政略結婚ですから、期待などしておりません
結婚式の日、私は生まれて初めて、自分の夫になる人を気の毒だと思った。
王都でもっとも格式高い大聖堂。その中央に立つアドリアン・ド・ヴァルモン侯爵は、今日も恐ろしいほど整った顔をしていた。
艶のある黒髪はきっちりと後ろへ流され、長い睫毛の下には、火属性の高位魔術師に稀に現れるという金色の瞳がある。鼻梁はすっと高く、白い礼装に包まれた長身は、ただ祭壇の前に立っているだけだというのに妙に人目を引いた。参列席からは先ほどから何度も、令嬢たちの小さな溜息が聞こえている。
無理もない。
ヴァルモン侯爵は二十七歳にして王国随一の火属性魔術師であり、北部に広大な領地を持つ名門侯爵家の当主でもある。領地経営にも軍務にも優れ、そのうえ容姿までこれほど整っているのだから、王都の未婚女性からすればこれ以上ないほどの結婚相手だろう。
しかも、これまで浮いた噂ひとつない。
そんな人が、どうして私と結婚することになったのか。
理由は、あまりにも分かりやすかった。
私は《月属性》だからだ。
この国で一般的な魔術属性は、火、水、風、土の四つである。多くの人間は生まれつきそのいずれかに適性を持ち、ごく稀に二つの属性を扱える者もいる。
その四属性とは別に、さらに希少な属性として《太陽》と《月》が存在する。
太陽属性は生命を活性化させる力を持つ。傷の治癒を助け、疲弊した土地を蘇らせ、農作物の育成を促すことさえできるため、王国にとって非常に価値の高い属性だ。
一方、月属性の魔術そのものには、それほど派手な力がない。炎を生み出せるわけでもなければ、傷を塞ぐこともできず、戦場へ一人で放り出されたところで、一般的な攻撃魔術師にすら勝てるか怪しいだろう。
けれど月には、他の属性にはない特別な性質がある。
近しい者の魔力を安定させ、その出力を高めること。そして月属性を血統に取り込んだ家系では、その後に生まれる子供の魔力量や魔術適性が高くなる傾向があること。
つまり私は、自分自身が強いのではなく、強い人間をさらに強くするための魔術師なのだ。
「クラリス」
低く澄んだ声に呼ばれ、私は我に返った。
気づけば誓約の言葉は終わっていて、目の前に立つアドリアン様が、こちらへ右手を差し出していた。
「手を」
「あ……はい」
慌てて手を重ねると、白い手袋越しなのに妙に温かい。
その瞬間、微かな魔力の波が私の指先から彼へ流れ込んだ。
アドリアン様の金色の瞳が、わずかに見開かれる。
「……これは」
「申し訳ございません。月属性は、接触すると相手の魔力へ影響してしまうことがありますので」
「謝ることではないよ」
彼は私の手を見下ろしたまま、なぜかすぐには離そうとしなかった。
「むしろ驚いた。こんなに心地いいものなのだな」
「そうなのですか?」
「ああ。魔力の流れが驚くほど穏やかになる」
そう言って、ほんの少し口元を緩める。
それだけで、参列席のどこかからまた小さな溜息が聞こえた。
……本当に、綺麗な方だ。
これほどの男性ならば、きっと望む相手を自由に選びたかったことだろう。
けれどヴァルモン侯爵家は、代々強力な火属性魔術師を輩出してきた一族である。その強大な火力ゆえに魔力制御の難しさも抱えており、そこへ月属性を持つ私を迎え入れれば、現在の当主であるアドリアン様の魔力は安定し、さらに次代には優秀な魔術資質を持つ子供が生まれる可能性も高くなる。
王立魔術院のお墨付きまで出た、理想的な婚姻。
そう考えれば、これ以上に分かりやすい政略結婚もない。
「どうした?」
「いえ。なんでもございません」
笑ってみせると、アドリアン様はしばらく私を見つめ、それから重ねていた手をそっと持ち上げた。
何をするのだろうと思った次の瞬間、手袋越しの指先に柔らかな感触が落ちる。
口づけられたのだと理解するまで、少し時間がかかった。
