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9/22

 病院の廊下は、やけに白かった。蛍光灯の光が床タイルに冷たく跳ね返り、視界の奥まで白く塗りつぶしている。消毒液の匂いが鼻の奥に染みつき、息を吸うたびに肺の底まで冷たい空気が落ちていく。


 コツ、コツ。靴底の音だけが響いた。静まり返った廊下では、その音がやけに大きい。まるで、自分の心臓が床に落ちて転がっているみたいだった。


 今日は彼女の定期検診の日だ。陽菜のお母さんが言っていた。


「今日は定期検診なの」


 それだけ言って、少しだけ目を伏せる。


「……本人から聞いてあげて」


 俺は頷いた。誰かの言葉で整えられた真実を、先に聞く気にはなれなかった。




 診察室の並ぶ廊下を抜け、中庭の見える待合スペースに出る。午後の光が窓から差し込み、白い床にやわらかく広がっていた。窓際の椅子に、彼女は座っていた。本を開き、指先でページをなぞっている。その静かな仕草だけが、午後の光の中でゆっくり動いていた。


 横顔は、いつも通りだった。少なくとも――死を待つ人間の顔には見えない。けれど。俺の足は、そこで止まった。見えない線が床に引かれているような気がした。この一歩を越えた瞬間、俺の世界は元には戻らない。そんな予感がした。


「……先輩」


 彼女が顔を上げた。いつもの笑顔だった。でも、その瞳の奥には、俺の知らない時間が静かに積もっていた。


「私、子宮頸がんなんです」


 声は、驚くほど平坦だった。今日の天気を言うみたいに。


「余命宣告、されました。あと数ヶ月生きられるかどうからしいです」


 胸の奥に、重いものが落ちた。鉛の塊みたいに沈んでいく。喉が乾く。言葉が出てこない。気づけば、俺の指は椅子の背を強く握っていた。


「でもね」


「先輩が来ると、身体の調子が良くなるんですよ」


 彼女が少し笑う。いたずらっぽい笑顔。けれど、その端がほんの少し震えていた。


 俺は椅子を引き寄せて座った。金属の椅子が小さく軋む。その音が、やけに耳に残る。あの日。俺が吐き捨てた言葉。「暇つぶし」。その破片が、まだこの空間に刺さったまま腐っている気がした。


「私ね、決めたんですよ」


 彼女は窓の外を見ながら言った。


「調子がいい日は、外に出るって」


「美味しいもの食べて、映画見て、脱出ゲームして」


 小さく笑う。その笑いは、風に散る枯葉みたいに軽かった。


「だから最後の最後まで、学校にも行くんです」


 胸の奥が少し痛んだ。彼女は残りの時間を恐れていない。むしろ貪るように生きようとしている。俺とは、真逆だった。


 彼女がふと、髪に手をやった。指先がウィッグの縁を撫でる。一瞬の迷い。それでも彼女は、ゆっくりそれを外した。黒い髪が膝の上に落ちる。息が止まった。剃られた頭皮が、蛍光灯の光にさらされる。やけに白かった。


