第21話 どうしても届かない本
私たちは美術館を出て通りを歩いていた。
「芸術は日常で溜まった澱を洗い流してくれるように感じられるんです。これで、また明日から澱んだ世界を生き抜いていけそうですよ」
そう言って、天を仰いだ彼の表情は晴れやかだった。
彼の影のある表情は、日々溜まった世間の塵のせいだったのかもしれない。彼の鋭い感受性はその淀みを全然感じないわけにはいかなくて、そこに染まらないように自分を保とうとしているように思えた。私が何かしたわけじゃないけれど、その塵を払う一端に関われたことが嬉しかった。
「あなたは美術や本がお好きよね。そういう道に進みたいと思ったことはないの?」
「絵も本も見るだけで……学生の時は作家になりたいと思ったこともありますが」
「わあ、素敵」
「と言っても、読むのは好きなんですがしっかりと書いたことがあるわけではなくて」
「でも、なんとなく似合うわ」
「そうですか?」
「あなたは”薄幸の文学青年”みたいな感じがするもの」
「薄幸、ですか」彼が情けなさそうに笑った。
「失礼でしたわね。私は『悩みがなさそうでいいね』ってよく言われるものだから、つい影のある感じに憧れてしまって」
「私は影がありますか?」
「私ったらまた失言してしまったのね、ごめんなさい。上手く言えないけれど、あなたの雰囲気が羨ましくて。私にはないものだから」
「褒め言葉と受け取ってよいのですよね?」
「ええ、もちろん」
「ならば、ありがとうございます」
私はふと思いついて尋ねた。
「作家と商人はあまり繋がらないわね。どうして家業を継ぐことに?」
「他に誰もいなかったからです」
あまりにはっきりと言い切る彼に、私は二の句が継げなかった。
「弟たちはやりたいことがはっきりしておりましたので。……私は心血を注げるようなものが見つけられなかったのです。弟ほど数学は得意ではありませんが、数字は嫌いではなかったので家業の商売を継ぐか、ということになりまして」
「弟さんは数学がお好きなの?」
「レイのことなんですが、好きというより彼にとって数学は思考の道具のようですよ」
「道具? 数学が?」
「レイはまだ学生なんですが、数学者志望というほど傾倒してはおりませんね。彼にとって数学はあくまで数式を使って深く思考するための道具なんです。まあ、その美しさには気がついているようですが」
「……美しい?」私は自分の耳を疑った。
彼は大真面目に言った。
「そうですよ、数学は美しいと思いませんか?」
「美しいと言う言葉は絵画などに使うんじゃないかしら?」
「なんと言いますか、機能美と言えるかもしれませんね。複雑な事象も一つの数式で表せるのは美しいと思いませんか?」
「正直よく分からないわ。あなたの方がレイフォードさんより数学者に向いているかもしれないわね」
「美しさが分かっても、あいにく追求するほどの能力は持ち合わせていなかったのです」彼はどこか寂しそうな表情を浮かべた。
「なかなか難しいわね……私も絵画を見たり音楽を聞くのは好きだけど、絵も演奏も上手くないの。そういう感じかしら?」
「ええ、似ていると思います」
「その気持ちならよく分かるわ」
「それに数学は便利ですよ」
「便利?」
「データを元に当てはまる数式を作れば、予測することができるんです」
「ちょっと難しくて、どういうことか分からないわ……」
「……これは我々だけの秘密にしていただきたいのですが……過去の売り上げから翌年の売り上げが予測できるんです。あと、毎年同じタイミングで売れやすいものも予想できます。他にも色々あるのですが……まあ、何かと便利なんですよ」
彼はあの食えない笑顔を私に向けた。
彼はお金を儲けたいというより、自分で分析して予測し、その読み通りになるのを楽しんでいるように見えた。お金に囚われているのではなく経済の流れを読んで上手くそれに乗っているのだろう。荒ぶる波を見極めながら船を進める航海士のように。