「……アドリアン様?」
「妻に口づけるのは、おかしいかい?」
「いいえ。そのようなことは……」
儀礼なのだろう。
貴族の結婚式では、新郎が新婦の手へ口づけることも珍しくない。だから、胸の奥が急に騒がしくなったことに意味などない。
私はそう自分に言い聞かせながら、母から何度も聞かされた教えを思い出していた。
『クラリス。貴族の娘は、愛されるために結婚するのではありませんよ』
初めてそう言われたのは、私が九歳の頃だったと思う。
『家を繋ぎ、血を残し、夫を支える。それが妻の務めです。ましてあなたは月属性なのですから、いずれ非常に高い家柄へ嫁ぐことになるでしょう』
母はいつだって穏やかな人だった。
父を責めたこともなければ、第二夫人や第三夫人へ嫉妬を向けたこともない。我がモンフォール伯爵家では、父には母以外にも二人の夫人がいる。珍しくはあるものの、魔術血統の維持を重んじる上級貴族が複数の配偶者を持つことは、この国では許されていた。
『お父様が複数の夫人を迎えていらっしゃるのも、モンフォール家を存続させる責任を立派に果たしているからなのですよ』
幼い私は、それを疑いもしなかった。
『ですから将来、あなたの夫が別の女性を愛したとしても、それを責めてはいけません。夫には夫の責任があります。嫉妬で家を乱すような女性にだけはなってはいけませんよ』
私は何度も、分かりました、お母様、と答えて育った。
だから今日も、別に期待などしていない。
アドリアン様が私を愛してくれるなど、考えたことすらない。
ただ、彼が必要としている月属性を持ち、侯爵夫人として恥ずかしくない振る舞いをして、可能であれば優秀な跡継ぎを産む。
それが私に求められている役割なのだから、それを果たせれば十分だと思っていた。
それなのに。
「クラリス」
「はい」
「先ほどから顔色が良くない。疲れたかい?」
「いいえ。大丈夫です」
「本当に?」
アドリアン様は眉を寄せると、先ほどまでとは反対の手まで重ね、私の両手を大きな手の中へ包み込んだ。
「今日は朝から、ほとんど何も食べていないのでは?」
「少しはいただきました」
「どのくらい?」
「果物を少々……」
「それは食事とは言わないな」
真剣な顔で言われ、私は少し困ってしまった。
今はまだ、結婚式の最中なのだけれど。
「式が終わったら、すぐに何か食べよう。厨房には軽いものを用意させてある。君は蜂蜜を入れたミルクティーが好きだったね?」
「……どうしてご存じなのですか?」
思わず聞き返すと、今度はアドリアン様の方が不思議そうな顔をした。
「妻になる女性の好みくらい、知っておきたいと思うだろう?」
「まあ」
さすが侯爵家である。
私は素直に感心してしまった。
これほど忙しい立場にありながら、政略結婚で迎える妻の嗜好まで事前に把握しているとは。きっと彼は、仕事においてもこうして細部まで準備を怠らない人なのだろう。
「お心遣い、ありがとうございます」
「……心遣い」
なぜかアドリアン様は、少しだけ複雑そうな顔をした。
「君がそう思うなら、今はそれでいい」
よく分からない。
けれどその後、彼は聖堂を出るまで一度も私の手を離さなかった。
結婚式を終え、馬車でヴァルモン侯爵邸へ到着した頃には、日は大きく西へ傾いていた。
馬車が止まると、従者が扉を開くより先に、アドリアン様が自ら先に降りる。
何か急ぎの用でもあるのかと思っていると、彼はその場でこちらへ振り返り、当然のように手を差し出してきた。
「どうぞ、奥方」
「……ありがとうございます」
その呼び方に、心臓が妙な跳ね方をした。
私が手を重ねると、彼はそのまま丁寧に馬車から下ろしてくれる。
「足元を」
「大丈夫ですわ」
「知っている。それでも、私がそうしたいんだ」
さらりと言われ、言葉に詰まる。
この方は女性の扱いに慣れていないと聞いていたのだけれど、本当なのだろうか。