 それでも彼女は、少し照れたように笑った。


「びっくりしました?」


 ウィッグを指でくるくる回す。


「抗がん剤ってすごいんですよ」


「びっくりするくらい抜けるんです」


 彼女の指が、髪を撫でる。失われたものの残骸に触れるみたいに。


「……でもね」


 声が掠れた。


「最初は、ちょっと落ち込みました」


 肩が小さく震える。寒さじゃない。もっと深いところから来る震えだった。


「でも先生に言われたんです」


「抜けるってことは、薬が効いてる証拠なんだからって」


 沈黙が落ちた。


「……でも」


 彼女の声が細くなる。


「夜とか……静かなとき」


 視線が宙を彷徨う。


「このまま消えるのかなって思うと……」


 息が震えた。


「やっぱり、怖いです……先輩」


 その声は、子供みたいだった。助けを求める声だった。


 胸が締めつけられる。俺は今まで、彼女だけに怖さを背負わせていた。でも今、同じ棘が俺の胸にも刺さっている。


「でも先輩」


 彼女がまっすぐ俺を見る。


「どんな人として生きたいかは」


「がん患者かどうかなんて関係ないと思うんです」


 小さく息を吸う。


「私は……音楽だったんです」


 指先が、俺の手に触れる。


「幹也先輩の音楽だったんです」


 胸の奥が揺れた。


「覚えてますか。去年の文化祭の日」


 忘れるわけがない。


 体育館の喧騒が遠くに聞こえる中、音楽室は真空のように静かだった。窓から忍び込む秋の風が、埃と枯葉の乾いた香り、そして遠い焼き芋の甘い煙を優しく混ぜて鼻をくすぐった。床の冷たさが素足の裏に静かに残っていた。


 俺はギターを抱え、弦を激しく掻きむしっていた。金属の冷たい感触が指先から骨の髄まで響き渡り、音は乱暴で、怒りと虚無に満ち溢れていた。


「私、見てました。ドア、少し開いてたんです。先輩、怒ってるみたいな顔で弾いてました」


 彼女は小さく、しかし優しく笑った。


「音、すごく乱暴でした。でも……すごく、生きてる音でした」


「私、その日、学校が嫌になってて。私って、いなくてもいい人間なんじゃないかって思ってました」


「でも先輩の音を聞いて思ったんです。こんな風に生きてる人もいるんだって。だから私も、もう少し生きてみようって思えました」


「私の人生、あの音に救われたんですよ」


「だからこそあの時、人生は暇つぶしなんて言って欲しくなかったんです」


 その言葉が胸の奥深くを鋭く抉った。指が弦を強く握りしめ、爪がめくれ上がりそうな痛みが走る。俺はただ自分の無意味さを、叫びのような音で吐き出していただけだった。それなのに、この少女の人生は、俺の暗い叫びに静かに救われていた――そんな残酷な逆説が、心を重く締めつける。


 静かな沈黙が落ちる。彼女はしばらく窓の外を見ていた。


「先輩」


 小さな声。


「私……」


 言葉が止まる。唇が震える。


「本当は」


 膝の上で、指がぎゅっと握られた。


「もっと生きたかったんです」


 静かな声だった。叫びでも、泣き声でもない。ただ零れ落ちた本音だった。


「普通に卒業して」


「大学とか行って」


「友達と旅行とかして」


 少し笑う。


「……恋とかして」


 その言葉が、胸の奥に刺さった。


「そういうの、全部できると思ってました」


 沈黙。中庭の風の音だけが聞こえる。


 彼女はゆっくり顔を上げた。涙が頬を伝っていた。それでも笑う。


「でも」


 小さく息を吸う。


「私……がんも私の一部だから」


「憎むより、愛することにしました」


 涙が落ちる。でも彼女は笑った。


「先輩」


 震える声。


「どうせ終わるなら」


 俺の言葉をなぞるように。


「世界で一番贅沢で」


「一番美しい暇つぶしを、したいんです」


 そして言った。


「文化祭、一緒に音楽やりませんか」


 少し息を吸う。


「先輩」


 瞳が強く光る。


「私、歌いたいんです」


「幹也先輩の音楽で」


 胸の奥で、何かが燃えた。


 俺はゆっくり息を吐いた。言葉が自然に喉から零れ落ちる。


「……人生に意味はないよ。だって暇つぶしだから。悪い意味じゃない。あの時は言葉足らずだった。暇つぶしだからこそ、今を楽しまないと。義務的にやらなくちゃに なっていたら、ダメなんだ」


 彼女の瞳をまっすぐ見つめる。心臓の音が、耳の奥で鳴っていた。


「心が自由じゃなければ、どんな野山に放たれても自由じゃない。……君はどうしたい?」


 彼女の指が、俺の手を少し強く握り返してきた。俺は続ける。


「大人に褒められるようなバカにはなりたくない。俺が憧れたロックバンドの人の言葉だけどさ、『ガンバレはロックでは禁句』なんだよ。この前提の上で、俺は言うよ。……君には必要だろ? がんばれ、陽菜」


