旦那様は、政略結婚のはずの妻に甘すぎる
ヴァルモン侯爵夫人として迎えた最初の朝、私は目を覚ましてからしばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
見慣れない天蓋と、身体を包み込む柔らかな寝具。カーテンの隙間から差し込む淡い朝日をぼんやりと眺めているうちに、昨日この屋敷へ嫁いできたのだという記憶が、ゆっくりと頭の中へ戻ってくる。
そうだった。
私は昨日、結婚したのだ。
しかも相手は、王都中の令嬢から熱い視線を向けられているヴァルモン侯爵、アドリアン様である。
「……夢ではないのね」
思わず小さく呟きながら身体を起こすと、ちょうど侍女が扉を叩いた。
「おはようございます、奥様。よくお休みになれましたか?」
「ええ。とてもよく眠れました」
「それは何よりでございます。旦那様が朝食をお待ちです」
「まあ。もう起きていらっしゃるの?」
てっきり侯爵家当主ともなれば、朝食の時間さえ別なのだと思っていた。
父もそうだった。母と毎朝食卓を囲むことなどほとんどなく、時には第二夫人や第三夫人の部屋で朝を迎えることもあった。それを不自然だと思ったことはないし、母も一度として不満を口にしたことはない。
だから私も、結婚生活とはそういうものなのだと思っていた。
「旦那様は、ずいぶん前からお待ちです」
「ずいぶん前から?」
「はい。奥様がお目覚めになるまでは起こさないように、と仰っていました。昨日はお疲れでしょうから、と」
私は思わず時計へ目を向けた。
普段なら、とっくに朝食を終えていてもおかしくない時間だ。
「もしかして、私のせいで朝食が遅くなっているの?」
「旦那様ご自身がお待ちになると仰ったのです」
侍女は答えながら、どうしてか少しだけ笑っていた。
「先に召し上がっていただけばよかったのに」
「私もそのように申し上げたのですが、『妻との最初の朝食くらい、一緒に食べたいだろう』と」
胸の奥が、また妙な音を立てた。
昨日から、こんなことばかりだ。
アドリアン様は、まるで本当に私との結婚を喜んでいるかのようなことを平然と仰る。
けれど、それをそのまま受け取ってはいけない。
昨日も自分にそう言い聞かせたばかりなのだから。
私は急いで身支度を整え、食堂へ向かった。
扉が開かれると、長い食卓の向こうで新聞を読んでいたアドリアン様が、すぐに顔を上げた。
「おはよう、クラリス。よく眠れたかい?」
「おはようございます、旦那様。はい、とてもよく」
その瞬間、金色の瞳がわずかに細められる。
「朝からそう呼んでもらえるのは、嬉しいものだな」
「そう、とは?」
「旦那様、と」
「あ……」
昨日、何度も呼ばされたことを思い出す。
何がそこまで気に入ったのか未だに分からないけれど、彼が嬉しそうにしていることだけはよく分かった。
アドリアン様は立ち上がると、私のために椅子を自ら引いてくれる。
「どうぞ。こちらへ」
「ありがとうございます。ですが、そこまでしていただかなくても」
「構わないよ。私が君にしてやりたいんだ」
あまりにも自然な言い方で、続く言葉を失った。
まるで女性を喜ばせることなど呼吸と同じくらい慣れているような振る舞いなのに、本人にはそれを誇示する様子が少しもない。
私はもう反論せず、大人しく腰を下ろした。
「昨夜は寒くなかったかい? 枕の高さや、朝の光も気にならなかった?」
「全部ちょうどよかったです。旦那様」
そこまで聞かれて、思わず笑ってしまう。
「私は本当に快適に眠れましたから、ご安心ください」
「そうか。それなら何よりだ」
ようやく満足したらしく、彼は穏やかに微笑んだ。
朝食が運ばれてくる。
焼きたてのパンに卵料理、果物、それから蜂蜜の入ったミルクティー。私の前に置かれたカップから立ち上る甘い香りに、思わず頬が緩んだ。
「本当に蜂蜜入りなのですね」
「口に合わなかったかい?」
「いいえ。好きです」
「それは知っている」
さらりと返される。
「……そうでしたね。お調べになったのでした」
「調べたというほど大袈裟なものではないよ」
アドリアン様は紅茶へ口をつけ、何でもないことのように続けた。
「これから長く共に暮らす女性のことだ。好きな食べ物も、本も、花も、音楽も、何をしている時に笑うのかも知っておきたかった」
その言葉に、私は思わずカップを持つ手を止めた。