こんなことを自然にされたら、世の令嬢たちが夢中になるのも当然だと思う。
実際、今日の式でも何人もの女性が彼を見つめていた。あの中には、きっと私より美しい方も、家柄の良い方も、彼と同じ火属性の名門令嬢もいただろう。
アドリアン様ほどの方なら、いくらでも選べたはずなのに。
やはり月属性との婚姻というものは、貴族の男性にとって随分大きな意味を持つのだ。
「クラリス?」
「はい?」
「また難しい顔をしているね」
「少し考え事を」
「私との結婚を後悔している?」
「まさか!」
思わず即答すると、アドリアン様は目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「それならよかった」
初めて見るほど柔らかな笑顔だった。
一瞬、息をするのを忘れる。
なんて、ずるい顔をなさるのだろう。
普段はあれほど近寄り難いほど整った顔をしているのに、笑うと急に年相応の青年に見えてしまう。
「私も、今日をずっと楽しみにしていたんだ」
「……そうなのですか?」
「ああ」
「それは……魔力のことで?」
尋ねると、アドリアン様の笑顔がほんの少しだけ固まった。
「なぜそうなる?」
「ヴァルモン家の火属性と、私の月属性は非常に相性が良いと伺っておりますので」
「それは確かにそうだが……」
何か言いたげに口を開き、それから閉じる。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「どうやら先は長そうだな」
「何のお話でしょう?」
「こちらの話だよ」
侯爵邸へ足を踏み入れると、さらに驚かされた。
私のために用意された部屋には、実家で好んで使っていた淡い青と白を基調とした家具が置かれ、窓際には月光草を模した銀細工の花器が飾られている。
本棚には私が好きな歴史書だけでなく、王都ではなかなか手に入らない地方詩人の詩集まで並んでいた。化粧台には愛用しているものとよく似た香油が置かれ、寝台の布地に至るまで私の好みに近い。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
「気に入った?」
背後から問われて振り向く。
アドリアン様は穏やかに微笑んでいるものの、よく見ると少しだけ緊張しているようにも見えた。
「もちろんです。ここまでご用意いただけるとは思いませんでした」
「本当に?」
「はい。まるで以前から私がここに住んでいたみたいです」
そう答えると、彼の肩から目に見えて力が抜けた。
「それならよかった。三度ほど家具の配置を変えさせた甲斐があった」
「三度?」
「ああ。最初の案では窓から机が遠すぎた。君は昼間、本を読む時に自然光を使うと聞いていたからね」
私はしばらく何も言えなかった。
そこまで調べるものなのだろうか。
政略結婚というのは。
「それから庭にも少し手を入れてある」
「庭まで?」
「君は白薔薇が好きだろう。まだ植え替えたばかりだから、見頃になるのは少し先だけれど」
「どうして……」
「好きだから」
あまりにも自然に言われて、胸が止まりかけた。
「え?」
「白薔薇が。君は好きだと聞いた」
「あ……はい」
そういう意味。
そうよね。
何を驚いているのだろう、私は。
「春になれば南側の庭が一番綺麗になる。来年は一緒に見よう」
「来年も?」
思わず口にしてしまう。
アドリアン様は、今度こそ本当に怪訝な顔をした。
「夫婦なのだから、来年も一緒にいるだろう?」
「ええ、それはもちろん……」
「再来年も、その次も、私はそのつもりだよ」
その言葉が、妙に胸へ残った。
政略結婚なのだから、必要が続く限り婚姻も続くだろう。
それだけの意味なのに。
「君が年を取って、白髪になっても、同じ庭を歩けたらいい」
そこまで言われるとは思わなかった。
