みに疲れて庭へ出た私は、壁際で一人佇んでいる青年を見つけた。
「君は私が誰なのか知らなかった。侯爵だと名乗った途端、顔を真っ青にして謝り始めたよ」
「それは……申し訳ありません」
「だから、そこは謝らなくていい」
アドリアンは笑った。
「あの頃は、誰もが私に立派な侯爵であることを求めていた。強い魔術師であることもね。そんな中で君だけが、疲れている一人の男として私を見た。それが、随分嬉しかったんだ」
私にとっては、ほんの一言だった。
彼が疲れて見えたから、そう声をかけただけ。
けれど彼にとっては、そうではなかったらしい。
「それから、宴で君を見かけるたびに気になるようになった」
「……だから、私の好きなものを?」
「そうだね。最初は見かけるたびに目で追う程度だったよ」
穏やかな笑みのまま、とんでもないことを言う。
「君は年配の方や子供と話している時によく笑う。菓子より果物を選ぶことが多いし、楽団が演奏を始めると弦楽器の方へ目を向ける。庭では、白薔薇の咲いている場所で足を止める」
聞き覚えのあるものばかりだった。
この屋敷へ来た日に用意されていたもの。
私が好きだと知られていたもの。
「まさか……全部?」
「全部を六年前から知っていたわけではないよ。そこまで言うと、さすがに怖がられそうだからね」
「もう十分驚いています」
「それは残念だな」
口ではそう言いながら、少し楽しそうだった。
「本格的に君との結婚を考え始めてから、きちんと調べたことも多い。妻になる女性には、できるだけ心地よく暮らしてほしかったからね」
胸の奥が熱くなる。
それでも一つ、どうしても聞きたいことが残っていた。
「では……どうして、今まで仰らなかったのです?」
アドリアンは少し意外そうに瞬いた。
「言っていたつもりだったよ?」
「どこがです!」
思わず声が大きくなった。
すると彼は目を丸くした後、少し楽しそうに笑った。
「君は綺麗だと言った」
「夫人への礼儀だと思いました!」
「君との子供は可愛いだろうとも言ったね」
「侯爵家の跡継ぎへの期待だと!」
「君と年を取った後の話もした」
「責任感の強い方なのだと!」
「他の女性には興味がないとも言ったはずだけれど」
「それは……」
「君が私を独占してくれたら嬉しいとも言った」
返す言葉がなくなった。
アドリアンはさらに、面白そうに続ける。
「名前を呼んでもらっただけで、かなり喜んだつもりだ」
「……少し変だとは思いました」
「少し?」
とうとう彼が声を立てて笑った。
私は恥ずかしくなって俯く。
「だって、母からずっと教えられていたのです。貴族の結婚に愛情を求めてはいけないと」
その言葉を聞いた瞬間、アドリアンの笑みが静かに消えた。
私はこれまで母に言われてきたことを、一つずつ話した。
父には複数の夫人がいたこと。
それを受け入れることが正妻の務めだと教えられたこと。
月属性の私は、夫の魔力と次代の血統を強くするために嫁ぐのだと言われ続けてきたこと。
もし役目を果たせなければ、別の夫人を迎えることも笑って受け入れなければならないと信じていたこと。
アドリアンは途中で否定もせず、最後まで黙って聞いてくれた。
「お母上を責めるつもりはないよ」
やがて彼は、静かに口を開いた。
「おそらく、お母上自身もそう教えられて生きてきたのだろう」
「はい」
「でも、クラリス。君は、お母上と同じ結婚をする必要はない」
胸の奥が揺れる。
「私は君のお父上でもない。第二夫人も第三夫人もいらないよ」
「でも、お子様は……」
「欲しいよ」
はっきりと言われ、胸が痛んだ。
けれど、アドリアンはすぐに柔らかく続けた。
「君との子なら、とても欲しい。何度も言っただろう? きっと可愛いからね」
「アドリアン……」
「ただ、子供が欲しいから君と結婚したわけではないんだ」
その一言が、胸の一番深いところまで届いた。
「授からないなら、二人で暮らせばいい。後継者が必要なら養子を迎えればいいし、親族から選ぶこともできる。君が望むなら、一緒に一番いい方法を考えよう」
「それで、いいのですか?」
「もちろん」
「侯爵家として、本当に?」
アドリアンは少しだけ困ったように笑った。
「私は侯爵家である前に、アドリアンという一人の男だよ」
あの日。
二人きりの時は名前で呼んでほしいと言われた意味が、ようやく分かった気がした。