「……なぜでしょう?」
尋ねると、アドリアン様は少しだけ目を細めた。
「その問いに、どう答えれば君は納得してくれるのかな。妻になる君に興味があった、と言えば十分だと思っていたのだけれど」
「それは……」
「まだ足りないらしい」
困ったように笑われ、なぜか私の方が落ち着かなくなる。
「クラリスは案外、手強い女性なのだな」
「私がですか?」
「ああ。まあ、急ぐ必要はない。時間ならこれからいくらでもある」
また、この人は未来のことを当然のように口にする。
朝食を終える頃には、アドリアン様は今日の予定まで教えてくれた。
「午前中は執務がある。ただ、その前に少しだけ君に付き合ってもらいたい」
「でしたら、私は屋敷の中をご案内いただければ十分です」
「それも後で案内しよう。先に見せたい場所があるんだ」
連れて行かれたのは、侯爵邸の奥にある魔術訓練場だった。
高い天井を持つ広い石造りの部屋で、壁には魔力を吸収するための特殊な鉱石が埋め込まれている。
中央へ進んだアドリアン様が、片手を上げた。
「少し離れていてくれるかい」
「はい」
次の瞬間、炎が生まれた。
空気を震わせるほど巨大な火球が、一瞬で彼の頭上へ浮かび上がる。
火属性の高位魔術師は何人か見たことがあるけれど、これほどの魔力密度は初めてだった。熱気が広い訓練場を一瞬で満たし、離れている私の頬まで熱くなる。
「すごい……」
思わず声が漏れる。
アドリアン様がこちらを振り向き、口元に穏やかな笑みを浮かべた。
「君にそう言ってもらえると、悪くない気分だな」
「旦那様ほどの方なら、聞き慣れていらっしゃるのでは?」
「称賛そのものには慣れているよ。ただ、誰に言われるかで価値は変わるものだろう?」
その言葉の意味を考える前に、彼がこちらへ手を差し出した。
「来てくれるかい?」
促され、私は彼の隣まで歩み寄る。
「手を借りても?」
「月属性の増幅をご覧になりたいのですね」
そう言うと、アドリアン様はほんの少しだけ目を細めた。
「それも興味深いが、さて、それだけかな」
「え?」
「なんでもない。手を」
差し出された手に、自分の手を重ねる。
昨日と同じように、触れた瞬間から私の魔力が彼へ流れ始めた。けれど今日は、昨日よりもはっきりと分かる。
アドリアン様の中にある膨大な魔力が、私の魔力へ呼応している。
「これは驚いたな。これほど違うとは思わなかった。魔力の流れが驚くほど滑らかだ」
「やはり、月属性との相性が良いのでしょう」
「そうなのだろうね。ただ、それだけではない気もする」
彼が私の手を握り直した。
指と指が自然に絡み、心臓が大きく跳ねる。
「だ、旦那様?」
「痛かったかい?」
「いいえ」
「それなら、もう少しだけこのままでいてくれる?」
お願いされているはずなのに、断れる気がしなかった。
その状態で再び炎を生み出すと、先ほどよりも遥かに巨大な火球が浮かび上がった。しかも荒々しく燃え盛るのではなく、まるで形を整えられた宝石のように安定している。
「……信じられない」
「私もです」
「魔力消費まで軽くなっている。君がそばにいるだけで、これほど変わるものなのだな」
アドリアン様は炎ではなく、なぜか私を見ていた。
「お役に立てたならよかったです」
笑って答えると、彼の表情がほんの少しだけ曇った。
「クラリス。君が役に立つかどうかだけで、こうして手を取っているわけではないよ」
「え?」
「いや、今はこれでいい」
指を絡めたまま、彼は穏やかに笑う。
「せっかく君が手を貸してくれているのだから、もうしばらく甘えさせてもらおう」
「魔力調整を続けるのですね?」
そう尋ねると、アドリアン様は一瞬だけ黙り、それから困ったように笑った。
「……君がそう思っているうちは、それでいいことにしようか」
やはり、月属性というものは相当に便利らしい。
その時の私は、まだ本気でそう思っていた。
それから数日が経つ頃には、新婚生活は私が想像していたものとはずいぶん違う形になっていた。
アドリアン様は、可能な限り朝食と夕食を私と一緒に取った。
執務が忙しい日でさえ、夕食に間に合わない時には「先に食べていて」と伝言を寄越すのではなく、「遅くなるが、できれば待っていてほしい」と書かれた短い手紙が届く。
一度、私は気を遣って先に食事を済ませたことがあった。
帰宅したアドリアン様は、私が食べ終えたと知って露骨に落胆こそしなかったものの、わずかに目元を下げた。
