番外編第1話 怒った姿も
観劇の後、私たちはボックス席でホールの混雑が落ち着くのを待っていた。
「本当にすみません」
「劇の途中で寝るだなんて」
今夜の劇を私はすごく楽しみにしてたのに、ヴィルは気がついたら居眠りしていた。信じられない。すごくロマンチックな内容にうっとりして「私のヒーローは……」って横を見たら寝ているんだもの。
しかも仕事が特別忙しかったのなら許せるけど、前日うっかり読書に夢中になって寝不足だったなんて。
「ミステリーなのが良くなかった、つい続きが気になってしまって……ね、機嫌を直してください」
「私との約束より本の方が大事なの?」
ああ、言っちゃった。恋人に言ってはいけない台詞の最たるものなのに。
彼は真顔で私を見つめた。
さすがに彼も不機嫌になってしまったかも。
私は急に彼の反応が怖くなって目を逸らした。
ところが、彼がかけた言葉は思いがけないものだった。
「怒っている姿も可愛いですね」
……ヴィルはふざけているの?
私のくすぶっていた怒りが再燃した。
「ねえ、全然反省してないでしょう?」私は恨めしそうに彼をわざと睨みつけた。
「すみません、反省してます」
「あなたは他の女性と何度も来たことがあるんでしょうけど、私にはあなたしかいないの。私にとっては毎回初めてで、特別なのよ」
「そういう理由ではないですよ……本当に。男は好きな女性には甘えたいものなんです」
「居眠りするのが甘えることなの?」
「安心したというか、心地よいというか」
「そういうのは家ですればいいでしょ?」
「そういうの、とは?」
「寝るのは、ってことよ」
「あなたと寝るのですか?」
「そんなこと言ってないわよ、一人で寝ればいいでしょ」
「それは残念」
からかうような彼の言い方に私の不満は収まらなかった。そんな私をしばらく見ていた彼は突然顔を寄せて、軽く小鳥がついばむようなキスをした。たったそれだけで私の不機嫌も不満も、陽の光に当たると灰になってしまうという悪霊のように一瞬で消え去ってしまった。彼は思わず口をつぐんだ私に微笑みかけた。まったく、ずるいんだから。
「もういいわ」
私は席から立ち上がると先に歩き出した。
彼が私の横に付いて、歩きながら顔を覗き込んだ。
「怒った姿も可愛い、というのは、そういう姿を見せてくれて嬉しいということです。今まであなたは怒ったり拗ねたりなんて、ほとんどしてこなかったでしょう?」
「そんなこともないけれど……」
「ですが、我慢することが多かったはずです」
「そうかもしれないけれど……」
「だからいいんですよ。私に甘えたり怒ったりしても」
「……甘えているのはあなたの方じゃないの?」
「そうですね。でも、私はあなたに甘えてほしいんですよ」
素敵な服を沢山仕立ててもらっているし、今夜みたいに色んな所にも連れて行ってもらっている。私の生活が全て彼に依存しているといっても過言ではないくらいだ。
「……すごく甘えていると思うわ」
「そうですか? 私はもっと、こう……抱きついてきたりしてほしいんですけどね」
「それは甘えなのかしら? 愛情表現じゃなくて?」
「どちらでもいいので、態度で示してほしいです」
「……好き、よ……?」
愛情を示してほしいと言われて、私は最も直接的な方法で表したが、彼は物足りなさそうな表情を浮かべた。
「言葉より、今は態度で示してほしいんです」
作家志望だったのに「今は言葉はいい」だなんて。よっぽどなのね。
私は彼に態度で示してなかったかしら?
前は手紙を書いたり栞を作ったりしたけれど、彼の側で愛情を安心して受けている今、そういった態度で示す機会は減っていたかもしれない。彼は沢山のものを私にくれたのに、私はもらってばかりだったかも。
私たちは劇場の外に出た。夜風に当たりながら自然と家の方向へ足を運ぶ。彼の住む家は今や私の帰る家でもあった。
あまり人気のない通りに入ったあと、私は足を止めると彼の腕にかけた手に力を込めて引き止めた。彼が問いたげに振り返ったとき、私は勢いよく彼に抱きついた。恥ずかしくて彼の顔を直視できなくて、彼の胸に顔を埋めた。彼は一瞬の間の後しっかりと抱き締め返してくれた。
顔を上げて彼を見ると、すごく甘い群青色の瞳で見つめ返された。彼がそのまま顔を寄せたので私は目を閉じた。道端なのも忘れて、私たちはキスをした。
少しして唇が離れると彼が言った。
「嬉しいですけれど、もっと落ち着いたところでしたいですね」
「家で?」
「家は……家族がいますからね、なかなか落ち着かなくて」
彼は悩ましげな表情を浮かべた。
「支店へ行くのを急ぎます」
どういう意味か分かりかねて首を傾げた私に彼は優しく言った。
「はやく二人きりになれるように」
私は照れくささに少し目を伏せた後、彼を見上げて言った。
「それは楽しみだわ」
次回の番外編は1週間後の投稿予定です。