「君はずっと、自分が何かの役に立つから、私の妻でいられると思っていたのだろう?」
否定できなかった。
「月属性だから。私の魔力を強くできるから。侯爵家に子供を残せるから。そういう理由がなくなれば、自分には妻でいる価値がないと思っていた」
私は唇を噛んだ。
その通りだった。
アドリアンは、責めるような言い方をしなかった。
ただ、私の両手を包み込むように握る。
「全部なくても、君がいい」
視界が滲んだ。
「君が月属性でなくてもいい。私の魔力を強くしてくれなくてもいい。君との間に子供を授からなくても、それで君との結婚を後悔することはない」
「……本当に?」
「ここまで言ってまだ疑われると、さすがの私も少し自信をなくしそうだな」
冗談めかして笑う。
その余裕のある表情が、どうしようもなく好きだった。
「私は君と結婚するために三年かけたんだよ」
「三年も?」
「ああ。君の父上はなかなか手強かった」
初めて知った。
「それなのに、ようやく妻になってもらえたと思ったら、一か月で第二夫人を勧められている。さすがに少し堪えたよ」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。ただ、もう二度と勧めないでくれると嬉しい」
「はい」
「本当に?」
「本当です」
「それなら、約束してくれる?」
「約束します」
そう答えると、アドリアンの表情がようやく柔らかくほどけた。
私は滲んだ涙を拭おうとしたが、その前に彼の指先が頬へ触れる。
「泣かせたいわけではなかったのだけれど」
「嬉しいのです」
「そうなの?」
「こんなふうに言っていただけるなんて、考えたこともなかったので……どうしたらいいのか、分からなくて」
「それなら、これから慣れてもらおう」
「何にですか?」
アドリアンはごく自然に微笑んだ。
「私に愛されることに」
胸の奥が震えた。
「クラリス。一つだけ、私にも聞かせてもらっていいかな」
「なんでしょう?」
「君は、私のことをどう思っている?」
とうとう、聞かれてしまった。
これまでなら逃げただろう。
政略結婚だから。
夫婦だから。
妻として当然だから。
そんな言葉へ置き換えて、自分の気持ちを見ないふりをしてきた。
けれど、もう逃げたくなかった。
「好きです」
声は少し震えた。
「アドリアンが好きです」
彼が黙った。
いつもなら、どんな言葉にも余裕のある返事をする人が、完全に言葉を失っている。
「……アドリアン?」
「少し待って」
彼はほんの少しだけ視線を逸らし、それから苦笑した。
「今、かなり嬉しい」
思わず笑ってしまった。
「分かります」
「そんなに顔に出ているかな」
「とても」
「それは少し格好がつかないな」
口ではそう言いながら、隠すつもりなどまるでなさそうだった。
「六年待った甲斐があった」
「六年も?」
「待ったよ」
アドリアンは立ち上がり、私へ手を差し出す。
結婚式の日から、何度も差し出されてきた手。
私はその手を取った。
立ち上がると、彼との距離が自然と近くなる。
「クラリス」
「はい」
「抱きしめてもいい?」
夫婦なのに、そんなことまで聞いてくれる。
この人はきっと、ずっとそうなのだ。
私が嫌がることだけは、決してしない。
「……はい」
答えた瞬間、大きな腕に包まれた。
力強いのに、少しも苦しくない。
胸元へ頬を寄せると、鼓動が聞こえる。
いつも落ち着いている人なのに、今は少し速かった。
「緊張なさるのですね」
「するよ」
「意外です」
「好きな女性に六年越しで好きだと言ってもらった直後だからね。私だって、いつでも余裕があるわけではない」
その言葉に、胸の奥がくすぐったくなる。
「では、もう一度言いましょうか?」
「ぜひお願いしたいな」
「好きです、アドリアン」
抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力がこもる。
「もう一度お願いしても?」
「欲張りですね」
「六年分だから、今日くらいは許してほしい」
私は笑った。
「好きです」
「ありがとう」
アドリアンは私の髪へそっと口づける。
それから少しだけ身体を離し、頬へ手を添えた。
「今度は私の番だね」
金色の瞳が、真っ直ぐ私を映していた。
「愛しているよ、クラリス」
胸の奥が震える。