「お待ちした方がよかったでしょうか?」
「いや。君を空腹のまま待たせるくらいなら、先に食べてもらった方がいい。ただ、少し残念ではあるな。君と食卓を囲むのを楽しみにしていたから」
穏やかにそう言われる方が、あからさまに残念がられるよりずっと困る。
「次からは、なるべくお待ちします」
「そうしてくれると嬉しいよ。ただし、無理はしないこと。それでは本末転倒だからね」
そんなふうに言われてしまえば、次から待つしかない。
別の日には、執務の合間に庭を一緒に散歩した。
庭師が育てている白薔薇を眺めながら、アドリアン様が私へ問いかける。
「他には何が好きなんだい?」
「花ですか?」
「何でもいい。君が好むものをもっと知りたい」
「急に言われると難しいですね」
「ゆっくりで構わないよ。これから知っていけばいいのだから」
また未来の話をする。
来年も、その次も一緒にいるのが当然であるかのように。
「果物なら桃が好きです。音楽は、弦楽器が多いものが好きです。それから、雨の日に本を読むのも」
「なるほど。覚えておこう」
「そんなことまで覚えるのですか?」
「もちろん。君が何を好むか知っていれば、君を喜ばせる機会が増えるだろう?」
どうして、と尋ねそうになってやめた。
きっとまた、妻だからと言われるのだろう。
「私は、旦那様の好きなものをまだあまり知りません」
そう口にすると、アドリアン様は少し驚いたように瞬いた。
「知りたいと思ってくれるのか?」
「もちろんです。妻ですもの」
その答えに、彼は隠しきれないほど嬉しそうに笑った。
けれど声は、あくまで落ち着いている。
「それは嬉しいものだな。では、一つ教えようか。最近は、朝食の時間が好きだ」
「朝食ですか?」
「ああ」
「何かお気に入りのお料理でも?」
「料理ではないよ。君が向かいに座っているからだ」
言葉が出なかった。
アドリアン様は、こちらの動揺など百も承知という顔で穏やかに微笑んでいる。
「一人で食べていた頃より、随分と楽しい」
「旦那様は……時々、そういうことを平然と仰いますね」
「そういうこと、とは?」
明らかに分かっている顔だった。
「いえ……」
自分から説明する勇気はない。
「それなら、これからも遠慮なく言わせてもらおうかな」
「遠慮していただいて結構です」
「それは残念だ」
口調は涼しいのに、目だけが楽しそうに笑っている。
私は少し頬を膨らませ、それから自分でも驚いた。
夫に対して、こんな表情を見せる日が来るとは思っていなかったからだ。
アドリアン様はそんな私を見て、声を立てずに笑った。
「そんな顔もするんだな」
「……おかしいですか?」
「いや。可愛らしいと思っただけだ」
「もう」
思わず声を上げると、彼は少しも悪びれずに微笑む。
「怒らせたかな?」
「知りません」
「それは困った」
口ではそう言いながら、少しも困っているようには見えない。
こんな人だったのだろうか。
結婚前に遠くから見た彼は、いつも冷静で、社交界でも必要以上に誰かと親しくすることはなかった。女性から声をかけられても礼儀正しく応じるだけで、笑顔を見せることさえ少なかったように思う。
けれど私といる時の彼は、よく笑う。
そのことを少しだけ特別に感じてしまう自分が、怖かった。
結婚して十日ほど経った頃、私たちは王宮で催される夜会へ出席することになった。
侯爵夫人としての、最初の正式な社交の場である。
支度を終えて階段を下りると、玄関ホールで待っていたアドリアン様がこちらを見上げ、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
「……旦那様?」
何かおかしいだろうか。
不安になってドレスを見下ろす。
淡い銀青色の生地に、月光を模した細かな刺繍。華美になりすぎないよう選んだつもりだけれど、侯爵夫人として地味すぎただろうか。
「どこか変でしょうか?」
「まさか」
アドリアン様はゆっくりと私のそばまで来ると、改めて全身を眺めた。
「とても綺麗だ。少し見惚れていた」
「……ありがとうございます」
胸がうるさい。
「そのドレスは君が選んだのかい?」
「はい」
「よく似合っている。月の光をそのまま纏ったようだな」
「そこまで仰られると、少し恥ずかしいです」
「思ったことを言っただけなのだけれど」
