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物語のような恋をあなたと 〜妖精は作家志望の現実家に愛される〜  作者: 井ノ上 杏
第二章

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第26話 突然の迎え

 レクシーの父親が滞在している紳士社交館に毎日報告の連絡をしても、「承知した」という短い返事が一度来たきりだった。礼も謝罪の一言もなければ、いつ迎えに来るかなんて言葉の端にも出なかった。もう七日になる。一体いつまであの父親はレクシーを放って置くつもりなのか。"紳士"が聞いて呆れる。

そもそもレクシーが心配にならないのか? まさかレクシーを忘れて一人で帰ったりしないだろうな。いくらなんでも……いや、あの子爵は全くもって信用できない。


 朝食後にレクシーと近くの公園へ散歩に行って、午後に図書館へ行こうと話すと彼女は嬉しそうにしていた。図書館なんて普通の女性は誘えないが、彼女なら好意的に受け取ってくれるだろうと思っていた。

「図書館と言っても、ただ本が並んでいる所ではなくて雰囲気があって美しいんですよ。私が旧都で気に入っている場所の一つです」

「あなたのお気に入りなら間違いないわね」

そんな会話をしながら戻ってきたとき、馬車が店の前に停まっているのが目に入ってきた。


――あの家紋はレクシーの父親だ。


 腕に添えられたレクシーの手がこわばったのが分かった。その手に私は反対側の手を添えて彼女の顔を見た。不安そうに見つめ返された瞳に、私は軽く頷いて応えた。


 馬車に近づくと中にははたして子爵がいた。私は快活に声をかけた。

「これはリンドレイ子爵、御息女の様子を見にいらしたんですね。ご覧の通り、もうすっかりお元気になられましたよ。毎日ご連絡を差し上げていたのですが……」

「ああ、礼を言うよ。面倒をかけるのは心が痛むから、アレックスを迎えに来た」

馬車から降りもせず、子爵は言い放った。

「アレックス、帰るぞ」


 私の表情が薄い笑顔を貼り付けたまま固まる。

「……本日ですか? しかし、あまりに突然ですね。……ご友人とのお約束はもうよろしいのですか?」

「ああ、あれはもういい」不機嫌に吐き捨てるように言う様子から、おおかたカードゲームで負けが込んだんだろうと推測がついた。

「アレックス、礼を……カエリム氏に」

あからさまに店の表記を確認して子爵は言った。


 名前さえも覚えられないのか。そんなお粗末な脳だから、くだらないカードゲームで擦(す)るんだ。


 傍らのレクシーを目の端で確認すると、彼女はそれまでの陽気さがすっかり失われて、信じられないというように父親を見つめていた。さすがに堪えるだろう。なんと言っても身内の恥だし、それに私への不義理に居た堪れなくなっているはずだ。

彼女にこんな思いをさせる目の前の子爵が腹立たしかった。私にだけの失礼な振る舞いなら相手にせず接する時間を最短にする。しかし、レクシーが絡んでいるからそうもいかない。


 彼女が何か言おうと口を開きかけた。


――そうだ、レクシー。


 私が側で支えるから、自分で立ってごらん。

自分のためには戦えないと感じてしまうなら、どうか私を助けると思って勇気を出してくれ。


 子爵は眉根を寄せて娘を見た。

途端にレクシーの瞳が生気を失ったように曇って、表情が消えた。

彼女の開きかけた口が静かに閉じた。


 私の願いは脆くも崩れ落ちた。


*


 さっきまで、私は美しい空想の物語の世界にいたようだった。

現実にはありえない理想の世界から急に現実に引き戻された気分。

お前のいる場所は、ここなんだって。


 父のあまりに横暴な振る舞いに、思わず言い返そうとして口が開いた。

なのに、私は何も言えなかった。


――どうせ、無駄だわ。


 彼が父に言うのが聞こえた。

「あまりに急なことで準備もできておりません。よろしければ御息女は後日、私どもの馬車でお送りします。図書館へお連れするお約束をしましたので、アレックス嬢さえよろしければ……」