 彼女の目が、驚きと、それ以上の光で揺れた。


 俺は少し間を置いて、静かに続けた。


「俺にとっては……音楽は人生なんだ。俺の唯一のコミュニケーション手段とも言える。言葉じゃ伝えられないこと全部、音でぶつけるしかできないような人間だよ。


 がんになる前の陽菜は見てないけど……今の方がずっと幸せそうに見えるよ。あの笑顔、頭が剃られているのに、なんかすごく輝いてる気がする。


 挑戦してる人を応援してる人って、結局自分も何か挑戦してるよな。それが連鎖して、もっと強くなる気がする。文化祭で、そんな流れが生まれたらいいと思う。だから俺も、本気で一緒に音楽を作るよ。


 大切な人を亡くす気持ち以上に怖いものなんて、ないんだから……もう逃げない。


 たとえ、体の一部分がなくなっても、俺の気持ちは変わらない。いつまでもそばにいるよ、陽菜。」


 言葉が終わった瞬間、陽菜の瞳が、ゆっくりと水を湛えた。


 最初は、ただ静かに。まるで、長い間閉じ込めていた何かが、ようやく隙間を見つけて溢れ出したかのように。彼女のまぶたが震え、透明な雫が一筋、頬を伝う。次の一滴が落ちる前に、彼女の唇が小さく開いた。息を吸う音が、かすかに掠れる。


「先輩……」


 声は、ほとんど息だった。けれど、そこに詰まっていたのは、痛いほどの喜びと、底知れぬ感謝だった。彼女の指が、俺の手を掴む力が、ぎゅっと強くなる。骨が軋むほどの力。まるで、この瞬間を逃したら、二度と触れられないとでもいうように。


 彼女の肩が、小刻みに震え始めた。剃られた頭の白い皮膚に、午後の光が冷たく反射しているのに、その震えは温かかった。涙が、次から次へと溢れ、彼女の膝の上に落ちる。ウィッグを握ったままの指が、白く血の気を失っていく。


「うれしい……本当に、うれしい……」


 彼女はそう繰り返す。声が、嗚咽に変わるたび、胸の奥で何かが引き裂かれる音がした。俺はただ、彼女の顔を見つめていた。そこに映るのは、がん患者の顔でも、余命宣告を受けた少女の顔でもなかった。ただ、誰かに心の底から受け止められた、純粋な人間の顔だった。


 その瞬間、俺の視界が、ぼやけた。


 喉の奥が熱くなり、息が詰まる。胸の奥で、鉛の塊が溶け出すように、熱いものが一気に広がっていく。俺の目頭が、じわりと濡れる。最初は我慢した。指で拭おうとした。けれど、陽菜の涙があまりにまっすぐで、俺の心の壁を、音もなく崩していく。


 一滴、二滴。俺の頬を、温かいものが滑り落ちる。味が、塩辛い。病院の消毒液の匂いと混じり合い、喉の奥まで染み込んでいく。


 俺は泣いていた。陽菜の涙に、引きずられるように。彼女の喜びが、俺の胸に直接流れ込んでくるみたいに。音楽室のあの日の弦の痛み、彼女の「救われた」という言葉、すべてが、今この涙に溶け合って、溢れ出していた。


 待合スペースの静けさが、二人分の嗚咽を優しく包み込む。中庭の風が、ガラス越しに小さく囁く。陽菜は、泣きながらも、笑っていた。俺も、涙を拭うことなく、ただ彼女の手を握り返していた。


 どうせ終わる人生なら。世界で一番贅沢で、一番美しい暇つぶしをすればいい。俺たちは、それを音楽でやる。死の影を背負いながら。


 それでも音を鳴らし、歌い、意味のない人生に、たった一度の煌めきを刻むために。


 今、この涙が、その最初の音だった。

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