「もう一人、弟さんがいらっしゃったわね」
「ええ、まだあなたにはお会いしてませんが。こちらは数学も文字も苦手で」
「お気持ち分かりますわ」
ふいに言い淀んだかと思うと、彼は言葉を選びながらゆっくりと話した。
「いや……どうでしょう……彼は、本当に苦手なんですよ」
「どういう意味ですの?」
「学生の頃に勉強を見てやったことがあるんですが……何と言いましょうか……本当に、苦手なんですよ」
「私もですわ」
「でも、手紙も書けるし本も読めるでしょう?」
「それはそうですわ」
「そこが違うんですよ」彼はなんとも表現しがたい顔をしていた。強いて言うならば、もどかしさと少し寂しさの入り混じった表情だった。
「……その弟さんは、本当に文字が書けないんですか?」
「一応書けますよ。でも、しょっちゅう間違えるし抜け落ちるし、読むのも非常に苦労するんです」
「……子どもではないんですよね?」
「成人してますよ。レイより年上ですから」
「……」
言うべき言葉が見当たらない様子の私に、彼は困ったような微笑みを向けた。
「どう伝えれば分かっていただけるかな。そうだな……例えば、私があなたに『本を書斎から取ってきてください』と頼んだら、あなたは『できない』とは言いませんよね」
「ええ、それくらいできるもの」
「でも、その本が本棚の非常に高い所にあって、あなたの身長ではとても届かない。しかも踏み台も椅子もない。そうしたら、あなたはどうしますか?」
「『できない』って言いますわ」
「どうして?」
「だって、届かないものはどうしたって無理ですもの」
「まあ、そういうことです。『書斎から本を持ってこられない』と言ったら、普通『そんなこともできないのか』と思われてしまいますよね。でも、どうやっても届かない所にあって何の補助も許されていなかったら、無理なものは無理です」
「……真ん中の弟さんにとっては、文字がそういうことなんですか? 今、あなたがおっしゃった”届かない本”のような」
「そうです」
「少しだけ……分かった気がするわ」
「身長ならいいんです。見た目で無理だと分かりますから。これが”見えないもの”だと、理解してもらうのに非常に苦労するんですよ」
彼は淡々と言った。周囲の無理解を責める様子も弟を憐れむような様子もなかった。
「……そうでしょうね。その弟さんは今も苦労なさっているの?」
「いや、彼は軍人になりました。いい選択だったと思います。体格に恵まれていますし記憶力や判断力はかなりいいので、出世してますよ」
「ああ、よかった。今も辛い思いをなさっていたらと思うと胸が痛くて」
「弟のために胸を痛めていただいて、恐れ入ります。人それぞれ色々な長所や短所を抱えているのですから、無理なものは無理をせずに環境を変えればいいんです。自分を壊してまで環境に合わせることはない。世界は広いのですから」
――自分を壊してまで。
私の心にその言葉が響いた。私は冷たくされているあの家族の中で無理をしているのかしら。
だって、家を出て女一人で生きていくことなんてできる? できるかもしれない、そういう人もいる。でも、私はそもそも本気で考えたことがなかった。自分で環境を変えるなんて、私にできるのだろうか。
「……弟さんは勇敢ね。私だったら心が折れてしまって、いじけてるだけかもしれないわ」
「確かに非常に勇敢な男です。その点は私も尊敬しています。誰にでもできることではない。……だが、彼も調子に乗ったり思慮が足りないときがあるんですよ。不完全だから愛すべき存在なのかもしれませんね。完璧な人間ではつまらないでしょう?」彼は首を傾げて私に微笑みかけた。
彼の人間に対する鋭い分析と慈愛のような優しいまなざしが、私にはとても大切なものに感じられた。まるで庭であまり見かけない綺麗な蝶を見かけたときみたい。心をほのかに明るくしてくれる、私だけの特別な喜びのようだった。