「……ずいぶん先のことまでお考えなのですね」
「君とのことなら考えるよ」
まただ。
この人は時々、とても困ることを平然と言う。
私がどう答えるべきか迷っていると、彼はふいに窓の外へ視線を向けた。
庭では、使用人らしい若い夫婦が、小さな子供を連れて歩いている。子供は父親の手を振りほどいて走り出し、母親に笑いながら抱き上げられていた。
アドリアン様は、その光景をしばらく眺めていた。
「可愛いな」
「ええ」
「君との子供も、きっと可愛いのだろうな」
今度こそ、何を言われたのか理解するまでに時間がかかった。
「わ、私との……?」
「他に誰がいるんだい」
「それは……そうですが」
顔が熱い。
頬だけではなく、耳まで熱くなっているのが自分でも分かった。
アドリアン様はそんな私を見て、少し楽しそうに目を細める。
「娘なら、君に似てほしいな」
「侯爵家の後継ぎでしたら、アドリアン様に似た男の子の方がよろしいのではありませんか?」
「私は君に似た娘が欲しいと言っている」
「ですが、魔術資質を考えれば――」
「今は魔術の話をしていないよ」
「では、何のお話を?」
「顔の話だ」
迷いなく言われた。
「君に似れば、きっと可愛い」
息が詰まる。
そこまで真っ直ぐ言われてしまうと、どうしていいのか分からない。
私はこれまで、月属性としての価値を褒められたことなら何度もあった。
素晴らしい資質ですね。
良い子供に恵まれるでしょう。
きっと良い家から縁談が来ますよ。
幼い頃から、聞き慣れている。
けれど、私に似た子供なら可愛いと言われたことなど、一度もなかった。
「……旦那様は」
気づけば、初めてその呼び方を口にしていた。
アドリアン様の目がわずかに見開かれる。
「今、もう一度呼んでくれないか」
「え?」
「旦那様、と」
「なぜです?」
「聞きたいから」
意味が分からない。
けれど、断る理由もなかった。
「……旦那様」
そう呼ぶと、彼の目元がはっきりと緩んだ。
「嬉しいものだな」
「そんなにですか?」
「ああ。ようやく君と結婚したのだと実感できる」
その言い方があまりにも素直で、私は少しだけ困ってしまう。
「クラリス」
「はい」
「これからよろしく」
「こちらこそ。侯爵夫人として、できる限り旦那様のお力になれるよう努めます」
そう答えると、彼はしばらく黙った。
どうしてか、少しだけ困ったような顔になる。
「……そうだな。それも嬉しいよ」
そう言いながら、アドリアン様は私の頬へ手を伸ばした。
触れる寸前で一度止まり、私が拒まないことを確かめるように目を見てから、指先でそっと髪を耳へ掛ける。
「でも、無理に役に立とうとしなくていい」
「ですが私は月属性ですし、ヴァルモン家へ嫁いだ以上――」
「クラリス」
声は優しかった。
けれど、私の言葉を遮るには十分な強さがあった。
「私は、君に何かしてもらうためだけに妻にしたわけではないよ」
金色の瞳が、真っ直ぐ私を映している。
「君がここにいて、笑っていてくれれば、それで嬉しい」
そんなことを言われてしまったら、少しくらい勘違いしてしまいそうになる。
「……ありがとうございます」
私はどうにか笑顔を作った。
きっとこの方は、本当に誠実なのだ。
魔術資質のために嫁いできた妻へ、不安を抱かせないよう、こうして優しい言葉をかけてくださっている。
そう考えれば、すべて説明がつく。
だから私は、この優しさを愛情だと勘違いしてはいけない。
母も言っていた。
貴族の結婚に、恋を求めてはいけないのだと。
私は月属性で、旦那様は火属性。
互いの家にとってこれ以上なく都合の良い、理想的な政略結婚。
それで十分なのだから。
その時の私はまだ、知らなかった。
私たちの魔術資質が好相性だと判明したのは、アドリアン様が私との結婚を望んだ、そのずっと後だったということを。