「六年前からずっと君が好きだった。君と結婚したかった。君と朝を迎えて、同じ食卓を囲んで、庭を歩いて、くだらない話をして、一緒に年を取りたかった」
今まで何度も聞いていた未来の話。
その一つ一つが、最初から愛の言葉だったのだ。
「それを、私は全部……」
「政略結婚だから当然だと思っていたね」
「……はい」
「本当に手強い女性だな」
「ごめんなさい」
「だから、もう謝らなくていい」
アドリアンは笑った。
「これからは、君が誤解できないくらいはっきり言うことにするよ」
「何をですか?」
「君を愛していると」
頬が熱くなる。
「毎日ですか?」
「必要なら朝昼晩でも」
「そこまでしなくても大丈夫です」
「遠慮しなくていい。私が言いたいんだ」
この言葉も、初めて屋敷へ来た日から何度も聞いてきた。
私がしたいから。
ようやくその意味が分かる。
「クラリス」
「はい」
「口づけてもいい?」
私は少し迷ってから、目を閉じた。
「……はい」
唇へ柔らかな感触が触れる。
ほんの一瞬。
触れるだけの優しい口づけだった。
それなのに、離れた後も心臓はうるさいままだった。
目を開けると、アドリアンがすぐそばで笑っている。
「もう一度お願いしても?」
「……本当に欲張りですね」
「今さら気づいたのかい?」
「知りませんでした」
「それなら、これから知っていけばいいよ。時間ならたくさんある」
また未来の話だ。
けれど、今度はそれが少しも怖くない。
私は自分からほんの少しだけ彼へ近づいた。
アドリアンの目が驚いたように見開かれ、それから、どうしようもなく嬉しそうに細められる。
その顔を見て、初めて思った。
愛されるというのは、こんなにも温かいものなのだと。
◇
それから半年が過ぎた。
私たちの間に、まだ子供はいない。
王立魔術院からは今後も定期的に検査を受けるよう勧められているけれど、アドリアンは一度として私を急かしたことがなかった。
むしろ以前より、私が子供のことを気にしすぎないよう配慮している節さえある。
ある朝。
いつものように二人で朝食を取っていると、アドリアンが新聞を畳んだ。
「来年の春は、南の別邸へ行こうと思う」
「南の?」
「ああ。湖が綺麗なんだ。君に見せたい」
「また随分先のお話ですね」
「そうかな」
「旦那様は、昔から先の予定ばかり立てますね」
「君とは先の予定を考えるのが楽しいからね」
今なら、その言葉を素直に受け取れる。
「では、再来年は?」
「再来年?」
「はい」
少し意地悪をしてみる。
アドリアンは顎へ手を添え、真剣に考えるような顔をした。
「そうだな。その頃には、君が今よりもっと私を好きになっている予定かな」
「まあ」
「違う?」
「どうでしょう」
わざと澄ました顔をすると、アドリアンが楽しそうに目を細めた。
「それでは努力が必要そうだ」
「これ以上ですか?」
「まだ足りないよ。君には六年分の片想いを返してもらわなければならないからね」
「そんな契約はしておりません」
「では、今から結ぼうか」
「政略ですか?」
尋ねると、アドリアンは声を立てて笑った。
「もちろん」
私の手を取る。
そして結婚式の日と同じように、その指先へ口づけた。
「君を一生そばに置くための、私にとって最も重要な政略だ」
昔の私なら。
きっとまた、真面目に受け取っていた。
家のため。
魔術のため。
血統のため。
けれど、もう知っている。
この人が私を選んだ理由を。
月属性だからではない。
優秀な子供を望んだからでもない。
家同士の利益だけを求めたわけでもない。
ただ、私だったから。
「それでしたら」
私は彼の手を握り返す。
「一生、お付き合いいたします」
アドリアンの目元が柔らかく細められる。
「それは嬉しいものだな」
そう言って笑う夫の顔は、今日も呆れるほど格好良かった。
「愛しているよ、クラリス」
「……朝からですか?」
「言っただろう。誤解できないくらい伝えると」
「毎日ではなく、朝昼晩になっていませんか?」
「まだ昼と夜が残っているね」
「もう」
呆れながらも、笑ってしまう。
そんな私を見て、アドリアンも嬉しそうに笑った。
相変わらず、呆れるほど美しい人だった。
そして相変わらず、私には甘すぎる。
政略結婚のはずだった。
少なくとも、私はそう信じていた。
けれどどうやら。
旦那様は、最初から私に本気だったようです。