 そうできたら、どんなにいいだろう。


 父は苛立たしげに返した。

「いや、商人の馬車に娘が乗って帰ってくるのは対面が悪い。もういいんだ。アレックス、帰るぞ」


 よくも恥ずかしげもなく、そんなことが言えるものだ。

ヴィルが口元を引き締めた。彼の瞳の奥に光が差した。


――ごめんなさい、ヴィル。私を助けようとしてくれたばかりに、あなたまで巻き込まれてしまった。


 彼は低い声で言った。

「……承知いたしました。お帰りの準備をいたします」

「いや、荷物は後で送ってくれればいい。乳母もその時で良い。急いでいるんだ」


 荷物や使用人は平然と送り届けさせるのに、娘を送り届けるのは対面が悪いだなんて。その見下している商人に娘の世話をさせるのは抵抗がないの? なんて都合のいい理屈なんだろう。成立してすらいないのに、父は立派な理論だとさえ思っているんだろう。


 こんな不愉快な状況から一刻も早くヴィルを解放してあげたかった。これ以上、彼に父の相手なんてさせたくない。


「ヴィル、ありがとう。もういいの、大丈夫」

「……本当によろしいのですか」彼の瞳が迷うように揺れた。

「ええ、大丈夫よ」

彼はそれ以上言わなかった。彼の納得していない様子が私には何より慰めになった。


――私のために怒ってくれているのね。


 何も言わずにヴィルはおもむろに店内に入っていった。父があまりに失礼だから、見送ってくれないのだろうか。そうされても仕方ないような仕打ちを、私たちは彼にしてしまった。


「アレックス、早くしろ」


 立ち尽くす私にかけられた父の言葉に、御者が降りてきて私を馬車に乗せるために手を取った。

そこへヴィルが戻ってきて、御者が取っていた私の手を当然のように奪い返した。彼は最後まで、誰にも恥じることのない立派な対応を崩さなかった。


「体調が気がかりですので、後日、御息女にお手紙を差し上げても?」私に手を貸しながら、彼は落ち着いた声で父に尋ねた。

「ああ、構わない」

世話になった手前、断りにくいのだろう。面倒くさそうに父は手を振った。

「恐れ入ります。それではレ(・)ク(・)シ(・)ー(・)嬢(・)、いずれまた」

父の前なのに、彼は私をレクシーと呼んだ。

いつだって配慮の行き届いた彼のことだ。うっかり呼んだんじゃないと直感的に思った。


 彼は馬車の窓越しに私の手を取ると口を寄せた。彼の瞳が何かを訴えかけるように私に向けられた。

その眼差しは「何も言い返せずにただ従うだけのアレックスに戻っては駄目ですよ」と言っているかのようだった。

何か固いものが手のひらに押し付けられる感触がした。彼は私が手の中のそれを落とさないようしっかりと指を握らせると、一度だけ強く力を込めた。


 馬車が出発した。私はできる限り振り返って彼の姿を見つめていた。

父は彼が私をレクシーと呼んだことにも、たった今、私の手のひらに何かが手渡されたことにも全く気がついていないようだった。

私は父の無関心に落胆するよりも、かえって安堵した。すぐにも手のひらの中を確認したかったけれど、父に感づかれないように手を固く握って辛抱した。どんなことがあっても、絶対にこれだけは奪われたくなかった。


 しばらくして父が船を漕ぎ始めたのを確認してから、私はそっと手のひらを開いた。手に跡がつくくらい強く握りしめられていたものは小さな指輪だった。

金色で細かな模様が彫ってあって、小さな透明の石が周囲にぐるりと埋め込まれている。私はそれをそっと指にはめてみた。

小さなその指輪は私の小指にしか入らなかった。


 私はくすりと笑った。

彼は私を妖精に例えるけど、きっと華奢だと思ったのね。私は身長も高い方で決して華奢なわけではないのだけど、彼はか弱い繊細な少女の印象を抱いているのかも。無理やり美化して彼の見たい姿を私に投影しているのではなく、私の中身がそうだって感じてくれているんだろう。


 小指でちょうどよかったのかもしれない。あまり目立たないだろうから。とても素敵な指輪だけれど、私は見せびらかすよりも、この秘めた宝物に誰にも気が付かれたくなかった。


 彼は言った。

――いずれまた。

幸せな物語の続きなんて、あるのだろうか。

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