そう言って微笑む彼自身も、今夜はいつも以上に美しかった。
黒を基調にした正装は長身によく映え、銀糸で施された装飾が金の瞳をいっそう際立たせている。
「旦那様も、とても素敵です」
礼儀として返しただけのつもりだった。
けれどアドリアン様は、少し驚いたように目を見開いたあと、実に満足そうな顔をした。
「君にそう言われるのは嬉しいな」
「皆様から、いくらでも仰られているでしょうに」
「だから言っただろう。誰に言われるかで違うのだと」
さらりと返され、また私ばかりが動揺させられる。
王宮へ着くと、改めて夫がどれほど注目される人物なのかを思い知らされた。
広間へ入った瞬間から、いくつもの視線がこちらへ向く。その半分以上は、アドリアン様を見ていた。
美しい令嬢たちが次々と挨拶に訪れ、既婚者となった今でも彼への関心を隠そうとしない女性さえいる。
「ヴァルモン侯爵様、ご結婚なされたと聞いて本当に驚きましたわ」
「ありがとうございます」
「以前はどれほどお誘いしても舞踏会にはいらっしゃらなかったのに」
「必要を感じませんでしたので」
「まあ。では今夜は?」
令嬢が意味ありげに尋ねる。
アドリアン様はわずかに笑い、私へ視線を向けた。
「今夜は妻と踊るために参りました」
あまりにも自然な言い方で、令嬢の笑顔が一瞬固まった。
私は慌てて取り繕う。
「旦那様、せっかくですから皆様とも踊られては?」
「せっかくだからこそ、君と踊りたいのだよ。必要な挨拶はするけれど、今夜、私がダンスを申し込みたい女性は君だけだ」
令嬢たちの前で、そんなことをさらりと言う。
私は笑顔を保つだけで精一杯だった。
やがて演奏が始まり、アドリアン様に手を取られる。
「一曲いただけますか、奥方」
「……喜んで」
彼の手が腰へ添えられる。
いつものように触れた場所から月の魔力が流れ込み、それに応えるように彼の火の魔力が穏やかに私を包む。
不思議だった。
火の魔力なのに、熱くはない。
冬の日差しのような、心地よい温もりだけが伝わってくる。
「少し近くありませんか?」
「そうかな。私はもう少し近くても構わないのだけれど」
「旦那様」
「冗談だよ。君が嫌がることはしない」
そう言いながら、腰を支える手は少しも離れない。
「クラリス」
「はい」
「せっかく私と踊っているのだから、少しくらいこちらを見てもらってもいいだろう?」
言われるまま顔を上げる。
金色の瞳と視線が重なった。
「そう。それでいい。今だけは周りのことなど考えなくていい。私だけ見ていてくれれば嬉しい」
どうしてこの人は、こんなことを言うのだろう。
誤解してしまう。
自分が本当に、この人に望まれているのではないかと。
「旦那様は、随分お優しいのですね」
「君に対して?」
「……はい」
「それなら、そうなのだろうな。君には優しくしたいと思っている。私自身がそうしたいのだから、仕方がない」
その言葉を聞くたびに、胸の奥が落ち着かなくなる。
「なぜですか?」
今度こそ尋ねてしまった。
アドリアン様は少し驚いた顔をしたあと、目元に柔らかな笑みを浮かべる。
「それをここで私に言わせるのかい?」
「え?」
「君が望むなら、私は構わないけれど」
言葉の意味を悟れないまま見つめ返すと、彼は小さく息を吐いて笑った。
「いや。今はやめておこう。どうせなら、君がきちんと聞いてくれる時に話したい」
「何をです?」
「君が、私にとってどういう女性なのかを」
胸が大きく跳ねた。
その意味を尋ねる前に曲が終わり、周囲から拍手が起こる。
アドリアン様は私の手を取り直した。
「もう一曲付き合ってもらえるかな」
「他の方と踊らなくてよろしいのですか?」
「君は、私が他の女性と踊るところを見たい?」
穏やかな質問だった。
胸の奥が、ちくりと痛む。
本当は嫌なのかもしれない。
けれど、それを口にしてはいけないと思った。
「旦那様がお望みでしたら」
そう答えると、彼の目がわずかに曇った。
「私は望んでいないよ。他の女性と踊るより、君と踊っていたい。それだけの話だ」
もう一度、自然に腰を抱かれる。
「だから今夜くらい、私の我儘に付き合ってくれないか」
「……はい」
「ありがとう」
彼は満足そうに笑った。
その夜、私は結局ほとんど彼としか踊らなかった。
屋敷へ戻った頃には足が少し痛くなるほどだったけれど、不思議と疲れてはいなかった。
