第23話 好きなものを分かち合う
朝食の席でヴィルが言った。
「レクシーはもう植物園には行ったんですか?」
「いいえ、まだなの」
「今日の午後、行きませんか?」
「そんなに突然行けるものなの?」
「近いですから」
私は、ヴィルの仕事は大丈夫なの? と言いかけた。
でも、彼と植物園へ行けるというチャンスはあまりにも魅力的だったので、私は善意の気遣いの言葉を飲み込んで利己的になることにした。
「ありがとう、行ってみたかったの」
植物園の入園証は葉の模様が活版印刷されたカードだった。ヴィルはそのカードを懐の名刺入れに挟みこんだ。
今回は「あげましょうか」と言わないのね。ここにはあまり来ないのかしら? とても綺麗なカードだし、彼は紙の方が好きなのかも。本が好きだから栞にするのかもしれない。
もし彼も記念にしているなら嬉しい。その思い出に私も一緒に綴じ込まれているなら。
ガラス張りの大きな温室の中は、見たことのない珍しい植物で溢れていた。
「異国か想像の世界みたいだわ」私は高いガラスの天井を見上げた。
「そうですね、どこか非現実的な印象を与えます」
「それに、こんな葉、見たことないわ。すごく……トゲトゲしているのね」近くにあった鉢に入った植物を見て私は言った。
「そうですね」
「刺さったら痛そう」
彼が声に出して笑った。初めて聞いた彼の笑い声は少年みたいで、私はその心地よい響きに意識を奪われた。
「そういえば、あなたは薔薇の棘も刺さっていましたね」
「これは、あれより痛そうよ」
「刺さる前提なんですね」
「刺さりたくはないわ。でも、私はうっかりしているから」
「では、刺さらないように気をつけて先に進みましょう」
彼は自身の腕に添えられた私の手を、なだめるように優しく叩いた。
温室は広くて、見て歩くだけでも結構な時間がかかった。
「ほどほどにして休憩しましょう」
「まだ外を見ていないわ」
「無理は禁物ですよ。それに、もっと見たいと思うくらいで止めるのが良いのかもしれませんね。次の楽しみになりますから」
「でも私はそう簡単に来られないのよ」
「ここに滞在されている間はいつでも来られますよ」
どのくらい彼の元に滞在できるのだろうか。彼にそんなに甘えていていいのだろうか。本当はすぐにでも出ていくべきなのに。
そういえば、お父様はなんて返事をしてきたのかしら。一体、いつ迎えに来てくれるのだろう。
でも、今は嫌なことを忘れて幸せな気分に浸っていたかった。
私たちは植物園の中にあるカフェでお茶をしながら休憩することにした。
「ああ、どれにしよう。好きなのはこれだけど、こっちも初めて見るケーキだから興味あるわ」
悩む私を彼は優しく微笑んで眺めていた。もし私の家族と来ていたら、きっと「早く決めろ」って言われることだろう。
「気になるものを全部頼めばいいですよ」
「そんなに食べられないかもしれないわ」
「私も手伝います」
「あなたは甘いもの、お好き?」
「まあまあですね。甘ったるいのは少し苦手ですが。確かこの店のはどれも甘すぎなくてちょうど良かったように記憶しています」
「お父様は甘いのは嫌いなの。男性も甘いもの食べるのね」
彼は飄々とした態度で言った。
「男だって甘いものが好きでもいいじゃありませんか?」
「そうね」
彼はスマートな仕草で店員を呼んだ。横柄でもないしおどおどもしていない。いつも落ちついていて簡単なことでは動じないという安心感がある。
考え方もそうだ。強く否定したりしないし、適当に合わせたりもしない。何に対してもちゃんと彼の考えがある。かといって、それを他人に押し付けることもない。
彼といると心地よくて、なにより、自分のいい面が伸ばされるような感覚を抱いた。自分のことがちょっと好きになれるような、そんな感じ。
店員に注文し終えた彼がふいに言った。
「私は父親みたいですか? そこまで年上じゃないと思うのですが」
「そういう意味じゃないの。身近で比較になる男性が父しかいなくて」
「……ビリーがいるじゃないですか」
「彼は比較にならないわ。男性っていうか、友達?」
「そういうものですか」
彼は片眉を上げて少し不思議そうな表情を浮かべた。
彼は前にもこのお店に来たことがあるみたいな口ぶりだった。優美でかなり女性向けのお店な気がする。男性客もいるけど、皆、女性と一緒だし。一人で来たり……なんてことないわよね。ということは、やっぱり女性とよね。お客さんとの付き合いとか? いや、そんな誤解を生みそうなことを慎重な彼はしないだろう。ということはやっぱり……。
せっかく素敵なお店で素敵な男性と素敵な時間を過ごしているというのに、濃すぎるコーヒーのような苦みが私の胸に広がった。
「ビリーの正式名は何ですか?」突然の彼の質問に私は意表を突かれた。
「え? ビリーはビリーでしょう」
「そんな訳は無いでしょう。何かしらあるはずですよ、ウィリアムとかウィルフレッドとか」
「何だったかしら、ビリーってずっと呼んでいたから」
「……私の正式名は覚えていますか?」
「ヴィリバルトでしょ?」
「そうです。それは覚えていてくださったのですね。彼の家名は?」
「家名?……ブリッグスだったと思うわ。彼のお父さんも馬丁だったんだけど、お父様にブリッグスって呼ばれてたから」
「私の家名はご存知ですか?」
「カエリムでしょ。さっきから何? 何かのテストなの?」
「いえ、別に」
口元に手をやって彼は目を逸らした。指の隙間から見えた口元はなんだか少し笑ってたような気がした。
田舎ではお目にかかれないような洗練されたケーキと紅茶のセットが運ばれてきて、私は小さく歓声を上げた。
「さあ、お好きなものをお好きなだけどうぞ」
「まあ、夢みたいね。でもあなたが残り物じゃ悪いわ」
「構いませんよ。もし足りなかったら、また注文すればいいんですから」
「そういう手があったわね」
「いつでも手立てはあるものです」
彼がそう言うと不思議と心が軽くなる。自然と大丈夫だって思える。
私は全部のケーキを半分に切って皿に取り分けると、彼に差し出した。
「はい、あなたの分」
彼は少し驚いたみたいだった。
「ご令嬢自ら取り分けていただいて、恐れ入ります。よろしかったんですか?」
「だって色々試してみたいじゃない? これが美味しい、とか言いながら一緒に食べるほうが楽しいもの」
「そうですね」彼は目を細めて穏やかに私を見た。
「お嫌いなもの、あったかしら?」急に心配になって私は彼に尋ねた。
「いえ、長所でもあるし短所でもあると思うのですが……私はとても好きとか、どうしても嫌いというものが、ほとんどないんです」
「たぶん、長所なんじゃないかしら」
「そうだといいのですが。ところで、レクシー、あなたは私のことを名前で呼びませんね」
「ヴィリバルト、って?」
「いえ、『ヴィル』ですよ」
「呼んでなかったかしら?」
「いつも『あなた』と呼んでいます。せっかく決めていただいたのですから、使わないともったいないのでは?」
あだ名を使わないのがもったいない、なんて表現が可笑しくて私は声を上げて笑った。
「そうね、わかったわ。ヴィル」