「今夜は楽しかったかい?」
帰りの馬車の中で尋ねられる。
「はい。とても」
「それなら良かった。私も久しぶりに夜会を楽しいと思ったよ」
「久しぶりなのですか?」
「そもそも好きではなかったからね」
「では、どうして今夜は?」
「君が一緒だったからに決まっているだろう?」
あまりにも当然のように返され、私はとうとう何も言えなくなった。
屋敷へ戻り、部屋の前まで送ってもらう。
「おやすみ、クラリス」
「おやすみなさいませ」
アドリアン様はそのまま立ち去るかと思った。
けれど、ふと足を止める。
「一つ、お願いしてもいいかな」
「なんでしょう?」
「二人きりの時だけで構わない。私のことを、名前で呼んでほしい」
「……お名前で?」
「ああ」
「旦那様では駄目なのですか?」
「それも気に入っているよ。君の口から聞くたびに、結婚したのだと実感できる」
そんなことを正面から言われると困る。
「ただ、夫としてだけではなく、アドリアンという一人の男としても君に呼んでもらえたら嬉しい」
胸が、また大きく跳ねた。
「……アドリアン様」
「できれば、様も外してもらいたいのだけれど」
「それはさすがに……」
「二人きりでも?」
少し身を屈められる。
整った顔が近づき、私は逃げるように視線を逸らした。
「……アドリアン」
どうにか声にする。
ほんの一瞬、完璧に余裕を保っていたはずの彼の表情が、はっきりと崩れた。
嬉しそうに。
驚くほど、嬉しそうに。
「……これは参ったな」
「え?」
「思っていたより、ずっと嬉しい」
そう言って、彼はすぐにいつもの穏やかな笑顔へ戻った。
「もう一度お願いしても?」
「昨日も同じことをなさいましたよね?」
「覚えていたのか。それも嬉しいものだな」
からかうような口調なのに、金色の瞳には隠しきれない喜びが浮かんでいる。
「……アドリアン」
「ありがとう、クラリス」
その声があまりにも優しくて、胸の奥が温かくなる。
同時に、怖くなった。
この人の優しさに慣れてしまったら、きっと私は欲張りになる。
政略結婚なのに。
本当は私を選びたかったわけではないのに。
魔術資質が合ったから、たまたま妻になれただけなのに。
いつか彼が本当に愛する女性を見つけた時、私は笑ってその人を受け入れなければならない。
それが、正しい妻なのだから。
「クラリス?」
「なんでもありません」
私は笑った。
「おやすみなさい、アドリアン」
一瞬だけ、また彼の目元が緩む。
「おやすみ。良い夢を。明日の朝も一緒に食事をしよう」
「はい」
「それでは、また明日」
扉が閉じたあと、私はしばらくそこから動けなかった。
どうして名前を呼んだだけで、こんなにも胸が苦しくなるのだろう。
その答えに気づくのが怖くて、私は深く考えないことにした。
机の上には、実家から届いたばかりの手紙が置かれていた。
母からだった。
封を開けば、見慣れた整った筆跡が並んでいる。
『侯爵様はお優しい方だと伺っています。けれど、その優しさに甘えてはいけませんよ』
指が止まった。
『あなたは月の娘です。ヴァルモン侯爵家に望まれた役割を忘れず、立派な夫人でありなさい』
『夫の愛情を独占しようとしてはいけません。もし侯爵様が将来、別のご夫人を必要となさった時には、笑顔でお迎えできる女性でいなさい』
何度も聞かされてきた言葉だった。
今さら傷つくような内容ではないはずだった。
けれど私は手紙を持ったまま、先ほどまでアドリアンが立っていた扉を見つめていた。
他の女性。
あの人が、別の女性へ手を差し伸べる姿を想像する。
私にしてくれたように髪へ触れ、私に言ってくれたように綺麗だと言い、私ではない誰かと子供の話をする。
胸の奥が、締めつけられるように痛んだ。
以前の私なら、それを当然の未来として受け入れられたはずなのに、今はもう違う。
アドリアンの優しさを知ってしまった。
名前を呼ばれる嬉しさも、手を取られる温かさも、彼と二人で過ごす時間の心地よさも知ってしまった。
だからこそ、それを誰かに譲る未来を思い描くだけで苦しくなる。
「……困ったわ」
私は初めて、自分が母の教えを守れなくなるかもしれないと思った。
政略結婚なのだから、愛情を期待してはいけない。
ずっとそう理解していたはずなのに。
気づけば私はもう、アドリアンが他の誰かを愛する未来を、少しも平気だと思えなくなっていた。




